イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

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2014年 03月 06日

   ・・・ シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ ・ リミニ 3-1 ・・・

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       リミニのご案内3回目、いよいよ最後の大詰めとなりまして、はは、
       うまく纏まりますかどうか、・・頑張ってまいりたいと思います。

       タイトルにしました様に、今回のご案内の主たるものは
       「リミニの狼・ルーポ・ディ・リミニ」と呼ばれ恐れられた、
       15世紀ロマーニャ周辺一帯の領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ・
       Sigismondo・Pandolfo・Malatestaで、
       彼の事をもっとよく知りたい、の好奇心はもう何年来もの宿題でした。

       ですが何せ相手が大物で、当時の情勢も知らぬままあれこれ読んでも
       笊で水をすくうようなもの! ははは。
       それでもあちこちで彼の名に出会うたびに少しずつにじり寄り、
       少し前のグラダーラのお城のご案内の時に遂に覚悟を決め、・・大げさなぁ!
       
       彼の墓所として知られるテンピオ・マラテスティアーノ・Tempio Malatestino
       のご案内をしつつ、ご紹介したいと思います。

       彼についてはサイトでの日本語情報が余り無く、それも一方的なもので、
       武人としては優秀でも残忍冷酷で妻殺し、などという事ばかりですが、
       だんだんに分かってきた事は、詩も書き、芸術家たちのパトロンでもあり、
       妻を、しかも2人!殺したようなのですが、ははは、と笑うと不謹慎ながら、
       見初めた3番目の妻にはぞっこんで、当時の武人としては珍しく
       政治的条件抜きで結婚し連れ添う、という、
       大変に純情で直情な、可愛い男でもある様な・・!

       彼をご贔屓のshinkaiと致しましては、
       時代の波にもまれ消えていった、15世紀の一領主
       そんなこんなをご披露したく存じますので、
       よろしくお付き合いのほどを! 

       上の写真は、テンピオ・マラテスティアーノの正面で、
       左奥に鐘楼が見えるのをご覧頂こうと。

       今回掲載の写真も例により、ブログのサイト名が入っていないものは
       サイトから拝借したものです。


       が、テンピオ・マラテスティアーノに行く前に、
       やはりリミニに残るシジスモンドの城、要塞であり居城でもある
       カステル・シスモンド・Casrel Sismondoをどうぞ。

       この写真は城の裏側のもので、
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       正面側はこんな感じ
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       行った時は、ちょうど印象派絵画の展覧会開催中で、
       威圧感ある要塞の壁に大きな印象派の絵のポスターが、
       しかも女性像なんかが下がり、何となしがっくり来て、ははは、
       おまけに周囲はご覧のように大駐車場となっていて足元も見えず・・!

       チャンスを見て出直し、内部も見たいと思っておりますので、
       ・・本来はこれらの周囲を城壁が取り囲む、大規模な物だったようで、
       お城のご案内はまたいつかの事に。



       街の中心の地図をもう一度どうぞ
       左下の位置に城があり、先回ご案内の博物絵画館は真ん中上に。
       そこからまっすぐ東南に辿ると、テンピオ・マラテスティアーノ。
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       この道はそう広くもなく、街外れの感じのある道
       今見えるアーチは15世紀のお屋敷があったのが、
       第2次大戦で爆撃されたのだそうで、
       内部は何もなしの草地でした。
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       道の先にテンピオが見えてきた時
       道はまっすぐ行き、テンピオは脇にあるので、
       こんな風に半分が先に見えます。
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       テンピオ・マラテスティアーノの正面
       通称テンピオ・XXと呼ばれておりますが、地元ではドゥオーモで通り、
       正式にはバジリカ・カッテドラーレ・サンタ・コロンバ・Santa Colomba.
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       うっかり検索をかけましたら、教会のサイトが出て
       にっこり司教様の写真やミサの時間等で泡を食いましたが、ははは、
       まさに現在も教会で博物館ではないのでした。



       正面扉の上部と円柱の柱頭、 
       マラテスタ・パンドルフォの名も見えます。
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       元々は9世紀建設の教会があったのを、12世紀にゴシック様式の
       サン・フランチェスコ教会となります。
       が建物も小さく、14世紀初頭からマラテスタ家の墓所となっていたのを、

       15世紀半ばにシジスモンド・パンドルフォが壮大な霊廟とすべく、
       当時の著名な設計建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ
       Leon Battista Albertiに設計改築し、
       内部の装飾にも当時の一流芸術家を招いたというもの。



       内部、入り口から内陣に向かって
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       祭壇奥部分にかけられた、ジオット・Giotto作
       言われる十字架。
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       内部はご覧のように一廊式で、両側に4つずつの礼拝堂。
       こちらは左側
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       そして右側
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       右側一番奥に
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       はい、こんな形で、シジスモンド・パンドルフォの姿。
       フレスコ画はピエロ・デッラ・フランチェスカ・Piero della Francesca
       の作、1451年のものと。
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       聖シジスモンドの前に跪く、シジスモンド・パンドルフォ
       というタイトル。
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       こちらでは毎日のカレンダーに、その日の守護聖人の名が書かれていて、
       それとは別の日に生まれてもその聖人と同じ名を持つと、
       オノマスティコ・onomasticoといって、その聖人の日に
       おめでとうを言ったりしますので、
       同名の聖人に守護を願う、という姿でしょうか。

       聖シジスモンドとはどんな人かと調べましたら、
       ブルグンド族!・・フランスの東南部に行ったゲルマン民族、
       の6世紀の王で、斬首され殉教した、蛮族として
       聖人となった最初の王らしい、というのだけ何とか分かったのですが・・!
       どういう経過なのかも読んでも何も分からず、ははは、と力なく・・、

       左手に持っている球も何を現すのか、まるで分からず・・、
       どなたかの、クリスさんあたりかな、ご教授をお待ちいたします!

   * 追記 * 
       クリスさんより、聖シジスモンドが手にしているのは、
       王の象徴である杖と宝珠 と教えて頂きました。
       他については、コメント欄をどうぞ。
       


       ルーヴル美術館所蔵の有名なシジスモンド・パンドルフォの肖像画と、
       あちらはテンペラ画で後ほどご覧頂きますが、
       まぁ同じ画家の手とはいえ、そっくり!
       ですが今回、
       後頭部の膨らみが直されているのに気が付きました!
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       全体図を見ると、当初の背景は濃い色、黒かそれに近い色で
       埋められていたのが分かりますから、
       となると、この手直しは一体誰がぁ?! というミステリー!!
       まぁ、白い背景の中、白い衣装となると、この頭の大きさで
       ちょうどバランスが取れそう、とは思いますがぁ・・。



       背景の丸窓の中に見えるカステル・シスモンド
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       そしてその手前に交互の向きで座るワン君2頭
       手前の白いワンちゃんの、本当に美しい姿!
       これだけしか描いていないのに、しっかり肉が詰まっている!!
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       フレスコ画の下描きに、ピエロ・デッラ・フランチェスカは
       原寸大下図を作り、線に沿って小穴を開け、タンポンで叩いて
       下塗りに印をつけた、というのですが、

       白い方のワンちゃんの延ばした首から肩、手前の前足、肘、
       背中の流れ辺りにもしっかりポツポツが見え、
       なんとなし、こういうのはちょっと嬉しい発見!



       実はこのテンピオには、お昼休みで閉まる直前に飛び込み、
       ピエロの絵はしみじみと眺めたのですが、
       他は写真を殆ど撮る暇が無く、おまけに管理人が話しかけて来て、
       コネリアーノ?! あそこはプロセッコが旨いよね、とか・・!
   
       という事で、サイトで見つけた写真で細部をご覧ください。

       象の姿が見えるのは、マラテスタ家に所縁があるのだそうで、
       白い大理石に金と青の、手の込んだ素晴らしい装飾。
       写真の諸所に散らばって見える、SとIを組み合わせた紋にご注目を。
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       建物の設計はルネッサンス期の著名な建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティ
       によるもので、大変に荘厳ですっきりした正面壁をご覧に入れましたが、
       結局このテンピオは未完のままに・・。

       アルベルティは美術にも古典にも法学にも数学にも秀でた人文主義者。
       レオナルド・ダ・ヴィンチよりも半世紀ほど前に生まれ、
       その多方面への才能の発揮で「万能の人」と呼ばれた最初の人で、
       建築以外の実作品が残っていないのが残念。

       内部の装飾には、マッテオ・デ・パスティ・Matteo de' Pasti
       の設計や、大理石の浮き彫りなどはアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ・
       Agostino di Duccioの手になるものと。
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       このテンピオは1447年にシジスモンド・パンドルフォが改築を決め、
       当時シジスモンド・Pは(以下この様に省略・1417-1468)30歳、
       2度目の妻ポリッセーナ・スフォルツァ・Polissena Sforza
       1449年に死亡した後、その2年前から関係のあった
       イゾッタ・デッリ・アッティ・Isotta degli Attiとの事実を公にし、
       ここを2人の墓所とすべく・・。

       上の写真に見えたS・シジスモンドと、I・イゾッタの頭文字を組んだ紋
       至る所に、はぁ、至る所に見え、・・この一途さ!


       教会はその後も増改築を重ね、これが古い当時の様子
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       第2次大戦の爆撃でこの内陣部分は破壊され、
       現在の内後陣はジオットの十字架のみのシンプルな形。

       マラテスタ家代々の墓所教会といいますが、
       買って戻ったガイドブックと検索して読んだものとちょっと違い、
       私もしっかり現場で見ておりませんで、
       どの礼拝堂が誰のとご説明できませんで、ご容赦を。



       さてこちらが、ピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所の
       ルーヴル蔵の、シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ像
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       1451年頃の作といいますから、フレスコ画製作と同時期ですね。      

       酷薄そうな鋭い目と薄い唇が特徴の顔ですが、
       1417年先回見て頂いた濃い赤の胴着・ファルセットの主
       パンドルフォ3世の次男として
       父親の愛人アントーニア・ダ・バリニャーノ・Antonia da Barignano
       との間に生まれます。 

       時に父親47歳で、シジスモンド・Pより6歳上の兄と、
       これはまた別の愛人との子とも言われますが、はぁ、
       一つ下の弟との3人兄弟で、
       1427年シジスモンドが10歳の時父親が亡くなります。

       こうしてリミニの伯父カルロの元で育ち、伯父は何とか教皇に
       3人の実子認可を貰い、1429年の伯父の死後
       シジスモンド・Pの兄ガレオット・ロベルト・マラテスタ・Galeotto Roberto
       が後を継ぎますが、1432年僅か20歳の若さで亡くなり、
       こうして15歳でシジスモンド・Pがリミニの領主に。

       早くから軍事に才能を発揮し認められ、1435年には
       教皇軍の隊長としても名が載り、槍騎兵の隊長としてデヴュウを。



       彼の肖像は、上でご覧頂いたピエロの横顔が有名なのですが、
       フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮の有名な礼拝堂にある
       ベノッツォ・ゴッツォーリ・Benozzo Gozzoliの壁画にも
       登場しているのを知りましたので、どうぞ。

       有名な「マギの礼拝」のフレスコ画のこの場面の
       左隅の最前列、
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       一番左がシジスモンド・Pで、その右の白馬のがミラノ公
       ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ・Galeazzo Maria Sforza.
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       壁画が描かれたのが1459年、
       シジスモンド・Pが42歳 ガレアッツォ・M.Sが14歳の時となり、
       それ以前に画家が見た記憶で描いているのでしょうが、
       皆さんどなたもが可愛いお顔で・・!
       とりわけ真ん中のにっこり美男貴公子がロレンツォ・イル・マニーフィコ
       と言うのですから、まぁ、物凄いヨイショというか、ははは。
     
       ガレアッツォ・マリーアは、スフォルツァ家に変わって2代目のミラノ公で、
       最後のヴィスコンティ家のフィリッポ・マリーアの庶出の娘
       ビアンカ・マリーアとフランチェスコ・スフォルツァとの子。
       大変残忍な性格だったそうで、結局暗殺され・・。

       ミラノのスフォルツァ城のご案内
       http://italiashio.exblog.jp/19679446/

       フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮
       http://italiashio.exblog.jp/12492295/



       さてこちらも有名なピエロ・デッラ・フランチェスカ描く所の
       フェデリーコ・ダ・モンテフェルトゥロ・Federico da Montefeltro.
       フェデリーコ・M(1422-1482)はすぐ南隣マルケ州ウルビーノの領主で、
       シジスモンド・Pとは積年の宿敵
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       フェデリーコ・Mはほぼ一貫して教皇側であったものが、
       シジスモンド・Pは国を治め敵のフェデリーコ・Mと戦う為にも、
       自領を整備、美化する為にも大資金が必要。
       傭兵隊長としてはより多く払ってくれる側と契約し戦い、
       鮮やかに勝ちを収める、
       それがまた逆に憎しみを買った部分もありそう。



       今日はご説明しようと思う事が大きすぎ・・、
       単なる人物伝となっても詰まりませんよね。
       でなぜ彼の評判が悪くなったかをご説明したく・・、

       こちらはなんとも優雅なピサネッロ描く所の、ルーヴル所蔵
       ジネーヴラ・デステ・Ginevra d'Este (1419-1440)の肖像
       と言われる物で、シジスモンド・Pの最初の妻
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       デステの姓が示すように、フェッラーラのエステ家ニコロ3世の娘、
       1434年15歳でお輿入れ。
       子供はおらず、6年後に夫に毒殺されたと。

       彼女の生まれ育ちも幸薄く
       母親は義理の息子との姦通により斬首刑になっておりまして・・。
       http://italiashio.exblog.jp/10865096/



       シジスモンド・Pの2番目の妻ポリッセーナ・スフォルツァ
       Polissena Sforza(1428-1449)の肖像が無いので、
       父親のフランチェスコの顔を、ははは。

       ポリッセーナは父親の愛人ジョヴァンナ・アックワペンデンテとの子で、
       ポリッセーナという名は、1420年に亡くなった
       フランチェスコの最初の妻の名なんだそう! この神経!
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       シジスモンド・Pの最初の妻が亡くなった2年後、1442年に
       14歳で嫁いで来ますが、1449年没。
       タオルで窒息させられたらしいと。

       子が2人生まれますが、長子のガレオットは何ヶ月かで亡くなり、
       娘ジョヴァンナは成長し嫁いで行きます。

       夫シジスモンド・Pは、既にそれ以前からイゾッタ・デッリ・アッティ
       と関係を持っておりまして、何と彼女が12.3歳の時に見初めたのだと!

       そしてそれ以外にヴァンネッタ・デイ・トスキ・Vannetta dei Toschi
       という愛人がポリッセーナとの結婚生活中におりまして、
       彼女との間に生まれたロベルト、イル・マニーフィコ・偉大な、
       というニックネームを持つ息子が、シジスモンド・Pの跡を継ぎます。



       こちらがシジスモンド・Pがイチコロとなり、
       深い真実の愛を注ぎ、政情無視の愛情のみの結婚をし添い遂げた
       イゾッタ・デッリ・アッティ(1432頃-1474)の横顔が刻まれたメダル。
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       彼女は裕福な商人、両替商の娘だったそうですが、
       シジスモンド・Pに見初められ愛人となり、15歳の時に最初の彼らの子
       ジョヴァンニを生みますが、何ヶ月かで死亡。

       2人が結婚したのは1456年、彼らの10周年記念だったと・・!

       私が彼ら2人の話を読みながら救われる想いを受けたのは、
       当時の政略結婚が当然の時代にあり、シジスモンド・Pも
       最初の2度の結婚において領土も増やし、引き立ても受けるわけですが、
       幸せな結婚生活ではなかったと。
  
       何人もの愛人を持ち、婚姻外の子も産まれるわけですが、
       そういう彼が29歳にして心から愛する女を見つけ
       ずっと年下の彼女も彼を愛し支え、おまけに大変に賢く、
       後年彼が苦境に落ちた際も励まし支え、彼が国を留守にしている間も
       しっかりと国を守り、自分の宝石も売ってまでも支え続ける、
       賢明で、彼の愛にしっかり応えた女であった事に、こちらもホッと。
       
     *****

       今フッと思いつき文字数を計りましたら、もう制限いっぱい!
       がもう少し読んで頂きたく、知って頂きたいので、
       2回に分ける事にいたします。

       こちらをクリックし、お読み継ぎお願いいたします
       http://italiashio.exblog.jp/20430911/
       よろしくどうぞ!


     *****        
       

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by italiashiho2 | 2014-03-06 08:12 | ・エミーリア・ロマーニャ州 | Comments(20)
Commented by クリス at 2014-03-06 20:32 x
ワォw
勘弁してくださいよsinkaさん!
テンピオはアウグスト門の方から市場を通って行ってますので、最初は、この方角からは見えなかったな。
さすがに、6世紀の事(蛮族時代のヨーロッパ史)は日本では資料がなくてわかりませんよ。
調べながらでわかった事でいえば、聖ジジスモント(ジギスムント)は、アリウス派が多かったブルグントでカトリックへの改宗に貢献した部族王という事ですね。
列聖はこの貢献が大ですね。
息子殺しをしてます。
息子殺しを悔いて、スイスのサン・モーリスの修道院(Abbaye de Saint-Maurice)を建設し修道士として隠遁したようですが、母親に恨まれ、子どもらを中心とした反勢力に殺されているようです(経過はいろいろあるようですが)。
手にしているのは、王の象徴としてのレガリア=王杖と宝珠です。
Commented by クリス at 2014-03-06 20:42 x
ジギスムントの事、イタリア語のWikiを見ながらでしたので、訳があやふやです。訂正あったらよろしくです。
教皇を敵に回すと怖いのですが、テンピオは教会らしくない教会ですね。テンピオという名称事体があやしいんだな。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-07 01:00
★新鮮画像市場様、始めまして、こんにちは!

ご丁寧に、有難うございます。  また検討させて頂きます。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-07 01:11
★クリスさん、こんにちは! はぁい、やっぱり!! 有難うございます!!

アリウス派、と書いてくださったので今その言葉で検索をしてきました。 そういえば、かなり以前この言葉をクリスさんが使われていたような・・。 宗教間の争いで殉教したんだろう、とは想像できたのですが、何との争いなのかもちっとも掴めなかったのです。 先生、有難うございます!
家族ともども殺されて井戸に投げ込まれた、というのは分かったのです、ははは、そうですか、息子殺しもね。 もう一度ゆっくり読んでみないと掴めません。

あの時代は、こういったカトリックの定義についての争い、というか宗派がたくさんあったのでしょうか? 今はそういう定義の違いはまるで無いのでしょうか?

王の象徴の杖と宝珠ね! そうなんだ!

そう、そうですね。 アルベルティはローマで古代建築から学んだというので、キリスト教会らしからぬ異教徒的建築で、それでテンピオと言い習わしたのかもですね。 シジスモンドもその方を好んだのでしょうね、きっと。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-07 01:56
★クリスさん、追加です。

そちらの旅行記が始まっているかとお邪魔しましたが、まだでした。 残念!
始まったらお知らせを、お願いいたします!!
Commented by kazu at 2014-03-07 11:34 x
たくさんの素晴らしい写真と共に歴史 美術のお勉強させていただいています。
大雪の後遺症でしばらくお休み中ですが楽しませていただいています。
お彼岸すぎたら少しは春らしくなるかしら。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-07 14:34
★kazuさん、こんにちは! コメント有難うございます。

そうでしたね、大変でしたね2月は。 この間の週末も雪の予報だったようですが、そちらは大丈夫でしたか? 
あっという間に3月になり、こちらも雨続きだったのが漸くに回復に向かっているらしいですが、余りの大雨続きだったもので、各地で地崩れが出る被害のニュースが続いています。

暖かくなるのが待ち遠しいですね。
体調にお気をつけて、お元気で!
Commented by 小父さん  1 at 2014-03-08 00:07 x
う~~~ん、正に「Riminiも一日にして成らず」ですね(笑)。

深いです。
日本の言葉表現だったらshinkaiさんは郷土史家でしょうか。

笊で水をすくいながらとことん研究されましたね。

今ふとシジスモンド・マラテスタのことを下に見つけました。
           ↓
http://blog.zaq.ne.jp/randokku/article/1133/

>政治的条件抜きで結婚し連れ添う、という、大変に純情で直情な、可愛い男でもある様な・・!

男にはチャーミングさって必要なんですね。

「時代の波にもまれ消えていった」、つまりシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの光と影と言ったところでしょうか。

カステル・シスモンドはさすがは、傭兵隊長の要塞ですね。
こんな場所が印象派絵画の展覧会つーのが趣がありますね!

ちょっと話が飛びますが、今日の新聞に「ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館 華麗なる貴族コレクション」あべのハルカスで5月31日から開催というのが出ていました。これは「いかなっくちゃ~♪君に会いに・・・」ですね(笑)。
Commented by 小父さん  2 at 2014-03-08 00:08 x
さてブログは「街外れの感じのある道」、緑がレンガを引き立たせています。

>現在も教会で博物館ではないのでした

なるほどなるほど(笑)

>9世紀建設の教会があったのを、12世紀にゴシック様式の・・・、14世紀初頭からマラテスタ家の・・・15世紀半ばにシジスモンド・パンドルフォが壮大な霊廟とすべく、

こんなことが素晴らしいと思います。
今のニッポン何でも建て替え、日本人は喜びますが、外国人にはつまらなく映るでしょうね。

ではまた伺います。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-08 15:01
★小父さん、こんにちは! コメント有難うございます。

リミニの街は、単に中世の領主の下に栄えた歴史があるいうだけでなく、ローマ期以前からの延々たる歴史を持ち、また交易商業の街道の分岐点でもあったので、おまけに今は夏の大ヴァカンス地で、その変化の重なりが面白いですよね。 でつい、深みに、まぁ以前からシジスモンドの事は知りたかったので。

はい、この方存じ上げていますし、記事も改めて拝見してきました。
そうなんですね、日本でのフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロの取り上げ方は、英邁でルネッサンス文化花開く宮廷を開き、戦争も強かった、という良い事だけで、まさにシジスモンドとは反対なのですけど、フェデリコも君主の席に座るために母違いの嫡出の弟を殺していますし、シジスモンドの領内に攻め込んでは略奪をしまくっていますので、あの時代の傭兵、君主のやり方、というのは綺麗事だけではないですね。

ならばちょっと、シジスモンドだって、こんなに可愛いところがあったんだよと、ははは、ひとこと外野の方から言ってみたくなった、という、そういう私も外野なのかも、ですけど、ははは。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-08 15:06
★小父さん、続けます。

あ、ポルディ・ペッォーリ博物館展が行くのですか?! それはもうぜひぜひ!! 何が行くのかまたサイトを見ますが、あそこは本当に素晴らしいものを持っていますから。

結局改築改装が出来るというのは、基本が石つくりである事も関係していると思います。 それと、元のものを残そう、という強い意志、これが絶対不可欠なんでしょう。 
こういうのをずっと見ていると、日本人は本当に新しいもの、便利なものが好きな民族なんだ、と知ります、我ながら・・!

Commented by クリス at 2014-03-08 20:45 x
sinkaiさん、こんばんは!
さて、旅行記UPしました。今回は時差ボケやらでなかなか書くことに集中できなくて遅くなりました。
世界史の授業では、ニカイア会議というのがあります。325年と787年の2回あるのですが、その第一回では、アリウス派とアタナシウス派の対立とアリウス派の追放が決定されています。
第二回では聖像崇拝禁止令が発布され、反対者の多くが処刑されたとあります。この2つはテストでもよく出ていたのですが、今の授業ではどうなんでしょうね?
異端や宗派内の紛争というのは今も昔も変わらない気がします。
ローマ・カトリックとギリシア正教の争い。カタリ派のアルビジョア十字軍なども。
争う内容は様々ですが、キリスト教としては今が一番穏やかな時代なのでしょうね。それもようやくのような気がしますが。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-09 15:04
★クリスさん、こんにちは! コメント有難うございます。

ニカイア会議、と言葉を教えていただいたので、検索して来ました。 有難うございます! 聖像崇拝禁止令が出た、というのでこれも?と思ったのですが、コスタンティーノ帝の母親エーレナが云々と知り、納得しましたし、我が町出身のチーマが描いた2人の肖像画なぞもちゃんと思い出しましたし、はい、ほんのちょっとずつでもましになりつつあるかな、と、はい。

いや、宗教に関する考え方の違い、我の考えが、我の教えが、の争いは、そうですね、キリスト教が少し気持ちに余裕をもって、という様子に見えますが、なかなかそうでない方が多いですね。

旅行記アップ! はい、ちょっと拝見したら、アナーニに最初に行かれている! わぁ、ここは見たい場所なのですよ、羨ましい! 後ほどちゃんと拝見にあがります。
Commented by 小父さん  3 at 2014-03-10 23:54 x
毎晩、このブログの玄関先まで来て引返しています(笑)

続けます(笑)

最初に
「ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館 華麗なる貴族コレクション」は
     ↓ こちらです。
http://www.poldi2014.com/

それにしてもレオン・バッティスタ・アルベルティもルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家・法学、古典学、数学、演劇作品、詩作に絵画、彫刻・音楽・運動競技に明るいとはミケランジェロみたいですね。

いやー、室内の正面から入るとやはり荘厳な印象を持ちます。
そして4つずつの礼拝堂までも!
日本で流行りの建築家が真似しようとも第一、施主にそんな予算を持ち合わせているところがないでしょう。

>聖シジスモンドの前に跪く、シジスモンド・パンドルフォ

日本では高貴な人の名前はそうそう付けませんが、イタリアでは逆のようですね。
Commented by 小父さん  4 at 2014-03-10 23:55 x
>当初の背景は濃い色、黒かそれに近い色で埋められていたのが分かりますから、

そんな手直しもあるんですか、ルーヴルのは黒く塗りつぶされていますね。

ワン君の肉の詰まり具合に納得です。

>なんとなし、こういうのはちょっと嬉しい発見!

模写はそんな技法の謎解きもやるんですね。

Prosecco di Conegliano とは地名にぶどうにワインのお話か(笑)

ちなみに、撮影制限はあまりないのですか?

象が柱を支えているのも面白いですがSIのイニシアルも派手ですね。

うわぁ、これは未完だとは。
ヨーロッパにはそんな建物が多い気がします。

あれっ「アルベルティ」の説明が下にちゃんと書いてありましたね(汗)

しかし、こうやって想像するにラファエロ・サンティにしろ建築のデザイン
(意匠)を考えるんでしょうね。
建築物が芸術的であればあるほど構造設計屋の存在が重要になってきますが、
その文化も意匠屋の影で発達したんでしょう。
でないと、突然の崩落なんてこともあり得る話です。
Commented by 小父さん  5 at 2014-03-10 23:57 x
>至る所に、はぁ、至る所に見え、・・この一途さ!

はっはっは
ぞっこんだったんでしょうか!
確かアンリ2世 (フランス王)もメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃としながら
家庭教師であったディアーヌ・ド・ポワチエと長く愛人関係にあって
その愛人との頭文字を城に付けた話をテレビで観ましたね。

うわぁ、大戦で教会内部が壊されたんですか。
復元するのにも相当お金がかかっていますね。

>こうして15歳でシジスモンド・Pがリミニの領主に

こういうのを人は運命と呼ぶのでしょう。
ちなみに運命のイタリア語ってあるんでしょうか?
Commented by 小父さん  6 at 2014-03-10 23:57 x
>皆さんどなたもが可愛いお顔で・・!

ははは
こちらの馬は肉づきが良すぎて走れないのじゃーないかと思いますが、
戦車みたいにどっしり構えていた方がいいにかな?(笑)

最初のジネーヴラ・デステは15歳でお輿入れして6年後に夫に毒殺、
2番目の妻ポリッセーナ・スフォルツァは14歳で嫁いできたが、タオルで窒息させられたらしいと・・・

う~ん、むごいですね。
愛人という言葉がやたら出てきますが、側室という制度はないんですかね。
カトリックと関係あるんでしょうか?

12.3歳の時に見初めたイゾッタ・デッリ・アッティのメダルの顔は可愛らしいですね。

私もここらで筆を(いやキーボードを)おきます。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-11 13:40
★小父さん、こんにちは! 本当に熱心に読んでいただいてのコメント、有難うございます!!

まずポルディ・ペッツォーリ展のサイトを見てきました。 ポッライゥオーロの横顔と、ボッティチェッリが1枚行くのですね。 そうですね、まぁ遠路をはるばるですものね、その雰囲気をじっくり想像して味わってくださいませ!

アルベルティは万能の人、と言われ、ミケランジェロではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチと比較されるといえましょうか。 一度マントヴァでアルベルティの設計した教会が分からずに尋ねた方が偶然にも設計家で、自分の車で連れて行ってくれたことがあったのですが、
その時に言われたことは、レオナルドはあれこれ発明デッサンをしているけども、絵画のみで、アルベルティが手がけた事は設計から絵画論から古典、法学にいたるまでまさに万能で、天才と言う意味からいえば、自分はアルベルティのほうが上ではないかとおもう、と。 
と言うような事を聞いたことがあります。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-11 13:59
★小父さん、続けます。

いぇ、こちらの方の名前は今頃は少々変わってきているのですが、それでも元は聖人の名を頂くので、こうなります。
が昔ちょっと可笑しいと思ったのは、こういう有名人の名をホテルなどにどこでも使っていることで、これは日本ではありませんよね、ははは。

そうなんです、あのシジスモンドの頭の描き直しは、本当に不思議なんです。 ルーヴルの絵は背景が暗く、後頭部は溶け込む形で描いていますよね。 ここのもオリジナルはそうだったのか、それとも背景の濃い色とは少し違っていて、ピエロ自身が描き直したのが近くで見ると分かるのか、その辺りがミステリーです。

はい、このテンピオの中は撮影可能でした。 ただしフラッシュなしではないかと。 場所によっては撮影禁止がこのごろやけに増えていますね。 そのくせきちんとしたカタログもないと、怒り狂います!

そうそうです、昔は画家が建築設計を手がけたのですね。 勿論その勉強もしたのでしょうが、殆どは経験からくるもので、見かけがまず重要で、その為に崩壊する危険性もあったと言います。
フィレンツェのジオットの鐘楼も、後を引き継いだ人がそれをうまく収める方法を考えたとか。
Commented by italiashiho2 at 2014-03-11 14:08
★小父さん、続けます。

ですから実際に平面図から設計を考えた、と言うのは、ヴィチェンツァの街で見ていただいたパッラーディオが最初だと。

戦争での爆撃から壁に描かれたフレスコ画を防ぐのに、絵の前にいっぱいの土嚢を積み上げている記録写真も見かけます。 地震での崩壊も怖いでしょうが・・。  

「運命」のイタリア語はデスティーノ・destinoです。 「運命の力」というオペラ、ヴェルディだったかな、もあった様な・・。

そうそう、公の愛人の存在もしっかり! あのディアーヌ・ド・ポワティエは有名ですが、こちらにも愛人のために城を造った、大きな別荘を建てた、何ぞも時々出ますね。
そういえば「側室」と言う、お世継ぎを生む為の存在がないですね。庶子を実子として教皇に認可してもらう、というのは読みますが。
なので嫡出子がなく家が絶えたと言うのは、歴史の中にいっぱい出てきますね。 それが養子制度で家を継ぐ日本と違いますね。

小父さん、有難うございました!



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