イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

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2011年 10月 26日

   ・・・ パラッツォ・ドゥカーレ・ディ・ヴェネツィア その4 ・・・

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       先回は字数制限に引っ掛かり途中で切れました
       セレニッシマ・いとも高貴な、ヴェネツィア共和国政府の中枢、
       ドゥカーレ宮の最後のご案内
       どうぞ、よろしくお付き合い下さいませ!

       上は、ドゥカーレ宮の南西の角部分ですが、
       1階部分にはアダムとイヴの像があり、
       2階の角には裁きの女神がいて、

       この2階のロッジャを内側からという事で続きを・・、
       先回の最後、途中で切れました話の後半ですが、
       ヴェネツィア65代ドージェ、
       34年に渡る最長在任のフランチェスコ・フォスカリ、
       今回はその一人息子の話をどうぞ。

       こちら、やはりアイエスの絵で。
       息子ヤーコポが、父に別れを告げる場面で、
       ドージェは既に80歳を超える老齢、息子は遠島投獄に。
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       ヤーコポ・フォスカリ・Jacopo は、
       父親が再婚しての息子で1416年頃、父親43歳の時の生まれ。
       6歳の時に父はドージェの位に、22歳の時に兄がペストで死亡、
       となるとまさに一人息子で、他人には大変厳しい事で有名なドージェは、
       逆にその息子には溢れるほどの愛情を注ぎ、立派な教育も。

       1441年のヤーコポの結婚式には、私的な事に関わらず
       ドージェのお召し船ブチントーロを花嫁の迎えに出したり、
       2週間以上に渡るサン・マルコ広場の祝いのお祭り騒ぎは、
       ヴェネツィアの市民に強い印象を。

       ヤーコポの名は22から28歳にかけ議員名簿に載るものの、
       いつも取り消しの線付きで、つまり長続きしなかったのですね。
       頭が良く快活で豪奢な生活を愛し、ただ政治的センスと
       自分の立場を認知する意識が欠けた、慎重さが不足の若者とでも

       こうして1445年、外国の君子との共謀の疑いで10人委員会は
       彼の投獄を決議、その気配を察するやトリエステに逃亡。
       どうやらこれには一家が噛んでいたようで、
       ここまではまぁ息子の不祥事程であったのが、
       ドージェ選出時の対抗者であったピエトロ・ロレダン
       彼は選挙に敗れた後、毒を盛られて死亡しているのですが、
       その甥のフランチェスコが、政敵を蹴落とす良きチャンス
       とばかりに乗りだして来ます。

       この辺りの成り行きは、「ふたりのフォスカリ」として
       バイロンが描き、後にヴェルディがオペラにしており
       後の研究者の見方も、ロレダン家のフランチェスコ、
       そしてロレダン一家の政敵に対する冷たい計算
       働いていたもの、という事で一致する様子。

       但し、まるでない物をでっち上げた訳ではなく
       つけ込まれる軽率さを持っていたヤーコポの悲劇とでも
       言えましょうか。

       こうして始まったフォスカリ家の苦痛、ヤーコポの追放劇は、
       終わると思うとまた別件が起こり逮捕遠島と、
       10年以上に渡って都合3回も起こったのですね。
       最後は拷問にかけられつつも無実を主張、決定的な証拠がないと、
       1456年7月にクレタ島への遠島収監の判決に。

       アイエスの絵は、最後の父子の別れでしょうか。
       こうして、ヤコポはクレタ島で1457年1月に死亡、
       その知らせが遅れてヴェネツィアに届きますが、
       84歳になる父親には、さぞや残酷な知らせだったでしょう。
    
       既に晩年はドージェとしての公務にも関心が薄れ、
       会議にも欠席する事が多くなっており、
       遂に、高齢により公務に支障をきたすを理由に、1457年10月19日
       10人委員会は彼の罷免を決定し、通達。

       それまでに何度か彼自身が辞職願を出し、
       その都度却下されていたにも関わらず、この時彼は拒否します。
       大評議会の認可が欠けているという理由ですが、
       尚も10人委員会はごり押しを。
       この時の通達者には、かってドージェ選抜選挙で争い、
       負けて後毒殺されたピエトロ・ロレダンの息子ヤーコポが。

       10月22日に再度罷免通告、8日以内に官邸を退去する事、
       財産は没収する旨を告げられますが、

       翌朝まだ寝ている所を起こされ、ドージェの角型の冠コルノを取り上げられ、
       ドージェの指輪もへし折られ、なすすべもなく、
       自分の家の修復が済む間、ドゥカーレ宮に居残るのみ、
       こうして遂に24日、立ち去ります。

       6日後の10月30日 ヴェネツィアは新しいドージェ、
       パスクワーレ・マリピエーロ・Pasquale Malipiero を選出
       そしてフランチェスコ・フォスカリ84歳が
       息を引き取ったのは11月1日の明け方。 
       この知らせは新総督を議員をも困惑させますが、
       国葬で送る事が決定、未亡人が遺骸の引き渡しを拒むという場面も
       ありましたが、結局ドージェの衣服を纏った国葬に

       1人息子であったヤーコポには2人の息子、
       そして2人の娘がいたそうですから、
       以前ご案内したブレンタ川沿いのあの美しいヴィッラ、
       ラ・マルコンテンタを造ったフォスカリ家の兄弟は
       彼の子孫という事になりますね。
       
       フォスカリ家のこの2人の悲劇的な逸話の後、
       政治的に一線に出る事は無かった、といいますが、
       財政的には大変裕福なヴェネツィアの貴族で継続した様子。

       ヴィッラ・フォスカリ、または、ラ・マルコンテンタ
       http://italiashio.exblog.jp/14731966



       では「ドゥカーレ宮秘密の行程」にご案内を
       ですが写真厳禁、しかも7.8人の少人数でして隠れ様もなく、
       写真はガイド・ブックとサイトからでどうぞ。
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       中庭から「金の階段」を上った3階の四角いロビー、
       ご案内のその1で見て頂いた扉ですが、
       あの扉から「秘密の行程」が始まります。
       では、いざ!

       扉の内には狭い通路があり、これまた狭くて大変急な階段を上ると、
       中庭から見える4階の窓の内に、薄い木の壁の小部屋、
       小さな机の置かれた本当に質素な部屋が幾つかあり、
       これらの部屋にドージェの公証人、司法官たちの助手、
       そして膨大な記録庫の管理人達が働いていたのですね。

       少し脱線しますが、ヴェネツィア共和国の記録庫の量の凄さというのは、
       確かヴァティカンの記録庫、ウィーンのハプスブルグ宮廷に次いで
       3番目を誇る膨大な記録量で、これを齧るネズミ達が最大の敵。
       で、その為に猫達を増やしたのだとか。
       ヴェネツィアで今もたくさん見かける猫ちゃん達は、
       単に港町特有の猫の存在ではなく、かってはお国の機密保持に貢献した、
       エゲレスとかいう国の首相官邸の猫の様に、働かずにただ飯を喰らうのとは違う、
       ははは、お偉い猫ちゃん達の末裔なのですぞ。

       つまり、ドゥカーレ宮のこの隠れた部分に、
       ヴェネツィア共和国の行政管理人たちが控えていたのですね。
       彼らは貴族ではなく、市民・チッタディーノと呼ばれる階級出身者、
       任官されると終身で、お給料も大変良く、貴族と同じ特権にあずかり、
       但し評議会での投票権は持たず、その死去に際しては国葬、
       またはドージェと大司教出席で送られたのだそう。

       ここは最高書記官・Cancelleria superiore の部屋、
       ちょっと船室を思わせる部屋でしたが、
       この手前の一段高い所に長テーブルが置かれ、
       こちらで助手たちが仕事をしていたのだと。
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       両脇にずらっと並ぶ箪笥様の物に、それぞれ紋が見えますが、
       代々の書記官の物だそう。
       ガイドの説明通り、彼らは元々市民階級の出で、
       ここに至って初めて紋を持つ訳で、
       その図柄は至って単純、姓名からの直訳的な柄が多く・・、はは。

       ご覧の通り天井が大変低く、
       既にドゥカーレ宮の屋根、鉛の天井の下とあり、
       夏は暑く冬は寒く、仕事環境は良くなかった様ですね。
              


       この写真はサイトからの拝借で、
       4階ではなく、その半分下の階の部屋だったと思いますが、
       ・・上がって下がって記憶も揺れ、済みまへん、
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       つまり部屋の内部の人間には、箪笥、壁と見せかけた隠し部屋というか、
       隠された出入り口というか、
       写真では結構広く明るく見えますが、狭く暗い物。



       これ以降の写真3枚はガイドブックから。

       4階の行程のここは監獄部分
       カザノヴァが最初に入れられた、という部屋内部も見ましたが、
       頭を打ちつける程の天井の低い狭い細長い部屋だったと。
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       ちょっと見え難いですが、写真左端に見える扉のカンヌキ
       このL字型にご注目願っておきまして・・、



       お待たせいたしました、こちらが拷問室
       はい、これだけ!
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       ヴェネツィア共和国政府は代々、緩やかな穏やかな拷問、
       そう言う言葉が通るのであれば、柔らかい拷問を使い、
       映画で見る様な凄惨流血はありませんで、
       3階からの写真で見て頂いた、
       屋根に飛び出た天窓から吊るされた長~~いロープに、
       後ろ手に縛った容疑者を吊るし上げたのですね。

       まぁ殆どは、このロープを見た時点で容疑を認める、
       白状する、という有様だったそうですが、
       それでも上記した様に、フォスカリの息子ヤコポもこの拷問に。
       そして使用も徐々に減り、16世紀以降は無くなったとの事。



       こちらは、屋根に飛び出している天窓を中から。
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       17世紀になってドゥカーレ宮の東に、
       運河を挟んで新しい監獄の建物が造られ、
       その内部の様子は、その2で見て頂きましたが、
       ドゥカーレ宮内部にも、牢獄が2種類ありました。
       一つはポッツォ・井戸と呼ばれる地下の湿った牢、これは最悪!

       も一つは鉛の天井下のピオンビ、まさに鉛と呼ばれる部分で、
       ここには6つか7つの部屋があり、異端審議会、または
       10人委員会の審議を待つ者が入れられたのだそう。
       ドゥカーレ宮の鉛の板で葺かれた大屋根、
       それにカラマツの板の層を釘で打ち付けた屋根裏の下の牢、
       脱獄不可能と言われたこの牢は、夏の暑さは耐えられない程で、
       実際この秘密の行程も、夏季のお昼には無いのだそう!


       1755年7月26日夜一人の男が逮捕され、このピオンビ・Piombiに。
       はい、稀代の女誑しとして名が残るジャコモ・カザノーヴァ
       Giacomo Casanova 30歳の時。
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       ですが彼はパドヴァ大学で勉学した、単なる女誑しではない
       深い教養を持ち、哲学科学にも通じ作家としても優秀な男。
       彼については、ウィキぺディア・イタリア版に模範とされる
       記事もあるのですが、ここでは大いに絞りまして、
       このピオンビからの脱獄の逸話についてのみ記しますね。

       ピオンビに収監され脱獄した模様を、彼は簡潔な文体、
       深い観察に満ちた記述で残しており、
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       Fondazione Musei Civici Venezia というサイト
       http://www.museiciviciveneziani.it/frame.asp?pid=329&z=2&tit=Percorsi%20e%20collezioni       
       からの図版、資料も含めて簡略にご案内を。

       
       図をどうぞ。ドゥカーレ宮の5階部分で、
       数字10の部屋に彼は初めに収監されます。
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       スパイ容疑と幾人かの貴族を籠絡したという容疑で、
       最初はピオンビと知って仰天した彼もすぐに自分を取り戻し、
       脱獄計画を練り始めます。
       自分の監房を出て、11の部分で散歩する許可を貰い、そこで
       上でご注目を願った鉄のカンヌキ、大きさはあれほど大きく無かったと
       思いますが、を見つけ、内緒で自分の牢に。

       翌年8月の末、床に穴を開け、翌日脱獄実行という所で
       突然に部屋替えが行われ12の部屋に。

       穴は発見されますが、多分獄吏に金銭も使い、
       上部に通告されるのは免れるものの監視は厳しくなり、
       再び同じ手は使えない事に。

       ここで運が良いというのか、同じ監獄仲間の司祭と
       知り合い、彼の部屋は13、
       9月29日獄吏を通してカンヌキを彼に渡す事に成功、
       司祭は8日間で天井に穴を開け、
       昼間はそこに聖画を貼りごま化したとか、
       2重になっていた天井によじ登り天井裏を歩き、
       10月16日カザノヴァの牢との境の壁を破ります。
       そして10月31日カザノヴァの部屋の天井に
       穴を開ける事に成功、カザノヴァも天井裏に。

       こうして2人でドゥカーレ宮の鉛の屋根覆いを破り数字15
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       屋根を伝い、今度は天窓を破り中に入り込み16、
       狭い階段を下り17、 もひとつ階段を下り、
       18の上で写真を見て頂いた最高書記官の部屋にまで。
       部屋に鍵は掛かっていた物の、またもやカンヌキを活用して
       なんとか穴を開け、階段を2つ下り19、
       20の秘密の行程入り口のロビーに。

       ここからは、どこに行くにもたくさんの扉、
       しかも鍵で閉められているのですね。
       明け方になり、カザノヴァは窓から顔を出し警護人に見せ、
       警護の男は、昨夜知らせないままに閉じ込められた人間と思い込み、
       次々に鍵を開けてやって来ます。

       待ち構えていた2人は物も言わず大急ぎで金の階段を下り21、
       右に曲がりロッジャに22、次いで左に巨人の階段に23。
       こうして24のカルタ門から逃げ出し、ゴンドラに乗り逃亡に成功したのが
       1756年10月31日から11月1日にかけての夜の事。

       彼以外にこのピオンビから脱獄に成功した者はおらず、
       脱獄記に、大きな幸運があったとはいえ、出来ると思って取り組んだ
       自分の勇気に誇りを持つ、と書いているそう。
       確かに!



       天井裏の部屋から僅かに外を覗いて写せた2枚、どうぞ!
       この眺めも収監者は見れなかったでしょうが。
d0097427_23182063.jpg

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       最後に、夜のドゥカーレ宮の眺めを
       お楽しみくださいね。
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       千年を超えるセレニッシマが最後を迎えたのが
       1797年5月12日。

       ヴェニス共和国の滅亡によせて

       かつて華やかな東方を領有し、   
       西方の砦たりしヴェニスの価値は   
       その生まれを辱めることなかりき、   
       ヴェニス、自由の長子よ。   
  
       いかなる奸計にも誘惑されず、   
       いかなる力にも犯されることなき   
       輝かしく自由なる処女の都市。   
  
       その夫を選ぶとき、   
       永遠の海原をめとるべきかりき。   
       栄光が薄れ、称号が消え、   
       その力衰え行くを見る時、如何にせん。   
  
       されど、その永き命の終わる日、   
       愛惜の貢物が捧げられるべし。   
       我ら人の子、かつて偉大なりしものの影   
       消え去らんとする時、悲しむべきなり。    

           ・・ウイリアム・ワーズワース


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       という所で、長らくのお付き合い、
       本当に有難うございました!  感謝です!!

       ヴェネツィア関係は、こちらから。
       http://italiashio.exblog.jp/i5/

       今日もまた文字数制限すれすれであちこち言葉尻を省略、
       パスしたものの素っ気なく、ごめんなさい!

       いつも有難うございます、お世話様です。
       励まし応援クリック、よろしくお願いいたしま~~す!

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by italiashiho2 | 2011-10-26 23:43 | ・ヴェネツィア Venezia | Comments(8)
Commented by kazu at 2011-10-27 19:36 x
いよいよ最終章を一気に読みました。
フォスカリの名前はオペラで聞いたことがある程度でしたので彼の長いドウージェの人生と生涯面白く拝見しました。
カサノーヴァについては映画になったり世間で有名になっている女好きの遊び人であの監獄から脱出した人と聞いていました。
ヴェネツィア観光のときどうやってここを脱出したか知りたかったんですがワイロを使ったことぐらいで詳しい事は分からず終い。なかなか面白い逸話を知ることが出来ました。
4回にわたりお疲れ様でした。
Commented by italiashiho2 at 2011-10-27 21:22
★kazuさん、こんにちは! コメント有難うございます。

そうですか、オペラをご存知でしたか。 私は息子の事件も知りませんで、カザノヴァの脱獄の経緯も今回知った様子でした。
獄吏にお金を使ったからと言っても、脱獄は出来ないですよね。ヴェネツィア政府の警察は大変優れていたようで、その時はわいろを取っても、後がどうなると、皆よく知っていたでしょうし。昔フェッリーニの映画で見た、あの鉛の大屋根の上に出る場面は覚えていたのですが、詳しい事が映画の中に出たのかどうか、それも記憶になく、フォスカリの事もあれこれ読んで新しく知るのが、大変ではあったですが、とても興味深く楽しかったです!

こちらこそ、お陰さまです! 有難うございました。
Commented by pescecrudo at 2011-10-28 16:57 x
shinkai さん、こんにちは。
フランチェスコ・フォースカリの息子ヤーコポは可哀想な一生を送ったようですね。最後にクレータ島に流刑になったのは、貴族のアルモロ・ドナを殺した罪とされたのですが、何年か後、ニコロ・エリッゾという男が死の床でアルモロを殺したのは自分だと告白して死んだのは、ヤーコポの死の後のことだったそうです。
大分前NHKラジオ伊語講座『ヴェネツィア語学留学に挑戦』という番組があり、ミケーラ・フォスカリさんが現地人役で登場しました。多分この一族の末裔なのでしょうね。最後の週はヴェネツィアの楽しい話が盛り沢山でした。この番組は芝田高太郎さん(ヴェネツィア大学留学)が先生でしたが、私は長いこと、この先生と伊語文学作品の講読をやっていました。
その前、日伊協会で伊語講読のお世話になった小林惺先生もヴェネツィア大学に留学されました。
Commented by italiashiho2 at 2011-10-28 20:04
★pescecrudo様、こんにちは! コメント有難うございます。

そうです、そうです、ヤーコポ(いつも有難うございます、この後、訂正を)と告訴したのは貴族のAntonio Venier di Gerolamoだそうですが、彼自身も余り正直な男ではなかった、とあり、ロレダン一家にそそのかされての事だったのでしょうね。
大金持ちで権力者の年がいってからの息子で、ちやほやされて育ったのんびりが、ヴェネツィアの厳しい権力闘争の狭間に落ち込んだ悲劇だったのでしょう。

今ヴェネツィア大学になっているカ・フォスカリの修復が済んで、どうやらガイド付きで見学も出来る様な事を読みましたので、一度覗いてみたいと思っています。
Commented by cucciola at 2011-11-03 22:33 x
shinkaiさま、

こんにちは。
私も Claudio Rendina氏には本当によくお世話になっております。ドージェについても書いていたとは知りませんでした。

フォスカリ家というのも名前しか知りませんでしたが、ヴェネツィアも長い歴史の中にはいろいろな葛藤があったんですね。なんだかローマ法王たちの自堕落な生活ばかり読んでいると、ヴェネツィアの元首はみな謹厳で品行方正のイメージなんですが、やはり人間の思いというのはどこも変わらないんですね。

それにしてもパラッツォ・ドゥカーレ、華麗なこと!
ローマ法王もお金持ちでしたが、貿易業で栄えた街の華やかさはまた別の趣があります。ヴェネツィアには女性的な繊細さというか、レースのようなイメージがありますね。
なんだか団結力抜群のヴェネツィア貴族だとおもっていたのに、ロレダン家とフォスカリ家の葛藤なんて読むとますます興味がわいてきます。わたしもこの本、買おうかなあなんて思ってしまいました。読む時間が今のところ取れないのが残念です。
Commented by italiashiho2 at 2011-11-04 00:38
★cucciolaさん、こちらにも有難うございます!

はい、あの本はとても興味深いですし、読みやすいのです。とはいえ歴史の変遷の基本を知らない部分と、文法、言い回しの分からない所はアンナリーザや友人に訊ねていますが、
本当に、表の歴史から中に入ると人間関係の複雑さが分かって、尚の事興味深く、面白くなりますね。

パラッツォ・ドゥカーレは本当に美しいと思います。一国の政庁でありながら、あの表面の華やかな美しさ、開け放たれた回廊と、ルネッサンスの都フィレンツェにもないですよね。
で一歩中に入ると、あの牢獄で、あの落差がヴェネツィアの政治だったんだなぁ、と思います。


Commented by hirohirokyoto at 2012-08-25 20:16 x
充実の時を過ごさせていただきました。ありがとうございます。
いきなりですが,ドージェが戴冠式で受け取るのはコイフかコルノか
どっちなのでしょうか。ご存知でしたらご教示ください。(感謝!)
Commented by italiashiho2 at 2012-08-25 21:45
★hirohirokyoto様、初めまして、こんにちは! ブログご訪問、コメント有難うございます。

こちらこそ、お付き合い下さって有難うございます。 感謝です。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

ドージェの頭の冠の事ですね。 あれは形をご覧になるとお分かりのように後ろ側が高く膨らんでいますね。 で、コルノ、角と呼ばれ、戴冠式の時にこれを受けます。
コイフ というのは何かと思ったのですが、イタリア語でクッフィア・cuffia と言いまして、あのコルノの下に被る白い確か麻のかぶり物、髪の毛を抑えたりするもので、ドージェ個人用ではなく、一般に当時用いられていた様です。
蛇足ながら、クッフィアというとイヤホーンも指すのですけど、水泳用の帽子もクッフィアと呼びます。


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