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2016年 09月 16日

   ・・・ ヴォルテッラの洗礼堂、ドゥオーモ、エトルスク門 ・・・

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       2年前のちょうど9月に出かけましたヴォルテッラの町。
       今日のご案内は、洗礼堂と町のドゥオーモ、そして町の中心から
       少し南に下った所にあるエトルスク門を。

       町の入り口にある展望台から見た、
       真ん中のとんがり屋根の8角形の建物が洗礼堂で、
       その右がドゥオーモの鐘楼、松の木に隠れてちょこっと
       見えるのがドゥオーモの正面




       先回は町の地図だけでしたので、今回はヴォルテッラの位置を
       シエナ・Sienaが右端、ピサ・Pisaが左上にあり、
       ヴォルテッラの町はちょうどほぼ中間の位置に。
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       この位置だと、さぞやかっては両方の町からの領有争いが激しかったろう、
       と想像でき、確かにそうだった様子ですが、
       現在ヴォルテッラの町は、トスカーナ州ピサ県に含まれます。




       まず洗礼堂・Battistero.
       正式にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂と呼ばれ、
       右手前に角が見えるのがドゥオーモ。
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       以前は閉まっていて中に入れなかったのですが、
       今回は大丈夫。



       中央にあるのが洗礼盤、18世紀の物で、上に見える像が
       この洗礼堂に名を冠された洗礼者ヨハネ・San Giovanni Battista の像
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       が、内部ではロッソ・フィオレンティーノ・Rosso Fiorentino(1495-1540)
       への献呈として、彩り鮮やかなスライドが映し出されており、
       その為1階部分の奥の礼拝堂部分や、8つあるニッキ、
       天上部などが塞がれており、

       素朴で静謐な洗礼堂の雰囲気からほど遠く、
       おまけにマニエリズムに関心の無いshinkaiはがっかり!




       所で今回これを書くためにちょっと調べましたら、
       ロッソ・フィオレンティーノのこの「十字架降下」がヴォルテッラの町の
       市の絵画館に収蔵されている事を知り、そういう次第だったか、と。
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       人物の頭部を小さく、体をひゅう~と長く誇張したマニエリズムは、
       ダ・ヴィンチやラファエッロなどが古典的美を完成させたと
       見られた位置から、もひとつ発展したルネッサンス期の美術ですが、

       この先駆者的立場のロッソ・フィオレンティーノは、
       ダ・ヴィンチの最後を看取ったとされるフランス王フランソワ1世
       招かれフランスに赴き、王の年代記のフレスコ画を城に描いたり、
       イタリア美術をフランスに伝えたとされる画家で、
       フランスのフォンテーヌブローで亡くなっています。




       彼はフィレンツェ生まれ、本名はジョヴァンニ・バティスタ・ディ・ヤコポ
       Giovanni Battista di Jacopo.
       なぜロッソ・フィオレンティーノ・赤いフィレンツェ人と呼ばれたのかと
       ふっと疑問がわいたのでしたが、

       アレッツォにあるヴァザーリ・Vasari、著名な芸術家・彫刻家伝を
       記したヴァザーリの家にあるという、このロッソの肖像を見つけ、
       ああ、彼は赤毛だったんだ、と納得! ・・という脱線記でしたぁ。
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       さて洗礼堂の正面をもう一度どうぞ
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       ドゥオーモに向って建つ洗礼堂は13世紀後半に完成したもので、
       正面部分はこのように白と濃い緑の大理石で装飾されており、
       ニコラ・ピサーノ・Nicola Pisano(1215/20-1278/84)の作と。
       
       ニコラ・ピサーノは13世紀の設計、彫刻家で、
       あの素晴らしいピサの洗礼堂や、
       息子のジョヴァンニと共に、各地に作品が残ります。
       

       ずっと昔になりますが、初めてこの洗礼堂を見た時
       素朴で強い白黒の縞模様に魅せられ、当時は濃い緑色とは思いもせず、
       周囲が車の駐車場となっていたこの洗礼堂をスケッチした物でした。

       最初に見て頂いた朝日の写真を撮った位置辺りの、
       建物の出入り口に腰をかけ描いていると、
       出てこられたシニョーレがスケッチを見て、
       抽象的に描いていないのが素晴らしい、と言って下さったのを覚えていますが、
       今考えると、他に褒めようがなかったのかもと、ははは。




       正面の扉の上部、半円アーチの部分もすっきり簡素な物ですが、
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       扉上部と、脇柱に続く部分に細かい彫りが見られ
       ロマネスクからゴッシクへの過渡期の趣を感じます。
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       正面から右脇に回ると、脇の入り口があり、
       上部に色石を使った装飾模様。
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       サイトで見つけた写真で、
       洗礼堂とドゥオーモの間に広場があり、左に鐘楼。
       以前の古い鐘楼に取り替わり1493年に高くされたものと。
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       さて洗礼堂と向かい合わせにあるドゥオーモの正面。
       以前在ったサンタ・マリーアに捧げられた古い教会は、
       多分1117年の酷い地震によって崩壊、それ以降に再建された物で、
       正式にはサンタ・マリーア・アッスンタ聖堂・Cattedrale di Santa Maria Assunnta.
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       正面扉部分のこの美しい装飾もニコラ・ピサーノの作ですが、
       使われている円柱などは、先回ご案内したテアトロ・ロマーノから
       持って来ているのですと!
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       聖堂上部のアーチの重なりのデザインは、如何にものロマネスク様式。
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       外の重厚な簡素さと比べ内部はこんな様子。
       12世紀の建設以来13世紀に拡張され、
       翼部分と合唱隊席は14世紀に、16世紀には内部が完全に改修され、
       19世紀にも大きな装飾などの改修があったそうで、
       正面壁同様のロマネスク様式はまるで残っておりません
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       内部平面図をどうぞ
       1.キエリーチ・Chiericiの聖母
       2.聖体用祭壇  後陣には木製の合唱隊席
       3.13世紀初めの木製の十字架降下像
       4.説教壇 13世紀の像が16世紀末に再設置
       5.6.聖堂の入り口から横に続くこの部分に、アッドロラータ礼拝堂・
           Cappella dell'Addolorataがあり、
           デッラ・ロッビア工房、ベノッツォ・ゴッツォーリの作品。
       7.15世紀末のマリオット・アルベルティネッリの「受胎告知」の絵画
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       説明1の「キエリーチ・Chiericiの聖母」と呼ばれる聖母像、
       15世紀のフランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノ・Valdambrinoの
       作といわれるもので、木製彩色の美しいもの!
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       あるのを知らず、5.6の礼拝堂共に見ておりません、残念!




       内部でまず目を引いたのがこの格子天井。
       16世紀の改修で設置されたもので、
       模様、天使、聖人たち、花などの木製彩色がぎっしり!
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       内部は3廊式、22本の円柱で仕切られ、
       壁に見える白とグレイの縞模様は塗り分けられたもので、
       円柱の薔薇色も漆喰で大理石の柄に見せかけたもの、だそう。
       いずれも19世紀の改修によるもの。
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       7.の15世紀末のマリオット・アルベルティネッリ・Mariotto Albertinelli
         の「受胎告知
       面白いなと思ったのは、四角い絵の周囲を様々な小さな絵で取り囲んだ
       飾りつけで、多分これも何度もの改修のあれこれの謂れがある事でしょう。
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       4の説教壇、正面から。 一番上に金(塗り)の鷲像があり、
       余りにも強い照明で色が飛んでいますが、
       その下の彫が面白く、多分これもローマ期などの古い物を、
       新しい大理石で囲んでのリサイクルかと・・!
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       内陣、後陣部分。 階段の在る古い形式ではありますが、
       後陣のフレスコ画も何もなく、背後に見える山型はパイプ・オルガン。
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       入り口扉上にある薔薇窓。 
       「聖母戴冠」のステンドグラスが入っていますが、
       これも最初はロマネスクの大理石の紋様があった事でしょう。
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       床は19世紀改修の物とありますから、壁の柄とお揃いの石ですね。
       手前の円柱の左下、ほら、上の色付き漆喰がはげているのが見えるでしょう?
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       なんぞと、あれこれ改修結果を並べるような説明になりましたが、はは、
       正面のどっしりロマネスクに比し、内部は各年代の修復の歴史でした。
       まぁ、バロックの白と金色、にならなくて良かった、ははは。




       説明5,6の、聖堂横の礼拝堂部分の外の壁
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       聖堂横角、庇の部分にも細かい柄
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       さてドゥオーモと洗礼堂から一旦中心に戻り、1本東の道を下ります。
       
       角を曲がって見る、建物の壁の趣
       色も良く、古び加減も素敵でしょう?
       店の大きな看板も見かけないのが素晴らしい!
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       だらだらと下っていくと、このエトルスク門
       またはポルタ・ディ・アルコ・Porta di Arcoとも言われる、
       紀元前3~4世紀のエトルリア人建設の門が見えて来ます。
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       残念な事にちょうど左手前の家の工事中で、車が止まっているわ、
       家には覆いが架かっているわ、お兄ちゃんが大声で喋っているわ・・!




       素晴らしく大きな石が使われているでしょう?
       後にローマ人がエトルリアに取って代わっての修復もあるだろうと。
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       門の外から見るとこんな様子で、中世になって町の城壁が造られると
       それに取り込まれた形になります。
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       門に3つ見える頭部像はそれぞれ説がありますが、
       要は町の守護を司るものという事のようで、
       現在は表情も何も分かりません。


       右の城壁に見える碑ですが、
       ヴォルテッラの町の人々が、この門を護る為に働いた、とのみあり、
       具体的に何をしたのかが良く分かりませんでしたが、




       門の近くの家の窓だったか、店のショウウインドウだったかに
       展示してあった古い写真を見つけました。
       右から左に続く一連の物で、最初は空襲にでもあって補修したのかな、
       などと思ったのでしたが、
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       2枚ともに見える、門を塞いでいる石の壁の写真がありますね。
       そして、皆がせっせと手渡しで石を運んでいる写真、
       それに足元が地道になっていますよね、
       そんな事から、爆撃ではないと思ったのでしたが、
       イタリア版ウィキに答えを見つけました。

       つまり、この門を通る道は町の南から中心に至る道ですので、
       1944年6月30日、町に駐留していたドイツ軍指令部が、
       連合軍が町を通るのを妨げる為に、この門を爆破する事を決めたのだそう。
       ですが、24時間以内に、町の人々が門を通れなくするのであれば、
       爆破しない事に同意。  町の世話役が頑張ったのですねぇ!
       それで写真に写っているように、町の人々は近くの道の敷石を剥がし
       せっせと門に積み上げ、爆破から護った、という事なのだそう。

       カメラに向ってにっこりの若い女性達もいて、
       道の敷石を剥がすのは大変だったでしょうが、
       案外皆が共同作業に楽しんで加わったかの様子も見え、
       shinkaiにも楽しい発見でした。
       



       上り坂の道を町の中心に向って戻りますが、
       この敷石が、あの20世紀前の古い門を援ける為に役立ったのですね!
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       奥に見える塔、プリオーリ宮の上の塔なのですが、
       あそこにも上がりましたので、はは、高上がり大好き!  
       素晴らしい眺めをまたご覧頂きますね。




     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、アッシジの描き始めと、 葡萄と石榴の熟れ加減は を
       アップしています。    
       見てやってくださ~い!    



     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     

  
   
       

    


by italiashiho2 | 2016-09-16 08:09 | ・トスカーナ州 | Comments(3)
2016年 07月 24日

   ・・・ 修道院、地下教会、異端審問所、輪の競走 ・ ナルニ ・・・

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       先回に続いてのウンブリアはナルニの町のご案内ですが、
       今回はちょっと特殊異質な場所へお連れ致しますね。
       
       上の写真は地下教会のものですが、
       この写真提供は、ナルニのヴォランティアのグループで、
       現在この地下教会、異端審問所の管理、さらにはサン・ドメニコ教会の
       地下室の新しい発掘にも働いておられる「UTEC」から送って頂いたもの。

       サイトは http://www.narnisotterranea.it/

       内部写真は禁止で、もし写真が欲しい方は申し込んで下さったら
       送ります、というので大いに期待してお願いしましたら、
       上の写真を含めたったの3枚!が届き、
       それも雰囲気を盛り上げたキャバクラかと思うような照明のもの!!
       
       がっかりで、ここでは1枚のみ拝借し、他はサイトから探しましたが、
       お陰で結構見つけ、へへ、それも良く見える、状態が良く分かるものを
       ここで使わせて頂き、
       サイト名の入っていないのが、拝借した写真です。
       



       先回ご案内した元のサン・ドメニコ教会、現在講演会場などに
       用いられている、その地下に
       12世紀の地下教会と異端審問所があったのですが、

       現在はナルニ・ソッテラーネア・Narni Sotterraneaとして公開されており、
       町の中心の通りをずんずん行き、元のサン・ドメニコ教会より手前に
       こんな表示が出ていて、ちょっとした広場になっているのに曲がります。
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       一番下の表示は、幼稚園があるという表示ですが、




       広場は幼稚園の子供達が遊び、迎えに来た母親達で混雑していて、
       そこで以前の訪問でも見た覚えの、この塔を撮っていましたら
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       一人のチビ君が、撮って!とポーズし、OKと撮って見せましたら、
       すぐ仲間を連れて戻って来て、ははは、全員でポーズ!
       こうして見ても、性格や将来の顔立ちも分かるようで面白いでしょう?!
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       右上角で笑ってみているのはアンジェラで、
       以前ちょっと書きました、50年前日本からの養蚕指導に訪れた
       松本からの日本人達と、暫く働いたという彼女です。




       広場にある入り口門をくぐり、階段をおり、右手に見える入り口が
       事務所、切符売り場。
       上の広場からはかなりの高低差
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       事務所から外に出れるようになっていて、その庭からの眺めがこれ
       つまり元のサン・ドメニコ教会は町の北西の崖っぷちにあり、
       奥の山腹に見えるのは、サン・カッシアーノ修道院・Abbazia di San Cassiano
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       アップするとこんな様子。 北からの高速をオルテ・Orteで降り、
       ナルニに向って谷底の道を来る途中で見上げる高さに見えましたが、
       10世紀に建設されたベネデッティーノ派の修道院
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       サイトで見つけた修道院内部、教会入り口の写真
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       14世紀に元のギリシャ十字の形から3廊式の聖堂様式に変更され、
       16世紀頃から僧侶達が退去しだし、ついには無人となり、
       建物の衰退も著しく進み、1970年代の修復までほって置かれたのだそう。
       
       内部にはあれこれ興味深い柱頭などもある様子ですが、
       時代が混乱するような部分もあり、
       さて現在はどのような管理で、公開されているものかどうか・・。




       遠望する写真で見えた位置から、かってはこちらの庭当りまで、
       修道院の領地だったという事ですが、

       こちらの庭にはこのアカンサス・Acanthusがたくさん咲いていて
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       私はこの花びらの形が柱頭の飾りの形になったと思っていたのですが、



       この葉の形、アザミの葉を大きくしたような葉の形が
       装飾文様に使われたのだそうで、
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       コリント式のと、ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレの柱頭飾り
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       いやぁ、やはり花びらの形も装飾文様になっていたと・・。




       さて、庭から入った場所でガイドさんからの一応の説明を受けますが、
       入り口の様子を一連でご覧頂きますと
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       最後の写真の軒下に見える左側の鉄柵の付いた扉口
       これが発見された地下教会の入り口で、
       上のさし掛け屋根はかって発見された時はなく、
       手前の前庭、この一帯は当時住み着いていた老人の
       家庭菜園だったのだそう。



       つまりです、1979年の5月、青年ともいえない少年の年頃の
       6人が洞窟探検と称し、新しく手に入れたロープの装備を使い、
       左側の高い壁を伝って、この庭に下りたのだそう。
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       第二次大戦の際、この一帯は爆撃を受け城壁が崩れていたのだそうで、
       きっと少年達には格好の遊び場と思われたのでしょうね。

       所が下に住み着きちゃっかりと家庭菜園を作っていた
       エルナーニ・Ernani の上に舞い下り、畑を荒らした少年達に
       老人は怒りますが、洞窟探検、宝物探しと聞き、
       エルナーニは、この壁の奥に宝があるに違いないと思っている!と。

       上の写真で見て頂いた地下教会の入り口には、
       今でこそ張り出しの屋根も付き、鉄柵も装備されておりますが、
       当時は石の壁で塞がれ、上部がほんの少し開いていたのだそうで、
       エルナーニ自身は何かあるのではと思いつつ、自分は潜りこむ気もなく、
       少年達に教えたわけですね。




       これが当時の少年達6人で、現在もボランティアたちのグループ
       UTECの創立者でもある、ロベルト・ニーニ・Roberto Nini
       が一番の年長で20歳だったそう。
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       このロベルト・ニーニは、リンクしますあれこれの
       Youtubeに登場して、地下教会や異端審問所に付いての
       説明をしておられる方で、
       彼はこの後大学に進み、考古学を修められたのだそう。
       ちょうど当時の冒険で出会ったこの地下教会を初めとする
       歴史の謎が、彼の一生を決めたという事ですね。




       潜り込んだ少年達が見つけたのはこの地下教会!
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       たっぷりと毎日与えられていた家庭菜園の水が上から浸み込み、滴り、
       発見された当時は、上から薄く石灰の幕をかけたようになっており、
       それでもフレスコ画に描かれた左右の天使の目が射る様に見えたと。

       左の下に槍を持っている天使は大天使ミケーレで、
       発見されて後12世紀建設のこの教会は改めて聖別を受け、
       サンタ・マリーア・デッラ・ルーペ・Santa Maria della Rupeと呼ばれますが、
       元の名はサン・ミケーレ・アルカンジェロ・San Michele Arcangelo
       分かったのだそう。




       少年たちは周囲の壁を叩き音響の変化を探り、
       ある部分の壁の奥が空白であるのを知り、崩したく焦りますが、
       隣に住んでいる住人のシニョーラが、自分の家にも被害が
       及ぶのを恐れ許しません。

       で、町中が見物に出かける「輪の競走」の夜を狙い決行。
       するとその奥に、長い細い通路が口を開け!!
       

       その通路の先には広い地下室があり、
       それがかっての異端審問所であった事が分かったのですね。
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       異端審問所、そう、キリスト教の教義に反する者であるかどうかを
       審問する所、その為には拷問もし、まずは死を逃れられない審問所。
       恐ろしい事は、その人自身のみでなく、証人させようと狙われた人間も
       拷問を受けたこと!

       ここがその場所であった事は、ヴァティカンの記録にあった
       地図で分かったと言いますが、

       ガイドさんの話では、今ここに見える拷問台2つ、
       右が引き伸ばし器、左が上に見える三角の角の上に上から落とす、は、
       ここに残っていたものではない、という事でしたが・・。

       に、拷問の図も出てきます。
       



       そして審問兼拷問所の横にある、そう広くも無い独房がこれ
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       壁一面に刻み込まれた様々な暗号のような図と文字!
       
       これの殆どを掘り込んだ人物は、
       Giuseppe Andrea Lombardini・ジュゼッペ・アンドレーア・ロンバルディーニ、   
       と彼自身が刻んでおり、
       彼はスポレートのサンタ・セーデ・Santa Sede、この言葉をどう訳したら良いのか、
       意訳して、カトリック教会での最高権威を持つ(事務所)とでも?
       に勤める伍長で、
       逮捕された友人を救うために働き、逆に逮捕された様子。
       



       一番上に見えるのは、真ん中に IHS ・救世主キリストの意 を図案化した物で、
       その左右に IL PARA   TISO SANTO・Il Paradiso Santo・聖なる天国
       にも見えるように、わざと D の字が省かれ、T で置き換えられています。
 
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       これは上記した彼の名前の中のDを使うべき箇所もTの字になっており、
       自分をこの様な異端審問所、独房に落とし込んだドメニコ会派の頭文字である
       D を意識し、憎み、省いたものだろうと。

       R が我々には V かとも見えますが・・。
       引っかき削り込んでいて、赤く見える字は砕石+おしっこ、なのだそう。

       中には、シンボルらしき印が何か分からなかったのが、ここを訪れた
       観光客の一人が、あれはフリー・メイスンの印であると教えてくれたり、
       とにかく全部の壁一面に広がっておりますが、未だに書かれた意味が
       判読できないものもあるそう。

       4,12,1759の数字も見えますが、もう1つの数字から想像するに、
       彼がこの独房で過ごし、取調べを受けたのは
       約3ヶ月間だったろうといい、その後特赦を願い3年後に許しが出て、
       その後の彼がどこに行ったか、どこで亡くなったかは分からないと。

       彼の名はヴァティカンの記録にも残っているのが、
       10年ほど前に分かったそうで、
       独房の文字は殆どが彼の掘り込んだもので、他には2人かな、
       の名前が見えるそう。

       
       そして彼の他にも一人名前が挙がるのが、ドメニコ・チャボッキ・
       Domenico Ciabocchiで、1726年の4月重婚罪で逮捕され、
       この独房に入れられたのが、看守を絞殺して逃げます。

       逃げた後どうなったかを、ガイドさんが話してくれましたが、
       逃げたものの2人目の妻が恋しく便りを出し、ははは、
       勿論ちゃんと見張りがついていて、会う約束を教皇領との境の町にして
       返事を出し、やって来たのを再逮捕した、という事。

      
       この異端審問所と独房に至る戸口は石を積んで隠してあり
       1860年にイタリア国家統一がなった時、ガリバルディ軍が到着し
       修道院を略奪したので、ドメニコ会僧たちは放棄して逃亡
       老人達の言い伝えで、町に地下があると言われていたものの、
       誰も見た事がなかったのを6人の少年達が見つけ出した訳です。

       つまり新しいイタリア国が出来る直前まで、19世紀まで!
       我らが中世からの歴史の1つと思い込んでいた
       あのおぞましい異端審問所なるものが、纏綿と続いていた事になります!!

       という事は、
       きっとナルニの町だけの事ではなさそうと思われませんか?
       ドメニコ会派は異端審問では大いに活躍したという話ですしね。

       
       そして重婚罪のチャボッキの記録は、町の記録にも名前があったのが
       見つかったのだそうですが、
       全審問記録が見つかったのは、なんとアイルランドはダブリンの
       トリニティー・カレッジの図書館から!

       これも聞いていて、携わったヴォランティアの方にとっては
       ちょっとした鳥肌物の因縁話の様にも感じられたろうと思うほど
       興味深い話なので、ここにご披露しますね。

       つまりこの記録類は、ナポレオン軍が到着してあれこれかっぱらい、
       しっかりパリに持って帰っていたのを、
       ヴァティカンから特使が行き、どんな記録かを調べた後、
       大したものではないと思うのを古物市で売ったらしいのです。
       一駄分と言ったか、一行李と言ったか、ちょろまかしたとか・・。
       
       それを買ったのがダブリンの図書館に収まっていた、というのも、
       一学生がここの見学に来て話を聞き、それは自分の大学の図書館にあると

       ヴォランティア達はこの地下を整備し公開し、そうやって幾らか
       稼いでは保存費用、新しい発掘に使っているのだそうで、
       到底ダブリンにまで出かけて調べる余裕もなく、
       ヴァティカン古文書館でコピーを頼むと、1枚80エウロなんだそうで!
       半ば諦めていたのが、
       ある日大きな荷が届き、中にはいっぱいの裁判記録のコピー!
       それが重婚罪でつかまったチャボッキの全記録だったそうで、

       漸くに長い年月の調査、約30年間の調査の末に
       地下の異端審問所の働きが明らかにされた事になります。

       Youtubeはイタリア語のみで、説明も重複しますが、
       2つ目のには、町のご案内もありで、

       町のみのご案内は




       長々とお話しましたが、
       他の地下室を利用しての展示もされており、
       その中のひとつ、
       ちょっとこれは見難いのですが、中央の鉄製の物にご注目を
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       真っ直ぐ続くアッピア街道に感嘆したものですが、     
       その建設などに使ったものがこれ。
       上に十字に渡された棒から、錘に糸のついたのが2本ずつ下がり
       これを支柱の後ろから眺め、真っ直ぐの位置を決め、
       先行する杭打ちに指示したというもの。

       そうなんだ、こんな道具を使って、あの真っ直ぐな
       美しい道が出来たのですね。




       こちらは現在のヴォランティアの皆さん達で、
       中央にしゃがんでおられるのが、ロベルト・ニーニ氏
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       地下教会、異端審問所の公開は、ガイド付きで約1時間
        6月15日から9月15日まで
         月曜~金曜12時と16時  土曜 12時 15時 16時15分 17時30分
         日曜と祭日 10時 11時15分 12時半 15時 16時15分 17時半
       
        4月1日から6月14日  9月16日から10月312日
         土曜 12時 15時 16時15分 17時30分
         日曜と祭日 10時 11時15分 12時半 15時 16時15分 17時半

        11月1日から3月31日
         土曜 15時
         日曜と祭日 11時 12時15分 15時 16時15分

         クリスマスは休館

        ガイドはイタリア語、英語、フランス語などで、他はオーディオ・ガイドですが、

        日本語は・・?


        予約は 333.1041645 または 0744-722292

        info@narnisotterranea.it 規定時間以外の日時でも予約は可能との事



     ★ 追記です ◆


       シニョレッリさんが2017年6月に行かれた際に、

       見学人が少ないため事前予約のみ受け付けている、との事で

       閉まっており、見学できなかったそうです。


       ので、サイトを確かめましたが時間は上記の通り、

       グループ以外の予約は必要ないとの事ですが、


       ご希望の方は予約をされた方が良いかと思います。






       地下を辿って元のサン・ドメニコ教会内もちょっと拝見
       写真なし、うろつきなしで、こういう柱の壁画などは見られず・・。
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       今回は少し重いお話が続きましたので、
       最後は、毎年5月に行われるナルニの町を挙げてのお祭り
       「輪の競走・コルサ・ディ・アネッリ」の写真を少しご覧頂きますね。

       これは中心通りで繰り広げられる「中世の市」
       様々な屋台店が並び、楽しそうでしょう?
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       「輪の競走」の前夜には、町の各地区の楽隊の競演もある様で、
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       これは2015年のものですが、余り手振れが無いので、




       美人さんを。 2015年のオフィシャル・イメージですと。
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       競技の模様を2枚
       吊るされた輪の中を騎乗の選手が槍で突くのですが、
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       競技場の広い場所と、町中の狭い通りでのと2種類見つかりましたが、
       競技は2週末に渡り繰り広げられる様子なので、その違いかも。
       済みません、詳しく読む余裕がなく・・。




       勿論、お祭りには美味しい食事も付き物ですが、
       ははは、こういう人が作る料理は絶対美味しい筈ね!!
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       最後は落穂ひろいを、ははは。
       先回ご覧いただいた紀元前27年のアウグストの橋ですが、
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       1826-27にフランスの画家カミーユ・コローが描いたのを見つけました。
       ルーヴルに収蔵されているようですが、

       なんとネーラ川がかなり幅広いではないですかぁ!
       私が見た撮った川の2倍は軽くありますねぇ。
       今この左岸のすぐ近くを国鉄が走り、家も立っているのですけど、
       現在は水量が少なくなったのか、それとも画家のデフォルメかな?

       それにしても遥かフランスから、ウンブリアの南のナルニまで、
       あの当時どの位かかって辿り着いたのでしょうか?!
       その画家魂に、敬意を表しますです。


       という、ナルニのご案内その2でした。
       お楽しみ頂けました様に!



     ◆ 嬉しいご案内を ◆

       皆さんは「ルネサンスのセレブたち」というブログをご存知でしょうか?

       ルネッサンスのみでなく、ローマ期の歴史も含め、様々な人物や
       絵画、歴史上の事柄に付いて詳細に書かれているブログで、
       書き手はCuccila・クッチョラ・子犬さんと仰います。
       この名はイタリア人のご主人が、小柄な奥さんに付けられたとか。

       ブログの最初からファンになったのですが、
       しっかりした文章、内容、そしてローマ大学に留学され
       勉強された事なども知るにつけ、
       いつか必ず何かを成し遂げられる方、と思い、
       遠くから、頑張って下さい!とエールを送って参りました。

       彼女とは未だお会いした事なく、メールで時々のやり取りなのですが、
       それでもお付き合いはもうかなり古く、
       暫くしてお生まれのお嬢ちゃんが、この秋から小学校に!
       というお付き合いです。

       その彼女がどうやらウェブ・マガジンの書き手となったらしい、
       というニュースを知り、メールをしましたら、
       暫く前にお返事を頂き、
       
       講談社の Courrier  クーリエ・ジャポン
       というウェブ・マガジンに記事が既に記事が2つ掲載された事、

       「薔薇の名前」のウンベルト・エーコの遺言に付いて
 
       イタリアの「観光できない楽園」をめぐって

       偽イタリア産食品に気をつけろ
       
       これ以外の新しい記事は、署名が出ないので探しようがなかったのですが、
       新しい記事も既に載っているのかもしれません。

     
       そして別のウェブ・マガジン CIRCUS には

       ダ・ヴィンチの食堂 第1回 天才達の食事情   
       雑誌は月刊のようで、アドレスで出なくとも、
       右のカテゴリ欄「最近の記事」から読めます。
       
       第2回 美食の国イタリアの給食あれこれ
       と載っているのを拝見できました。

       こちらは署名入りですし、「ダ・ヴィンチの食堂」で
       調べられますね。

       Cucciolaさんのファンの方、またそうで無い方も、
       どうぞ彼女のブログ以外の記事にも、ご訪問お願いいたします


       cucciolaさん、遂にご自分のされたかったお仕事を始められ、
       本当におめでとうございます!!

       現在されているお仕事、お家の事、そして子供さんの事、
       様々にお忙しい日常の中で、別に調べて書く仕事が増えるのは
       大変だろうと思いますが、
       幸いご主人が協力されて下さっていると知るのも、心強く、

       ご自分の念願に向って、次なる飛躍に向けて
       体調にお気をつけ、大いに頑張って下さい、と応援いたします!!

       フレー、フレー、クッチョラ!!
       


     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、お終いと、描き始めと、 カルページカ村の日の出 を
       アップしています。    
       見てやってくださ~い!    



     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     

       


    
     


by italiashiho2 | 2016-07-24 00:43 | ・ウンブリア州 | Comments(10)
2016年 05月 05日

   ・・・ ヴァルヴァゾーネ ・ イタリアで一番美しい村々 ・・・

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       5月に入り、そちら日本はゴールデン・ウィークも終盤ですね。
       良いお休みを過ごされましたでしょうか?

       こちらイタリアはお天気が一定せず、まだ朝夕は冷え冷え、
       北の山々には雪が見え、家の中はまだ暖房が切れず・・!
       5月に入ってもまだ暖房をつけているというのは、
       イタリア25年の居住で初めてかと・・!

       幸い今週後半はお天気が続く様子ですから、
       少し青葉若葉を愛でに、近くに出かけてこようと思っています。


       さて今回ご覧頂くのは、先週出かけてきたフリウーリの
       ヴァルヴァゾーネ・Valvasone
       「イタリアで一番美しい村々」に登録されている、
       中世の町並みがそのまま残っている小さな町です。
       
       上の写真は、町の入り口にある細長い広い広場から見える、
       町のドゥオーモ、サンティッシモ・コルポ・ディ・クリスト
       Duomo del SS.mo Corpo di Cristo.

       オリージネは15世紀のロマネスク様式だったと言うのですが、
       現在のは19世紀の末に大きく改修されたネオ・ゴシック様式。




       鐘楼は15世紀のロマネスク様式のままと。
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       この鐘は毎夕9時(夏は10時)に豊かな響きを届けるのだそうで、
       かってはすぐ近くを流れるタリアメント河を渡る旅人達、
       遅くなって渡る旅人達に方角を知らせる役目もあったといい、

       伝説では、領主の娘が近くの森で道に迷った時、父の公爵が
       鐘を打ち鳴らし続けるよう命じ、娘は無事に戻れたと言う話もあり、
       またナポレオンの侵攻時代、この河の戦いで亡くなった人々に
       祈りを捧げる為ともいい、
       この伝統の鐘は今も響き渡るのだそう。
       



       ヴァルヴァゾーネの町はどこにあるか、地図をどうぞ
       ポルデノーネ・Pordenoneから北西に、コドゥロイポ・Codroipo
       に近く、切れて見えるパッサリアーノ・Passarianoに
       馬蹄型をした大きな中庭を持つヴィッラ・マニンがあり、
       間に流れるのがタリアメント河・Tagliamento。
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       当日の午後訪問したサン・ヴィトー・アル・タリアメント
       San Vito al Tagliamento の町は、南に。
       



       町の地図をどうぞ
       ほぼ楕円形の真ん中に細長い広場があり、中心にドゥオーモと
       その横にインフォメーション、そして突き当たりにお城。
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       勿論現在の町はもっと周囲に広がってはいるのですが、
       これが中心部の姿で、




       上空からの姿がこれ。 真ん中にドゥオーモが見え、
       一番奥にお城で、町の大きさが分りますね。
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       そうそう、地図、写真ともに、北は左側です。

       フリウーリ全般のご案内はこちらに。
       http://italiashio.exblog.jp/i9/



       当日は終日雨の天気予報で皆心配したのでしたが、
       有難いことに曇り空、時にチラッと陽が射す、と言う様子。
       それでも写真を撮るには、青空が残念ながら・・!

       駐車場でバスを降りて後、ガイドさんとの約束に15分ほどある、
       と言うので、皆カフェに入ったのですが、
       shinkaiは広場から西側の様子を窺いに。
      
       こんな通りが続き、左中に見える教会は
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       こんな様子で、教会の名はサン・ピエトロ・エ・パオロ。
       中のフレスコ画が14~15世紀の物と言うので、
       教会設立はほんの少し前でしょうか。
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       すぐ隣接しているここに、かってオスピターレ・Ospitale
       タリアメント河を渡ってくる徒歩旅行者、病人の救済所が
       併設されていたのだそうで、こちらは1355年の記録があるそう。
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       上にも記述しましたタリアメントの渡河場所ですが、
       北からの徒歩旅行者、巡礼達にとって幾つか上流にもあったようですが、
       このヴァルヴァゾーネの東、グラーヴァ・Gravaの渡河地点が最後。
       ここから平野に入り、川幅が広く水量が多くなるので、
       ここで渡ったのだそう。

       この戦略上重要な場所で、渡河税を取る為にも、ははは、
       城の重要な存在価値があった様子。




       教会内部ではちょうどシンドネ・Sindone・キリストの亡骸を
       包んだと言う聖骸布の写真展示が行われており、
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       肝心の壁画はどれもパネルで半分しか見えなかったのですが、
       これは祭壇左側の物で、  教会内いずれの壁画も、
       すべて様々な病気から護る聖人達の姿が描かれており、
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       聖ビアージョ・喉の痛み、聖女ルチーア・眼病、
       聖女アッポローニア・歯痛、聖クリストーフォロ・渡河の守護聖人、
       聖ロッコ・ペスト などなどの諸聖人の姿でした。




       教会入り口上には小さなオルガン、16世紀末から~17世紀に
       かけての物と見なされるオルガンがあり、周囲は壁画で装飾。
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       所で、上に書きましたシンドネ・聖骸布ですが
       現在トリノの聖堂に安置されている聖遺物で、
       これが写真を撮って陰画に浮かび上がったと言う
       キリストの亡骸の姿。
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       細長い布で全身を覆っていたもので、幅1,1m 長さ4,36mの
       亜麻布で、
       人物像は肉眼では見えないのだそうですが、
       血痕の滲みなどが残っているのだそう。

       人物像の両脇に4つ見える謎のような形は、
       かってフランスの教会に保存されていた16世紀、火事に遭い、
       折られていた布の角が焼けて、こういう穴が開いたものと。

       このシンドネの真贋両説がある事も存じておりますが、
       shinkaiとしては、様々な研究者の説明をTVで見たこともあり、
       またキリスト教徒にとってのこのシンドネが持つ価値の重みも
       知っておりますので、こういうものです、と申し上げるのみに。
       



       この辺りを書いていた時に、パシャッと電源が落ち、
       PCも、時計も、洗濯機も皆停まりまして・・、ああ、なんでやねんなぁ、
       コンドミニオの倉庫の我が家の電源を入れなおし、気持ちを取り直し、
       情け容赦なく消えてしまった部分の書き直しを・・!
 
       
       道の向かい側もこんな風にポルティコになっていて
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       朝のこの時間は閉まっておりましたが、ここはワイン・バーですね。
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       そして隣の建物の2階の窓の間には、こんな壁画。
       ここも聖母子を囲み、左に聖セバスティアーノ、右に聖ロッコ。
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       そろそろ集合時間が近づき、ドゥオーモ前の広場に向うと、
       綺麗な猫ちゃんが、尻尾をくねくねと迎えてくれ
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       ドゥオーモ前の広場の右側は、楕円形に建物がつながり
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       こちらは一番右端の建物の2階の窓の様子で、
       かってはどこにどんな形の窓があったのか、良く分るでしょう?
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       続く建物群は、こんな風に如何にも中世風の間口が狭く、
       そして屋根の高さが皆それぞれで、リズムがあって面白いですよね?!
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       建物の前にあった、かってのアイス・クリーム売りの屋台、というか、
       自転車の前に冷蔵庫を積んで走っていたやつですね。
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       さてガイドさんが来られ、ドゥオーモの脇の道を奥のお城に
       国旗の見える所に、インフォメーションあり。 
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       これがヴァルヴァゾーネのお城、既に13世紀前半に記録のあるもの。
       ですが、長い世紀の変遷の間に何度も改修され、
       現在はかっての戦略上の要塞城とは違って、ルネッサンス風の
       居城となっており、近年の修復がまだ続いています。
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       我らは幾つかの修復済みの部屋や、小さな劇場なども見れましたが、
       ここはまた改めてご案内という事で、今回は正面のみを。




       お城から西に少し行った所にある水車。
       かってもこの場所にあったのを偲んででしょうね、
       今のこの水車自体は何年か前に備えられた物らしく、
       イルマ・Irmaという可愛い名の水車が回っておりました。
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       こちらは水車小屋の前面に残るかってのフレスコ画の名残。
       ガイドさんの手の見える上辺りに、聖母子像があったといい、
       そう言われて見ると上に玉座の跡が見えますが、
       1473年という年号はしっかり残っておりますね。
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       横に見える文字ですが、これはフリウーリ語だそうで、
       ガイドさんは聞くのは分るけど話せないと、
       グループ内の何人かのフリウーリ出身者に答えておりました。




       この水車小屋の横に見えた石塀の積み石の様子
       この積み方はフリウーリのこの一帯の方法なのか、
       ヴィッラ・マニンにもこれを見ます。
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       町の中を辿る道。 こちらはかなり広い道幅で、
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       こちらは狭い道。
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       いずれもきちんと整備されていて、いや、正直な所、
       されすぎの感さえ感じ、
       居住されているのも分る家並みではあるのですが、
       ちょっと人気が無さ過ぎる感じもしまして・・!




       こんな扉の飾りを見ると、ちょっとホッと・・。
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       水車の水路が町の南に流れてきた辺り、
       水辺に見えるのはかっての洗濯場で、
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       この近く藤が咲き誇り、一帯に甘い香りが漂い
       お家の前の小さな花壇にも、花が咲き乱れ、
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       このお家の窓辺の小さな鉢、そして花壇も可愛いでしょう?
       こんなのを見ると、古い町にも人気を感じホッとしますね。
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       葡萄棚が窓辺に設えられ、もうこんなに育っていて、
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       中心広場にあるお家の窓も素敵でしょう?!
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       そして最後にドゥオーモに戻り、中に入りまして
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       これは正面左の柱に見える、14世紀始めのビザンティンからの絵で、
       聖母が授乳している図ですが、お乳の位置が脇過ぎません?! はは。
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       貰ってきたパンフレットには、板に油彩とありましたが、
       明らかに、黄金背景の、板にテンペラ画の間違いと。




       これよりも凄いお宝がこのドゥオーモにあり、
       右の壁上にあるこのオルガン。イタリアに唯一残っている
       16世紀にヴェネツィアで作られたオルガンで、
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       1532年300ドゥカーティで、ヴィンチェンツォ・コロンボ・
       Vincenzo Colonbo が製作した物と言い、
       それに彫を施した箱を誂えたのがステーファノ・マラゴンとジローラモ。
       金箔師のトンマーゾ・ダ・ウーディネが仕事を終えたのが1538年。

       オルガンの箱に絵を描くのを請け負ったのが、通称ポルデノーネ・Il Pordenone.
       が彼は1539年に亡くなり、後を引き継いだのが弟子であり婿の
       ポンポーニオ・アマルテーオ・Ponponio Amalteoと。

       北イタリア、とりわけフリウーリでは良く出会うポルデノーネと、
       ポンポーニオ・アマルテーオという画家の名ですが、
       両者の関係を今回知りました。

       今見える上の大きな絵は、「マンナを拾う人々」で、
       マンナ・mannaというのは、天から授かる食べ物の意ですね。




       で実は、この歴史的なオルガンの音色を聞かせて頂いたのでしたぁ!

       今こうして静々と、奏者の方が白手袋をはめて扉を開けましてぇ、
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       じゃ~~ん、中はこんな風! 如何にも典雅でしょう?!
       布の赤色はこんな風に派手ではなく、もっと濃い暗い赤で、
       オルガンのパイプも、もっと黒く見えました。
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       聞かせて頂いた曲とは違うかもしれませんが、
       こちらでこのオルガンの音色を聞きながら、町の姿も見れます、どうぞ

       扉の内側の絵の左側は「イサクの犠牲」で、右は何だったっけ?!

       このオルガンは特別の際に弾かれるのだそうで、そう、我らは特別、ははは、
       平常のミサの際には、身廊左にある小さな普通のオルガンだそう!




       町訪問の間、晴れ間が見えたり、雲がかかったりでしたが、
       やはり晴れた風景が良いですねぇ!
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       最後は、広く長いピアッツァ・メルカンテ、市が立つ広場でしょうか、
       中世のままの姿を保つ古い町の、古い家並みの広場でした。
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     *****

       ◆ グループ展のお知らせです ◆

       我が絵の師であり友人の二木一郎さんが講師をされている
       NHK文化センター、日本画青山教室の皆さんのグループ展
       未然会展が、
       東京中央区京橋のギャラリーくぼた本館3階にて、
       5月9日から15日まで開催されます。
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       どうぞお出かけ下さりご高覧賜りますよう
       ご案内申し上げます



     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、描き始め 花2点 と、 スコミーゴ村の葡萄畑 を
       アップしています。   
       見てやってくださ~い!    



     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     



  



by italiashiho2 | 2016-05-05 01:41 | ・フリウリ・ヴェネツィアジューリア州 | Comments(8)
2016年 04月 25日

   ・・・ モデナの大聖堂 グランデ広場 市の塔 ・ 世界遺産 ・・・

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       1997年に世界遺産に指定された、モデナ・Modena
       大聖堂・サンタ・マリーア・アッスンタ・イン・チエーロ・エ・サン・ジェミニアーノ・
       Santa Maria Assunta in Cielo e San Geminiano、という長~い名前を持つ聖堂と、
       グランデ広場・ピアッツァ・グランデ・Piazza Grande 大聖堂南面の広場、
       市の塔・トッレ・チーヴィカ・Torre Civica

       今回は、このモデナの街の中心にあるこの3つ、
       中世からモデナ市民の生活の要であった、のご案内を。

       トップの写真は西上空からの眺めで、どの位置に、どんな大きさか、
       よくお分かり頂けると思いますが、

       真ん中に見える白い大きな高い塔、これが大聖堂の鐘楼で、
       ギルランディーナ・Ghirlandinaの愛称を持ち、
       その右に大聖堂で、左脇すぐに見える建物群に聖堂博物館があり、
       大きな広場がグランデ広場
       広場の北西を囲む形であるのが市庁舎で、見える塔が市の塔

       ついでにご説明しますと、
       グランデ広場の南面を閉める四角い建物は、元裁判所のあった場所に、
       1963年ある銀行の本拠事務所の建物が建設された物で、
       大聖堂正面前広場の右に見えるのが、大司教の住居
       
       写真左上に見える細長い公園の奥、円形の屋根が飛び出しているのが、




       グランデ広場から見る、左に大聖堂、
       正面鉤の手に市庁舎と市の塔。
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       市の塔の上部。 下に切れて見えるアーチの中に美しい像があるのですが・・。
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       1671年地震の後に崩壊した、と言う説明がありましたが、
       こうして見ると最上階の部分のみの瓦解だった様子ですね。


       モデナには今年3月と4年前の夏、それ以前22年前に訪問で、
       今回、4年前の夏の青空の写真でOKなのは使っております。
       でないと、曇り空ばかりの写真では余りにも寂しいですものね、
       で、ブログ名のある写真はshinkaiの撮った物で、他はサイトから拝借の物。




       グランデ広場の北東の隅、写真奥に見える階段が市庁舎への階段ですが、
       その前にこんな大きな石舞台があり、
       リンガドーラの石・Pietra Ringadoraと。
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       13世紀の記録に既に残っており、その後何度か場所を移されもしたものの、
       1936年より元々あったこの場所に。

       ヴェローナの赤い大理石、長方形の大きなもので、
       リンガドーラの石、つまりアッリンガトーリア・arringatoriaの石、
       この上に立ち、市民に演説をするのに用いられたというもの。

       ですが、この石は他にもいろいろ用いられておりまして、
       泥棒や負債者への懲らしめ、溺死者の身元確認、そしてまた
       殺人の疑いがある場合などにも、ここに展示されたのだと。

       面白いというか凄いのが返済しない負債者への懲罰でして、
       広場で市の立つ日、頭を丸刈りにされ冠を被らされ、
       太鼓の知らせを先頭に広場を一周し、ははは、
       たっぷり松脂を塗ったこの石の上に、お尻を丸出しにして座らされ、
       3度、チェード・ボニス・財産をすべて放棄します、と言わされたと。
       その言葉を言わされたというよりも、そのように判決され、
       多分お尻を叩かれながら自ら宣言した、という事なのでしょう。

       中世の判決は大変厳しく、書きながらそういえばと思い出したのは
       パドヴァのパラッツォ・ラジョーネに関係しての記事で、
       黒い斑石ヴィトゥペーリオの石 


       チェード・ボニス・cedo bonisの意味が最初正確につかめず、
       友人のジュリアーナに援けを求め、その内にパドヴァの件を思い出し
       彼女にも知らせましたら、早速に興味深い!との返事。

       ただパドヴァの方は、ちゃんと下着、パンツをつけていた、
       という点が違い、その辺りで大いに笑った事でしたぁ、ははは。
       



       と言うような市民生活に直結した広場なのですが、

       その広~い広場の南東の隅から撮って
       漸くに鐘楼と聖堂が入る大きさ、高さ!
       鐘楼の高さは86,12m、この塔には上がれる様子。
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       リンガドーラの石のある辺りから見る、
       聖堂の後陣部分で、一番上に立っているのは大天使ミケーレ。
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       鐘楼、ギルランディーナの頂上部分
       ギルランダ・ghirlandaは花飾り、花冠を意味しますから、
       如何にモデナ市民に愛されてきた鐘楼か、よく分りますね。
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       ラ・ギルランディーナをこちらで。

       脱線ですが、
       上のラ・ギルランディーナを探していて偶然見つけた、
       初めて聞いた彼の歌、「歌・IL Canto
       ・・君が行ってしまった日から、夜はもうここには来ない
         時間も思い出も失くし、死なない愛の歌だけが残る
       普通の人々の歌う姿も写り、しっとりと歌うパヴァロッティの
       今は亡き声と姿に、思わず涙したshinkai・・。




       聖堂の脇からの姿、半分
       1099年6月9日、記念すべきこの日、
       現在に残る新しいモデナの聖堂の最初の石が置かれ
       内部の装飾もすべて済んで完成したのが、300年後!
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       こちらに大きな屋根の形が見える内陣の張り出し部分、
       中側左のは15世紀に設置された説教壇で、
       左に張り出す大きな入り口は、ポルタ・レジーア・Porta Regia.


       この聖堂の位置には5世紀からの2つの教会があり、
       聖堂のクリプタ・地下祭室には6世紀から保管されてきた
       街の守護聖人サン・ジェミニアーノ・San Geminianoの遺骸があり、
       教会側のみでなく市民からの強い要請があっての建設で、
       古いこの2つの教会を壊しながら、新しい聖堂が造られたと。

       1099年5月23日付の後陣外の石碑には、
       主任建築家ランフランコ・Lanfranco(11~12世紀)の名が見え、
       このモデナの聖堂が唯一彼の作として確かな物なのだそう。

       ランフランコはマエストリ・コマチーニ・Maestri Comaciniと呼ばれる、
       コマチーニというのはコモ湖周辺出身という意で、
       今も各地の建築物に名の残る、左官や石工の職人集団も連れて来た様子で、
       彼らはすぐに仕事に取り掛かりますが、

       ランフランコはじきに彫刻家のWilgelmo(11~12世紀)発音がぁ・・、
       多分ラテン語のWillelmusからの名で、イタリア語ではグリエルモ、
       (ウィルエルモと書いておりましたが、クリスさんのコメントにより) 
       グリエルモと標記させていただきますね
       
       このグリエルモは、イタリアで初めて作品に名前を記せた作家の一人。
       教会の装飾関係のみだけでなく建築もで、
       彼が正面壁の仕事を手がけ始め、
       ランフランコ達は後陣の仕事を、という進捗具合だった様子。


       でこういう両面からの仕事の進み具合の結果
       計算違いがあったのが良く分る、真ん中の繋がりなんだそう!

       一連の3つの窓を持つアーチの連続が、ほら、
       ポルタ・レジーアの右横で半分になっているでしょう?!
       まぁ、ポルタ・レジーアは後年開けられたからとはいえ、
       実際にアーチの広さや、窓の高さがかなり違うのだとか、ははは。

       こういう寸法の間違いは、ロマネスク建築の前半では頻繁にあった様で
       壁が膨らんだり、アーチの大きさの違い、帯状装飾が踊ったりなど等、ははは
       ゴシックになっていくらか緩和されたのだそうですが、

       当時にあっては、対称であるとか比率とか均衡性などは、
       特別な重さを与えられていなかった事もありで、
       はぁ、こう聞くとゆったりとして、長閑で良いですねぇ、ははは。





       これがグランデ広場に面したポルタ・レジーア
       最初の建設には無かった入り口、1209~1231年の建設で、
       円柱を背に乗せた獲物を抱え込む2頭のライオン像。
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       レジーア・Regiaというここでの言葉は、レ・Re・王には関係なく、
       中世においてのラテン語 regeは、建物の中心的扉を意味するのだといい、
       確かにグランデ広場に向いての、聖堂第2の正面入り口ですね。




       この写真は4年前の夏、工事中の覆いの隙間から撮った物で、
       ローマ期のライオン像と見られる背に、円柱が乗っている様子
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       そして、入り口脇の柱並びの装飾の様子
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       ライオン像の背中の円柱は、上のプローティロ・protiroと呼ばれる
       柱廊式玄関を支え、多分中に見える聖人はサン・ジェミニアーノと。
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       サン・ジェミニアーノ・San Geminiano(312~397)モデナの司教であり、
       この街で亡くなり、悪魔祓いの力を持っているとの評判だったようで、

       ジェミニアーノも、ジミニャーノも同じなんですと。
       で、彼を守護聖人に戴く町は他に幾つも。




       で、このプローティロの屋根の上には、十字を持つライオン君がいますが、
       その斜め上の屋根の仕切り壁脇に見える像にご注目を!
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       聖堂屋根の上の仕切り壁の脇全8面に見られる、
       このいささか複雑怪奇な半人半獣像はメートぺ・metopeと呼ばれ、


       現在この屋根の上にあるものはコピーで、年月による損耗が大きく、
       1950年よりお隣の聖堂博物館に本物が保管されており、

       私も見に行きましたが、現在の屋根の上のものはかなり実物と
       印象が違うので、博物館のサイトからの写真をどうぞ
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       グリエルモの弟子と見られるマエストロ・デッレ・メートペ(1130年頃)
       の作品で、その意匠の奇抜さのみならず、彫の技術も大変優れていると。
       



       これはも一つ西に続いてある扉で、ポルタ・デイ・プリンチーピ
       Porta dei Principiで、半円の下、梁にある彫り物は、
       サン・ジェミニアーノの生涯の逸話にちなむ物と。
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       正面側・ファッチャータに向う前に一枚、見つけた写真をどうぞ。
       1942年の写真だそうで、グランデ広場
       背後に見える聖堂は、ちょっと趣が違いますね。
       年代から考えて、対爆撃予防の防護壁でしょうか?
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       それにしても、この大泣きの女の子!
       私より大分、へへ、言わせてぇ、年上の年代ですが、
       力いっぱいの大きな泣き声まで聞こえそうで、ははは。




       さて、漸くに大聖堂の正面に。 やはり青空が良いですねぇ!
       写真正面を横切るのは、トロリー・バスの電線でして、
       おまけに広場がそう広くないので、こちら側の小路からしか狙えず・・!
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       ゴシック式の薔薇窓と、正面頂上に立つ大天使ガブリエル像
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       聖堂上部の、キリスト像の周囲を4福音者のシンボル像が囲み
       左上人物・マッテオ・Matteo  左下有翼のライオン・マルコ・Marco
       右上鷲・ジョヴァンニ・Giovanni  右下有翼の雄牛ルーカ・Luca
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       こうして見ると、大体左上には人物のマッテオがいつも居るみたいですが、
       後は並ぶ順番に決まりは無いのでしょうか? どなたかぁ~・・。

       そして石の色もいろいろ違うでしょう?
       色の違いは脇の壁でも顕著でしたが、これは石材確保の為に
       近隣のかっての建築物の残りや廃墟の石を運んで来て使ったり、
       それにも不足すると、ローマ期の墳墓の石を掘りに行ったのだそうで、ははは、

       入り口脇の円柱を背中で支えるライオン像なども
       そういう訳でローマ期のものなのだそう!

       同じ様な顔をしたライオン君は、我がヴェネトはトゥレヴィーゾの
       ドゥオーモ前にも座っていますし、フェッラーラでも見かけたような・・!
       そうか、そうだったのかぁ!!




       という事で、ははは、
       モデナの大聖堂正面入り口と、円柱を支えるライオン君
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       背後の壁、両脇に見える浮き彫りの石版と
       入り口脇柱の彫はグリエルモ




       ライオンがこうして柱を支えるというのは、
       ギリシャ神殿の柱に人物が彫られているのがありますね、
       あれの発想から来ているのだそう。
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       グリエルモの彫りがかなり深めのしっかりした物であるのも
       良く見えます。




       支えるプローティロの一番上はこんな感じで、
       ここは司教様が顔を出される場所(だった)のだそう。
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       グリエルモの彫り、聖書の絵解きの浮き彫りは4面あり、
       これは正面左側の脇扉の上のもの。
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       人類創造、アダモからエヴァが生まれ、禁断のリンゴを食べ・・。
       アダモがぱくっと大口を開け、リンゴを食べているのが楽しいぃ!




       正面右扉の上の場面は、カインの殺害、ノアの箱舟、右は何かな?
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       そしてあちこちに浮き彫りが散らばりますが、
       如何にもの中世風な、怪奇で楽しい動物達がいて
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       柱の上の柱頭飾りにも、動物達や人間達がひしめきます
       光りの当っている物は4年前の夏の物で、
       聖堂の脇だったかもしれませんが・・。
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       では、内部に入って頂きましょうか
       先回の夏は修復中で、内部もクリプタ辺りのみの公開で、
       今回は暗く人出も多く、グループ行動で自由に動けず、
       思うような写真が撮れておらず、サイトから拝借を。

       大きな街の、また小さな田舎の町でも、教会はよく改装されており、
       オリジナルは古くとも、内部は新しく明るく豪華絢爛というのが
       良くありますが、
       このモデナの聖堂は大きな修復が15世紀に一度
       それまでの木製の桁組み天井だったのが、日本語で言う
       「交差ヴォールト」に変えられたものと、
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       18世紀にクリプタの内部にある、守護聖人サン・ジェミニアーノの
       お墓の周囲を高価な大理石に変えたり、窓の材質を変えたり、と言う程度で、
       
       お陰で、現在も建設当時のロマネスク様式を保ったままの
       外部と内部が立派に存在している訳ですね。

       内部は3廊式になっていて、翼部分はなしで、
       左側の列柱の中ほどに見えるのが説教壇。




       脇から天井部分
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       内陣部分、下がクリプタで、上部が祭礼用内陣
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       上部の後陣部分に見える絵がモザイクかと思ったのですが、
       これは18世紀末から9世紀にかけて行われた改修の一つで、
       モデナのいわば無名の画家が、ビザンティン式のモザイク画に
       見せる絵を描いたのだそう!

       これは良いアイディアと。
       小さな町の主教会に行き、現代風な絵でも素晴らしければ良いのですが、
       時に無い方がと、失礼! 思うようなのもありますので・・。
       



       クリプタと上の祭壇の間には、このようなポンティーレ・pontile
       直訳すると桟橋、があり、木製と思うのですが、
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       左の円形の説教壇・読経壇の周囲には4人の福音者たちのシンボルが、
       手前直線部には最後の晩餐、ジュダの接吻などの彫り物が。
       
       これらはランフランコ、グリエルモたちに続く12~13世紀の
       建築家や彫刻家達によって小さな変更や装飾が施されたもので、
       マエストリ・カンピオネージと呼ばれる、やはりコモ湖周辺出身の
       集団の名が残ります。       




       こちらは半地下のクリプタで、
       全面にはやはり動物やうずくまる人間達の背中が円柱を背負い、
       上部のポンティーレを支えます。
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       聖堂内の列柱の根元
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       4年前の修復中の聖堂内の様子も窺える写真を1枚
       これは説教壇に登る階段の様子が見えますが、
       絵が描かれているのが見えます。
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       当時この一帯、春の地震のあった後で、どうやら天井ヴォールトにも
       ひび割れがあったり、薔薇窓にも破損部分があった様子。




       この聖堂内には絵画が少ないのですが、
       右側廊部にあったフレスコ画と、
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       左側廊部の、テラッコッタ像の祭壇
       大変手の込んだ繊細な物!
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       正面入り口上の薔薇窓、簡素な美しさ。
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       聖堂から出ますと
       聖堂前広場の南側を占める大司教館
       今は店舗が入っていて、上階はどうなのかな・・。
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       聖堂前から西に抜ける小路の建物壁
       聖堂同様、古いイメージがしっかり残る部分がたくさん見え。
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       聖堂脇すぐの小路から見える、ギルランディーナの美しい姿
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       この小路の左横に聖堂博物館がありますが、
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       今右側にライオン像が見える所、ここにも聖堂入り口があり、




       ポルタ・デッラ・ペスケリーア・Porta della Pescheria・
       魚市場、魚屋の門と呼ばれますが、美しい彫りでしょう?!
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       1110年~20年の作だそうで、動物の形や逸話、12ヶ月の寓意が
       モチーフで、
       なぜ魚屋の門と呼ばれたかと言うと、すぐ近くに魚屋の屋台があり、
       この入り口からは庶民達が出入りしたのだと。
       



       最後は、博物館の庭のベンチと
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       小路が抜けるグランデ広場の、ポルティチの下のカフェの席を。
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       モデナの大聖堂、建設された1000年当時のロマネスク様式を
       今も伝える数少ない聖堂のご案内、
       不足ばかりでしょうが、何とか宿題を済ませホッとしています。

       歴史の教科書式記述ではなく、自分が見て感じた様子を
       自分の言葉でと思い、不足は不足のままでと思っておりますが、
       ・・お付き合い頂き、いつも有難うございます!
      
 
       これを書いている今日は朝は小雨、午後は薄曇なのですが、
       こうしてお天気の良い写真を最後に見ているだけでも、
       気分が救われます!

       皆さま方にも、良いお天気が!
       被災者の方々にも、一日も早いお天気の日が届きますように!!


     *****

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by italiashiho2 | 2016-04-25 01:11 | ・エミーリア・ロマーニャ州 | Comments(11)
2016年 03月 11日

   ・・・ モンザの中心ちょっぴり ・ 聖堂 鉄の王冠 王宮 ・・・


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       ロンバルディアの州都ミラノの中心から北東に約19キロ、
       街同士の境のみで言うと約8キロの近くに位置するモンザ・Monzaの街。

       日本ではモンザのサーキット場で有名だと思うのですが、
       古のロンゴバルト族の首都でもあるモンザのご案内、と言っても
       ほんのちょっぴりの中心、
       美しい聖堂と、そのお宝である鉄の王冠に付いてご覧ください。

       ずっと”モンツァ”と思い込んでいたのですが、改めて友人にも尋ね、
       発音を聞いてみると"モンザ”ですので、そのように書く事に。
       
       
       さてバスを降りた所から見える、奥に続く並木道
       昨年の春4月半ば新緑の候、なんとも清々しい公園の道でしたが、
       後で分ったのは、奥に見える白い壁は王宮の建物の壁。




       地図をどうぞ
       モンザの街の中心は、下に囲った中に見える菱形あたりで、
       四角い点を打った所に聖堂があり、北に広がる広大な公園の中に
       サーキット場があり、赤丸点を打った場所が最初の写真の位置、
       そしてVilla Realeとあるのが王宮
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       ですから今回歩いたのは、公園の南の端から中心の聖堂辺りまでの往復、
       そしてほんのちょっぴり聖堂の脇から川の辺りまで、という事になります。




       公園の端でバスを降りた辺りは既に中心街の外れで、
       なかなかに雰囲気の良いお屋敷街という感じ
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       街中に入り、この道を中心に向って行きますが、
       美しく整備された家並みが続き、やはり中世からの建物の
       保存である事が分かります。
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       今回は街中の写真を殆ど省略しておりますが、
       これはサン・ピエトロ・マルティレ教会前広場にあった
       モンザ出身の画家モゼ・ビアンキ・Mosè Bianchi(1840-1904)の像。
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       実は旅行の少し前に、このモゼ・ビアンキと言う画家の作品を
       サイトで見て大変に達者な画家で驚いておりましたので、
       あれ、彼はここ出身なんだ、とすぐ分った次第。

       という事で今回分家の水彩+色鉛筆ブログに
       彼の作品を少し集めましたので、ご覧くださいね。




       春らしい花が咲く横の小路も眺めつつ
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       これはサンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会
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       散歩中のすべすべ毛並みのお高いワンちゃんにも挨拶し、ははは、
       ねぇ、よだれが垂れてるよ!
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       歩いて行く先に中心の塔が見えて来て
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       塔の先と時計、そして建物の西側なんですがぁ、
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       肝心の全体像を撮っておりませんでしたので、サイトより拝借、へへ。
       はい、こんな風に建物の下がロッジャになっている、
       ラレンガーリオ・L'Arengarioという13世紀の市庁舎。
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       我々は写真の向こう側から近づいてきた訳で、
       2階に見えるテラス、かってはここから施政者が市民に話したテラスと、
       塔は後の時代に建設された物と。

       建物はご覧の通り長方形で、30,3x12,4m、
       現在は展示会場に使われているとのことで、
       ローマ広場と呼ばれるこの広場から道が放射線状に走り出すと。




       上のラレンガーリオから小路を辿るとすぐにドゥオーモ広場で、
       車が入らないここは市民の憩いの場でもあり、
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       広場の南面にこの素晴らしいドゥオーモ、
       サン・ジョヴァンニ・バッティスタ聖堂・San Giovanni Battista.
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       オリジナルの聖堂は6世紀末の物という事ですが、
       現在のは14世紀から建設が始まり17世紀に完成した、
       白と薄いブルーの石の縞模様に、細かい細工が施された美しい物!!
       



       正面扉の上の張り出した部分に、聖堂が捧げられた
       サン・ジョヴァンニ・バッティスタ・洗礼者ヨハネ像があり、
       左手の上には羊、右手の人差し指で天を指します。
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       扉上部の半円、ルネッタ部の彫像群
       下段の中央左にサン・ジョヴァンニ・バッティスタと、
       右に洗礼を受けるキリストですが、
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       ・・作者は水の表現に苦労したのでしょうねぇ、
       大変にユニークで、気がついて笑いましたぁ、失礼、ははは。




       扉上の張り出し部分の横に突き出す動物の飾りと
       上部の細かい細工、でも大変に彫りが深いしっかりした美しさ!
       まだ中世風を感じる部分も残り、新しい時代の彫像も加わっていますね。
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       聖堂内の様子、豪華でしょう?!
       わぁお~と見蕩れましたっけ。
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       天井画と入り口上のステンド・グラス
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       実は上の聖堂内写真はお昼解散前にさっと撮った物で、
       またじっくり中が見れる撮れると思っていましたら、そのままになり、
       内部の写真はこれだけで、残念・・!




       この聖堂には大きなお宝、聖遺物とされる物がありまして、
       それがこれ、鉄の王冠・Corona Ferrea・コローナ・フェッレーアと呼ばれる物。
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       内側真ん中に輪が見えますね、これがキリストの磔刑の時に使用された
       鉄の釘という事で、それを叩き延ばし、

       その周囲に
       
       

       金と宝石の飾りの金属板を6つ取り付けたもの
       現在は直径15cm 高さが5,5cm 重さが535gで、
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       聖堂の左側の礼拝堂で実物を拝む事が出来ましたぁ!
       
       礼拝堂内に我々が入りますと、入り口の扉は鍵で閉められ、
       小さな金庫の扉が鍵で開けられ、中から引き出した箱の鍵を開け、
       そしてその中にガラスの箱に入っていたと・・。
       つまり2重の鍵+入り口扉鍵、という厳重さでありまして、
       少人数づつが台の上に上がり、覗き込んで見れた、という・・。

       現在は飾りの金属版が6枚と書きましたが、実際は8枚あったそうで、
       この王冠は過去にあちこちに持ち運ばれているのですが、
       1324-45年にはフランスのアヴィニョンにまで行っておりまして、
       その際に盗まれ、2枚の金属板が盗まれ損傷を受けたのだそう。

       その後修復されたものの、2枚の装飾板が無い為に
       円周が小さくなり、現在の直径になっているのだと・・!


       この王冠が聖遺物というだけでなく、なぜ大事なのかですが、
       かってはこの王冠がイタリア国王の戴冠式に用いられたのですね。
       
       ジェルサレムでキリスト磔刑の際の十字架を発見したのは、
       皇帝コスタンティーノ1世の母であるエーレナであるとされ、
       その際に十字架に付いていた釘も発見と。

       其のうちの1本が帯状の飾りとなりコスタンティーノ大帝の
       兜の上に付けられていたのを、ロンゴバルド王であるテオドージオ1世・
       Teodosio I がミラノに持ち帰り、その後コスタンティノーポリに
       (現イスタンブル)、またイタリア・モンザにと変遷し、
       兜の半球として保持されていた様子。

       6世紀、時の教皇グレゴーリオ1世がロンゴバルドの王妃
       テオドリンダ・Teodolindaに釘の1本を贈り、それに対し
       夏の住まいをモンザに持っていた彼女は、595年隣に聖堂を建設したといい、
       これが現在の聖堂の前身となりますが、
             
       テオドリンダは贈られた釘を入れた王冠を打ち直し、
       装飾の金属板を付け加えた、円の形(王冠)に作ったのだと。

       皆さん、お読みになっていて分りますか?
       なにせ書いているshinkai自身がどこまでがどうなのか良く分らずで、
       ははは、多分こうなのだろうと推察も交えて読み書きしておりまして・・!
       ・・気を取り直し、
       
       こうしてロンゴバルドの王たちがこの王冠を用い
       カルロ・マーニョが775年に受け継ぎ、
       以後19世紀までイタリア王の戴冠に用いられた、というもの。

       王冠が小さくなった後は頭にかぶる事が出来ませんので、
       いわゆる形として頭にのせ手で支えた様子で、
       この形で有名なのが1805年ミラノで行われた
       ナポレオン・ボナパルトの戴冠式!

       ですがイタリア統一後に国王となったサボイア家は、
       この王冠を用いていないとのこと。


       1993年にこの王冠は科学的検査をされ、釘は
       多分1345年に破損箇所が修復された折に使われたと思われる金属で、
       鉄ではなく銀であると・・!
       
       というような、ちょっと神話伝説まがいの謂れにも聞きとれる
       鉄の王冠のお話でしたぁ、お疲れ様!




       ドゥオーモの背後にはドゥオーモ博物館も整備されてあり、
       なかなか素晴らしかったのですが、なにせここも写真禁止でして・・。
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       これはドゥオーモの脇にある回廊部分
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       こうして外に出ますと、すぐ脇の道がいかにも中世の雰囲気で
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       振り返ってみるドゥオーモの鐘楼、1592年建設
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       通りの横に見える、かっての街の門と塔
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       モンザの中心を通り抜けるランブロ川・Lambro.
       サイトで見た写真には、満々と水をたたえた写真が何枚もありましたが、
       なんとこの時は、まるで干上がっておりまして・・!
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       川を渡った所で曲がって引き返すヴィットリオ・エマヌエレ通り
       奥の突き当たりに見えるのが、ローマ広場のラレンガーリオ。
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       通りに並ぶちょっと高級品店のウィンドウに見つけたのがこれ、
       ドッグ・フィーバーとあってネックレスや指輪、人間様用も見えますが、
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       このお値段の高いこれ、これはなんでしょうかぁ?!
       上の写真の右下には、陶器製と見えるもっとお高いのも見えるのですが・・。
       指輪? ナプキン・リング? 
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       という事で朝到着した広場に再び戻ってきまして
       正面左に、奥に続く並木道、
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       我らは再びバスに乗り、レッコのホテルに向ったのでしたが、
       道を走っていて見えたこの藤の花盛り、右側にもっと長く続き、
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       角を曲がって見えたのがこの建物
       あれあれ、と思う間なく、
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       こんな広大な建物が見え、王宮と知りました。
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       上からの眺めをどうぞ。 広大でしょう、建物も庭園も!
       王宮と書きましたが、実は王家のヴィッラ・Villa realeなんですね。
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       1777年当時北イタリアを統治していたオーストリアの皇妃マリーア・テレーザが、
       ミラノに滞在していた4男フェルディナンドの、
       夏の滞在と狩の為に建設した豪儀な物なんですって!!

       庭園のほうは徒歩で入れ、建物中央も修復が済むと見物できる様子。
       
       
       という、典雅なモンザのちょっぴりご案内でしたぁ




     *****

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by italiashiho2 | 2016-03-11 01:36 | ・ミラノとロンバルディア州 | Comments(12)
2016年 02月 10日

・・・ ヴィテルボ 3 コンクラーヴェ(教皇選出)の言葉の初まり、聖堂 ・・・

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       ヴィテルボの街のご案内も今回が最後!
       中世が盛りだくさんに残っているヴィテルボの街ですが、
       その中でも大変興味深くもあり、はたまたご案内が面倒な、はは、失礼、
       歴史に残る長~い教皇選出が行われた街でもあり、
       現在も使われるコンクラーヴェ・conclaveという言葉が生まれた街。

       教科書的、無味乾燥な歴史の記述はshinkai本人が苦手ですので、
       何とか分りやすくご説明を、でもなるべく正確詳細に、をモットーに、ははは、
       取り組んでみますので、宜しくお願いいたしま~す!

       まずトップの写真はサイトから拝借の、
       上から見たサン・ロレンツォ広場の様子

       左側に鐘楼と共に見えるのが、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂で、
       右奥に長く続くのが、パラッツォ・デイ・パーピ・Palazzo dei Papi
       13世紀に教皇庁が30年ほど、ローマからこちらに移っていた本拠地。

       教皇様の事をイタリア語でパーパ・Papaと呼びますが、
       (父親を呼ぶパパ・papàの場合は終わりのaにアクセントが)
       約30年間の間に、9人の教皇がこのヴィテルボに居られましたので、
       複数形でパーピ・Papi となる訳ですね。




       まず上の写真の左下にちょっと見える、ドゥオーモの左手前の
       ヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタの家・Casa di Valentino della Pagnotta
       これは13世紀建設の、典型的な中世の邸宅なのだそう。
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       名を残すヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタという人物は、
       1458年に町の執政官に選ばれたと記録に残る、農業の財産家だったのだそう。

       大きなアーチを持つ美しくエレガントな家ですが、何度か改装されたり、
       第2次大戦の爆撃の後も、元々の姿に再建されたものなんだそう。




       さて、サン・ロレンツォ聖堂の美しい鐘楼
       これは12世紀のオリジナルで、2つ並んだ窓と、白と青灰色の縞模様。
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       聖堂は、この場所に7世紀に遡る小さな教会があった後に建設された物で、
       現在、聖堂の内部は建設時12世紀のロマネスク様式なのですが、 
       正面はご覧のように16世紀に改装された姿
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       聖堂内部は、天井も側廊アーチも床も全部見えるのをサイトから拝借し、
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       柱頭飾りもなかなか興味深いのがあり
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       天井の梁装飾が興味深く、なんと書いてあるのか読めると良いのですが・・。
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       床模様がコズマ式! 綺麗に残っているでしょう? 好きなのです、これが。
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       右下の平面図をどうぞ、と言いますのも、
       16世紀に教会の正面を改装したのと同じに、内部左右の側廊の壁を開け、
       10の礼拝堂を造ったのですね。 これで壁の以前のフレスコ画が失われ、
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       17世紀には内陣を深くする改装が行われ、図に見える突出した部分
       ですが、この聖堂も第2次大戦の爆撃でやられた部分の修復時に、
       出来るだけ元のロマネスクの形に復元され、

       現在は聖堂内からは突出した内陣部も見えませんが、
       隣のパラッツォ・デイ・パーピ内部の見学と共に、聖堂横の博物館受付に
       申し出ると見学できるとの事。




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       これは聖堂内に残っていた数少ない壁画の一つ




       そしてパイプ・オルガン。 ただし20世紀後半の物と。
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       16世紀に教会の正面をルネッサンス様式に変えた人物の名が、
       正面に彫り込まれており、
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       IO FRANC CAR DE GAMBARA、つまり、Io Francesco Cardinale Gambra
       我フランチェスコ枢機卿ガンバラ でして、

       バニャイアのヴィッラ・ランテを造ったと同じ人物、あのヴィッラの
       東屋にも同じ彫りが残されていましたが、

       こういう場所には、教会の名とか神に捧げる献辞とかがあるものと思い込んで
       おりましたので、これを知った時には少し驚き! この顕示欲!!
       
       ガンバラ(1533-1587)は1568年から80年までヴィテルボの司教を務めており、
       教皇ピオ5世の下に、異端審問にも確固たる信念を持って働いたという、
       ちょっと怖い人物であったのも知りますと・・、
       まぁ、俗世間から離れ、ゆったり寛げるお庭も欲しくなりますわな・・。




       これは聖堂の脇壁だったと思うのですが、
       ここにも見つけたガンバラ枢機卿の紋章!
       上につばの広い枢機卿の帽子が見え、下に鷲と海老の彼の紋章です。
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       ここヴィテルボには、カンタベリーからローマに至る中世巡礼の道、
       ヴィア・フランチージナ・Via Francigenaが通っていた、
       と言う小さな標識が右に見えます。
       


       
       聖堂正面、張り出した脇壁にあった小さな薔薇窓
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       サイトから拝借の写真で、
       聖堂とパラッツォ・デイ・パーピの間の様子
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       右手前に見える階段は、パラッツォ・デイ・パーピの入り口階段で、
       奥が司教座、教皇庁の本部でもあり、住居でもあった建物類




       聖堂、そしてパラッツォ・デイ・パーピの間に広がる広場の石畳
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       広場の奥に広がるパラッツォ・デイ・パーピと、正面部
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       写真は2度の訪問で撮ったものの良い方を使っておりますので、
       陽射しの様子が違うのはご勘弁を。




       階段上部と扉、そしてテラスへの入り口部、そして扉上のライオン像
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       正面階段の下は、こんな風になっておりまして、
       奥に見えるアーチの下を通って、ここまで道が着いています。
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       階段の上にある円柱の下に見える横縞の紋章にご注目を。




       そして建物に続いてあるテラス、ロッジャ・開廊と呼ばれる部分、
       その上部のアップ。
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       アップにもしっかり見える横縞の紋章。これは街のご案内にも出てきた
       ガッティ家のもので、
 
       そうなんですね、このガッティ家の当時の当主、ラニエーロ・ガッティ・
       Raniero Gatti、街のカピターノ・デル・ポーポロ・行政官でもあった
       彼が、このパラッツォ・デイ・パーピを造り、
       教皇庁をローマからヴィテルボに迎えるために働いたのですね。

       つまり1254年に教皇即位のアレッサンドロ4世からの内意を受け、
       以前からあった司教庁を拡張したりの設備が整うと同時に
       1257年、教皇と教皇庁がこの街に移転してきた、という訳で、

       なぜヴィテルボにと言うと、当時のローマでも教皇派と
       皇帝派の軋轢があり、それに耐えられずにアレッサンドロ教皇は
       既に司教庁の大きなのがあったこの街に移転を決めた様子。
       
       それにしても教皇と教皇庁が移転する、というのは、
       当時にあってもやはり大問題、遷都に匹敵するような出来事では
       なかったかと想像するのですが・・。

       ロッジャは少し遅れて1267年、やはりラニエーロ・ガッティにより
       建設された物と。

       ガッティ家は当時のイタリアを揺るがせていた教皇派(グエルフィ)と
       皇帝派(ギベッリーニ)の対立の中で、ヴィテルボの教皇派の大物。
       穀物の取引と金融業からの莫大な富を持ち、
       「ヴィテルボの最初の銀行」と定義付けされているほどだそう。




       正式には「祝福の為のロッジャ」という、教皇様がここにお出ましになり、
       広場の庶民に祝福を与える為のロッジャですが、
       内部から見るサン・ロレンツォ広場はこんな感じ
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       現在残っているのは広場に向いた側だけで、天井屋根部分もありませんが、
       建設当時は奥の谷に面した壁、そして天井部分もあったのが、
       1325年に崩れ落ち、それ以降この姿なのだと。

       まぁ、この美しい2重になった円柱の並びと、
       三つ葉飾りのアーチだけでも、よくぞ残ってくれた、と思えますですね。




       そしてこのロッジャ内にも泉
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       左上の平面図をご覧下さいね
       階段に続いての右のロッジャ部分と、左の大きな細長い部屋
       ここは教皇がお出ましの、いわゆる応接議会室だったのが、
       現在歴史に残る長~い教皇選出、33ヶ月!!が行われた舞台とされ
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       見学できていたのですが、
       細長く大きな明るい部屋、両側に6つの窓、と言うだけで何も無い部屋
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       歴史に語られる長~い教皇選出というのが始まったのは
       1268年11月の末の事で、1271年9月までの1006日!もかかったのですね。

       前の教皇クレメンテ4世が、寝室の(書斎という説も)
       天井穹窿部が落ちて亡くなった後の事で、
       こんなにも長くかかったのは、ひとえに選出選挙の為に集まった
       19名(一人はフランス王に従いチュニジアに行っており、欠席のち死亡)の
       枢機卿たちが、いわば教皇派、皇帝派と二分し
       当時は教皇選出には枢機卿の3分の2の投票が必要だったので、
       妥結点を見出せなかった事によります。

       枢機卿達が街中に滞在し、一日に一度サン・ロレンツォ聖堂に集まり
       投票がくり返されるのみで、1年近くたっても結果が出ないのに
       怒ったのはヴィテルボ市民達。 
       もてなし費用は当時は市民が持っていましたので、ははは、勿論怒りますよね。
      
       ここにラニエーロ・ガッティが乗り出し、枢機卿達を心地よい滞在住居から
       引き離し、パラッツォ・デイ・パーピに閉じ込め
       食料の差し入れもパンと水だけ!にし、
       遂には屋根を引っ剥がし、風雨も流れ込む状態にした、と言う!

       鍵で部屋に閉じ込めたので、clausi cum=con clave・コンクラーヴェ
       ここに初めて、教皇選出に今も使われる言葉の登場、となります。
       枢機卿同士の根競べではありませぬぞえ、ははは。

       現在の研究者によると、この屋根も引っ剥がした部屋に監禁、というのは、
       約3週間続き、その後はパラッツォ・デイ・パーピ内の部屋に
       住まう事が許されたと言いますが、やはり建物内監禁で、
       選挙中に19名のうち2名の枢機卿が亡くなり、17名になっても
       それでもまだ枢機卿たちは頑張ったのですねぇ! ははは。

       屋根を引っ剥がすと言う思い切った行動に出たのも、
       枢機卿の一人が機知で、こういう部屋には神の意思も届きにくいね、
       と言ったのが、通り易くする為のインスピレーションを与えたのだと、ははは。
       



       所で、今までコンクラーヴェの行われたのは、上でご覧頂いた大部屋
       いう事になっていたのですが、

       2014年末から公開されている、このサーラ・グワルティエーロ・Sala Gualtiero
       美しくフレスコ画で装飾された部屋で、上でご覧の大部屋に続いてあるのだそうで、
       ここが実際に13世紀のコンクラーヴェが行われた部屋ではないかと
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       広さは約200平米、20名弱の枢機卿達が集まって協議する、投票するには
       ちょうど良い大きさ。 何よりも早急な修理が望まれるこの部屋は、
       天井からの雨漏りの為に破壊されているのだそう! 成る程ぉ!!


       こうして約33ヶ月もを費やし、選出された教皇はグレゴーリオ10世
       俗世の名をテダルド・ヴィスコンティ・Tedaldo Visconti、
       ピアチェンツァの貴族出身ですが、かのミラノ大公ヴィスコンティ家の
       支流であるともないともの方で、
       ただ彼の精神の正しさと正直さが大変に評価されていた
       聖職者の位置としては最下の、司祭でもなかった方!

       選出選の間にも、指名され驚いて逃げ出した候補者、
       辞退した候補者もいた様子ですが、
       彼は遂に呆然としながらも受託し、1272年3月27日に即位。
       後にこの方は教皇選出に付いての新しい法則に付いても、発布されたと。

       
       所でヴィテルボに教皇庁が置かれていたのは約30年間と短く
       が、その間の教皇は9人と多く、まぁ、年を取って教皇になられる事が
       多いので必然そうなるのかもですが、

       以下にヴィテルボでの教皇様の一覧を
       ・アレッサンドロ4世 1254年から61まで在位 ヴィテルボには1257年から。 選出時55才 没62才
       ・ウルバーノ4世 1261-1264 ヴィテルボとオルヴィエートを行ったり来たり。 選出66才 没69才
       ・クレメンテ4世 1265-1268 殆どヴィテルボに。 選出70歳 没73才
       ・グレゴーリオ10世 1271-1276 実際には約1ヶ月間ヴィテルボに居たのみ。 選出61才 没66才
       ・インノチェンツォ5世 1276年1月選出 6月没! 約半月間ヴィテルボに。 選出、没51才  
       ・アドリアーノ5世 1276年7月選出 8月没! 殆どヴィテルボの修道院に。 選出、没71才
       ・ジョヴァンニ21世 1276年9月選出 1277年5月没 殆どヴィテルボ。 選出61才 没62才
       ・ニッコロ3世 1277-1280 ヴィテルボとローマ、そしてソリアーノ・ネル・チミーノ。 選出61才 没64才 
       ・マルティーノ4世 1281年2月選出後、すぐにヴィテルボから教皇庁を撤退。 選出71才 没75才
       
       なんとまぁ、3人の教皇様が数ヶ月で亡くなっていますねぇ!

  ◆ 追記 教皇選出時と亡くなった年齢を調べ、追記しました。 はは、物好き・・。
       それにしてもどの教皇様は余りヴィテルボに長滞在は無かった様で。
       
       所で長期間かかったグレゴーリオ10世選出の際の枢機卿17名ですが、
       その中の4名が後に教皇になられていて、このリストの中の
       アドリアーノ5世、マルティーニ4世も長い教皇選出に加わった方。
       

       枢機卿というのは、司教叙階の方の中から教皇が選ばれる方々で、
       教皇についでの位階というか、現在は新しい教皇は枢機卿の中からが自然で、
       その数も現在は過去最高の230名くらい居られるとか!

       教皇選挙は現在も完全秘密必須のコンクラーヴェではありますが、
       80歳以上の枢機卿は、教皇非選出との事。

       
       現在では、世界10億人を超えると言うカトリック信者の頂点に立つ
       教皇様として、政治的にはともかく、厳然と大きな影響力をお持ちと思うのですが、
       中世のこの時代、政治的にも権力を持っていたいわば領主の立場でもあり、
       勢力権力争いの真っ只中で、大変だったろうな、との率直な感想も。

       この後ヴィテルボの街に教皇庁が戻る事は無く
       当時の繁栄は廃れ、ラツィオ州内でも常に2流の立場に甘んじたと。




       ロッジャからは背後の眺めが大変素晴らしく
       北に広がる街並みや、旧市街を囲む城壁も。
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       これはパラッツォ・デイ・パーピの背後からの眺めで、
       間の谷をファウルの谷・valle FAULと言い、まさに要塞の趣きも。
       素晴らしい威容でしょう?!
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       ファウルの谷のこちらには大駐車場があり、
       緑地で若者達が遊ぶ姿も
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       あれこれどこかまだ書くべき事が不足している気もするのですが・・、
       ご説明が上手く出来ましたでしょうか?
       これで一応今回のヴィテルボのご案内をお終いとし
       皆様、長いお付き合い有難うございました!!



       最後は、サイトから拝借の写真で、
       サン・ロレンツォ聖堂の夕景と
       パラッツォ・デイ・パーピの夜のイルミネーションをどうぞ!
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     *****

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       アップしています。
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by italiashiho2 | 2016-02-10 00:02 | ・ローマとラツィオ州 | Comments(6)
2016年 02月 05日

・・・ ヴィテルボ 2 サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸 ・・・

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       中世13世紀に、短いながらも教皇庁が置かれたヴィテルボの街。
       当時に一番の繁栄を迎え過ごし、旧市街は現在もそのままの
       建物雰囲気を保っていますが、
 
       今日はまず、750年前からずっと毎年9月3日の夜に行われる
       サンタ・ローザの大灯明の行進について、
       これはまるで知らずにおりましたが、あれこれ知るとその規模の大きさ、
       市民の熱中さにいささか驚きましたので、ご案内を。

       トップの写真は、その大灯明なのですが、
       高さ28m、重さ5トンの大灯明が、街中の明かりを全部消した
       暗い道を、100人もの男達の肩に担がれ、運ばれるのです!

       この大灯明はマッキナ・ディ・サンタ・ローザ・Macchina di Santa Rosa
       と呼ばれ、マッキナというと一般に機械とか車とか指すのですが、
       教会用語で「聖像を運ぶ山車」の意味もあると知り、納得です。



       これをどう知ったかといいますと、偶然に小路を入って行き
       見つけた扉「サンタ・ローザの家・Casa di Santa Rosa」で、
       扉に見える張り紙は、見学時間の案内。
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       サンタ・ローザなる人物も知らず、調べ、13世紀前半に生きた
       フランチェスコ会派の尼僧であった事、僅か18歳で亡くなっていますが、

       皇帝派(ギベリン)と教皇派(グエルフィ)の敵対する中、
       熱烈な教皇支持派で、異端信仰とも戦った方で、
       ヴィテルボの守護聖女として愛されている事などなど。

       聖女・サンタと書いておりますが、実際にはまだ列聖されておらず、
       現教皇フランチェスコ様の在位間にと、運動が続いているとの事。




       で、この家、聖所はどこにあるかと言いますと、
       街の地図の右上方緑で囲って3と打っている場所に。
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       という事で、今回のご案内はサンタ・ローザの大灯明の他に、
       地図の真ん中から左に見えるジェズ教会・Chiesa del Gesù
       そしてその左下に4と打ったファルネーゼ邸・Palazzo Farneseを。

       そして次回最後に、あれこれ新しいニュースも仕入れました、ははは、
       教皇邸・Palazzo dei Papiと、サン・ロレンツォ聖堂・Cattedrale di S.Lorenzo
       をと、分けることに致しましたので、宜しくお願いいたしま~す。
       



       さて、大灯明の大きさ、重さは上に記した数字が標準でして、
       というのも、大灯明は5年毎にデザイン・コンクールによって選ばれた、
       新しいのが登場してくるからでして・・!

       担ぐ100人もの男達はこんな様子で、不謹慎ながら、はは、
       一瞬昔のハリウッド映画「クレオパトラ」とか思い出しましたぁ!
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       何年のかは知りませんが、こんな過去の大灯明の写真も見つけ、
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       こうなると、どこを通るのか知りたくなるでしょう、皆さんも!
       今回は割とすんなり行程図も見つかりまして、ははは、
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       1のローマ門から始まり、2.フォンターナ・グランデ広場
       3.中心のブレビシート広場 4.エルベ広場(ライオンの泉のある)
       5.コルソ・イターリアを通り 6.ヴェルディ広場
       6.上で見て頂いたサンタ・ローザの家(聖所とされている)

       750年前の1258年9月4日、7年前に亡くなった聖女の遺骸は、この日
       埋葬されていた共同墓地から移動天蓋に載せられ、クララ会修道院に。
       最初に見て頂いた「サンタ・ローザの家」の左手に、
       大きな教会があり、そこに現在も彼女の遺骸が。

       という事で、彼女の祭日は毎年の9月4日で、その前夜3日21時に
       この大灯明が街を練り歩く、という伝統的な宗教行事なのですが、
       まさにこれで無形の世界遺産指定なのだそう!で、
       その前日2日には、ファッキーノ(複ファッキーニ)と呼ばれる
       担ぐ男達の行進と時代衣装の行列も行われる様子。

       となると実際にどんな様子なのかご覧になりたいでしょう?!
       はい、あれこれ試写をし、ははは、良いのを選びましたぁ。

       ローマ門からの出発。 ファッキーニが灯明の下に入り込み、
       ソッレヴァーテ・エ・フェルミ・持ち上げて、止って、
       の号令一過、移動が始まります。

       プレビシーテ広場に見えてくる大灯明。そして広場で3回転!
       真っ暗な中に、最初は屋根越しに塔の頂上のみが見え、
       そして道の角から全身がするっと見えて来ると、
       撮影者がマンマ・ミーア!と声を上げますが、
       いやぁ、shinkaiもマンマ・ミーア!と一瞬鳥肌が立ちました。

       そして広場でゆるゆると3回転するのにも、
       わっ、2回転している! 本当は1回転しかしないんだよ、
       と聞こえる間に3回転!

       こちらは総集編的、画像が綺麗で大灯明の細部も良く分ります。
       ファッキーニ達が当日の前に精神統一する場面とか、
       道が狭くて通り難い場所など、号令一過台座の下に入り込んだり、
       街の人々の熱狂も良く分ります。

       今時は街のお祭りも、第何週めの日曜に、とか移動するのが
       普通なのですが、
       9月3日21時、と定日定刻のお祭り、それもこの熱狂さ!
       聖女の名の下に、ヴィテルボの人々の一つになる大灯明の運送なのですね。




       さて前回の続きで、中心にあるプレビシート広場・Piazza del Plebiscito
       から、古い建物を眺めつつ南に辿ります。
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       そして右側に開けるジェズ広場とサン・シルヴェストロ教会
       Chiesa di San Silvestro、または広場の名のままジェズ教会と呼ばれますが、
       この教会内で13世紀に、今も歴史に語られる復讐殺人が行われました。
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       まずはこの大変古い、多分紀元千年より前のものだろうという、
       石造りの美しいロマネスク教会の正面細部をどうぞ
       正面上に帆形型鐘楼があり、左右にライオン像。
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       そして正面扉上の半円には後の時代のフレスコ画
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       これは入り口左に掲げられた碑
       教会の設立年と名前の下に、
       1271年3月13日の朝、ミサの最中に・・、と殺人事件が記されます。
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       内部の写真がサイトで見つかりましたので、ご覧を。
       身廊のみのいたってシンプルな小さな教会なのですが、
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       ここで歴史に残る残虐な殺人が繰り広げられたのですね。

       上記の通り、1271年3月13日の朝
       シチリア王であるカルロ1世ダンジュー、フランス王フィリッポ3世、
       イギリス王エドワード3世の甥であるヘンリー・アルメインが列席の上、
       当時未だに空席のままの次の教皇の早い選出を願うミサの最中に、

       ギュー・ドゥ・モンフォール・Guy de Monfort(1243-1288)と、
       その弟シモン・Simonが入り込み、
       彼らにとっては従兄弟に当るヘンリー・アルメイン
       Henry Almain(1235-1271)を、
       殺害された彼らの父親と兄弟の復讐に殺したというもの。

       上がギュー・ドゥ・モンフォールで、下がヘンリー・アルメイン
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       復讐劇のお話は、6年前の1265年に始まります、じゃん。
       1265年の8月4日に行われたエヴァンシャム・Evenshamの戦いで、
       これはギュー・ドゥ・モンフォールの父親シモン5世が率いた
       いわばイギリス国王に反逆する形の戦いだったようで、

       イギリス歴史において重要とみなされる戦い、騎士道の戦いが
       終わりを告げたと見なされるんだそうでして・・。

       つまりそれまでは戦いにおいて騎士(貴族)が殺害されることは稀で、
       捕らえられ、身代金を払えば自由になる、という形が主だったのが、

       このエヴァンシャムの戦いの王党派の主となったエドワート皇太子、
       後のエドワード1世イギリス国王側は数においても圧倒的で、厳しく、
       戦いの初めに裏切りにも合い壊滅的となっていた叛逆派側の、
       ギューの長兄ヘンリーは直に、そして父親のシモン5世モンフォールも殺されますが、
       残虐にも四肢切断、死体は泥の中に引きずり込まれ、という冒涜を。

       戦いに参加していたギューは捕虜となりウィンザーの城に監禁されたのを、
       1266年春看守を収賄し逃げ、フランスに渡り、
       そこで戦いに参加せず逃げおせていた弟のシモンと出会い、
       あちこちの戦いに傭兵として参加しながら、イタリアに辿りつきます。

       トスカーナで当時副王だったカルロ・ダンジューに仕える様になり
       1270年にはソヴァーナ・Sovanaの伯爵、城主の一人娘
       マルゲリータ・アルドブランデスキ・Margherita Aldobrandeschi
       と結婚し、2女児も。

       フィレンツェでの戦いにも参加し、冷酷さを評されますが、
       カルロ・ダンジューからノーラ・Nola、ナポリ近郊の領土も受け伯爵と。

       そして1271年、彼らの従兄弟でもあり、イギリス王の甥でもある
       ヘンリー・アルメイン(コンウォール)がヴィテルボに滞在中であるのを知り、
       弟シモンと駆けつけミサの最中に入り込み、
       祭壇にしがみつき助けを求めるヘンリーを殺害した、という・・。

       彼以外にもミサを補佐していた2人が犠牲になったというのですが、
       上で写真でご覧の様に、あの狭い教会の中は大騒ぎとなったでしょうし、
       なぜと考えていて気がついたのは、皆がまさかと仰天したのと、
       多分ミサに参加というので、誰も武器を携えていなかったのではないかと。

       当時ヨーロッパでも大スキャンダルとなった教会内の復讐劇ですが、
       ギューは罰されず、聖なる教会内を汚した、と破門されただけ!

       何年か後には破門も解け、再度カルロ・ダンジューに仕え、
       1283年からは教皇軍の隊長となり、シチリア晩祷戦争に参加中
       1287年捕虜となり、メッシーナの獄で翌年に没。
       

       と長々と述べて参りましたが、
       ギューが結婚したマーガレット・アルドブランデスキについて
       ギューの没後彼女が再婚した相手、再々婚の相手、そしてまたその次と、
       はぁ、余程魅力に富んだ、まぁ、領土も魅力なのでしょうが、ははは、
       諦めきれずに教皇に再婚を願った男のその過去などなど、
       なんとも興味深く、芋ずる式にずるずると引きづられ読みましたのです、はい。

       現在のスキャンダルは単に生臭いだけですが、はは、失礼をば、
       歴史にいささかの残り香で垣間見えるスキャンダルには、興味津々のshinkai!
       今回は残念ながら諦めて先に進みますが、ははは、
       いずれまたゆるゆるとお話いたしましょう!




       このジェズ広場にも泉がありまして、これ!
       いささかの藻の掃除が必要なようですが、ははは。
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       そして広場には教会に向き合う形でこんな塔、13世紀の物で
       ボルゴニョーネ・Borgognoneの塔、正確ではないが約30mの高さと。
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       名の由来は、1218年当時町の行政長官であったウゴリーノ・ボルゴニョーネ・ 
       Ugolino Borgognoneがここに土地を持ち、住んでいたとの事ですが、
       こうして見ると、今もどなたかが住んでいる様子ですね。




       広場の脇の、古い大きな屋敷も修復されて使われており、
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       傍らのドアのノブも、こんな良い感じ。
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       広場の奥、端の家のベランダからこの2匹が顔を出し
       ひっきりなしに吠えるのですよね。 ばかぁ!
       2年前の訪問時にも、この内の片方を撮っているのがありましたっけ。 
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       角を曲がり細い如何にも古い家並みの通りを行き
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       出てくるのがピアッツァ・デッラ・モルテ・Piazza della Morte,
       死の広場と凄い名なのですが、
       どうやら今見える建物に隣接の教会に16世紀、
       オラツィオーネと死の信者会というのが作られ、それに由来するとの事。
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       で、ここにまた泉があり、サン・トンマーゾの泉・Fontana di San Tomaso
       または広場の名から死の泉・della Morte、
       13世紀半ばの古い設置で、まさに古い紡錘形
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       サイトから見つけた1939年、という古い写真をどうぞ!
       これだと、泉がかなり大きな事がお分かりでしょう?
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       上の写真でもお分かりのように、広場の角にカフェがあり
       片側の小さな店は、こんな古い鉄の椅子を使っていて、
       おまけに聞こえてきた音楽がシャンソン、なんとも良い雰囲気でしたぁ!
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       となると、こんな石畳の落ち葉も撮りたくなろうというもの、ははは。
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       広場から道を西に曲がると、下の道を渡るドゥオーモ橋があり、
       奥に見える鐘楼は、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂のもので、
       橋の向こうに見える右側の建物はファルネーゼ邸・Palazzo Farnese.
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       道の高さ1階に当たる部分の窓と、2階の窓
       1階の窓に付いているのは、ファルネーゼ家の紋章百合の花で、
       この百合の花だけの紋章というのは1545年まで使われたものだそう。
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       道から見る建物はいたって素朴な、2階に木製のバルコニーを持つ
       13世紀の物で、元々はティニョージ家・Tignosi の物だったのを、
       1431年にラヌッチョ・ファルネーゼ・Ranuccio Farneseが購入したと。
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       当時ラヌッチョはヴィテルボの町をフォルテブラッチョ・Fortebraccio da Montone
       とジャコモ・ディ・ヴィーコ・Giacomo di Vicoの攻撃から護る役を受け、
       この地に住むようになったといい、

       既に彼の息子2人フランチェスコ・ガブリエーレ・Francesco Gabrieleと
       ピエール・ルイジ・Pier Luigi はヴィテルボに住んでいたといい、
       とりわけピエール・ルイージは町の市民権を持ち、
       1468年生まれのアレッサンドロ、後の教皇パオロ3世はこの家で生まれた、
       という説もある様子で、(一般にはヴィテルボ近郊のカニーノ・Caninoと)

       少なくとも子供の頃のアレッサンドロは、その妹のジューリアと共に
       この家で過ごしたのは間違いないと。
       そして教皇パオロ3世の在位中に、ファルネーゼ家がこの屋敷を引き払ったと。



       屋敷の広い内庭と、220代教皇パオロ3世像、ティツィアーノ画。       
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       ファルネーゼ邸の隣の屋敷の入り口の様子と、
       どうやらここも何か謂れのある建物の様子でしたが、
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       その向かいにあったこれも古い屋敷、聖職者事務所という張り紙のあった
       入り口の、かっての覗き窓!  手振れご容赦。
       こういうのがそのまま残されているのが、可笑しいと言うか、ははは。
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       この辺りの建物を抜けると、聖堂広場が近いのですが、
       その手前、右手の壁の足元が見えるように崩されていて、
       エトルスクの壁だという説明がありました。
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       そうなんですよね、エトルリア人も建築術に関しては優れていた様で、
       こんな石組みを見ても、
       中世の石組みよりもずっと大きな石を使っていたのが、良く分ります。




       この先はすぐにドゥオーモ広場、ドゥオーモなのですが、
       今回のご案内はここでお終いという事で、

       最後は橋の付近で見かけた、かっての共同洗濯場・ラヴァトイオと、
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       橋から見下ろす、どこかのお屋敷の庭の泉。 
       可愛い泉ですが、これは大変な贅沢ですねぇ!
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       そして、小さな教会だったような建物
       今は廃寺かな・・。
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       さて漸くにヴィテルボの2回目も何とか済みまして、
       次回は13世紀の教皇庁の建物と、ちょっと驚いたニュースも!
       と、街のドゥオーモで、ヴィテルボのご案内もお終いです。
       やれやれ。 はぁい、どうぞお楽しみに!



     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、 途中経過と仕上げに向けての3枚と、 農家の納屋 を
       アップしています。
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     *****        
       
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by italiashiho2 | 2016-02-05 01:44 | ・ローマとラツィオ州 | Comments(2)
2015年 11月 28日

・・・ モンテプルチャーノ その2-1 ・ カンティーナ、お祭り ・・・

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       トスカーナはシエナ県、ヴァル・ドルチャとヴァルディキアーナの
       境の山の上、海抜605mに位置するモンテプルチャーノ・Montepulciano.

       今日はその2回目という事で、写真の整理を始めたのですが、
       余りにも多く、かといって余り削っても面白みがありませんので、
       う~~んと頑張って奥の手を出し、ははは、
       2回に分け、2-1 と 2-2という事に! 

       来週はちょっと予定が立て込んでいる事もあり、
       今回頑張りますので、よろしくお願い致しま~す。

       
       トップの写真は、町の北の端の門を出た向こうに見える
       サンタニェーゼ教会・Sant'Agnese
       が、中まで行かずに戻りまして・・、




       エトルスク期からのワイン蔵が無料で見られると言う、
       このワインと土地の物産店に行き、地下のワイン蔵を見物します。
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       店前のこの写真は出てきた時のものなのですけど、手前に見える
       このブルテリア君も、ご主人と一緒に私の先にカンティーナ見物をね。




       こんな感じの狭い階段を降りまして
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       小さい部屋が次々と繋がりながら、地下にも、横にも
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       新しい大きな樽の部屋もあり
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       樽の中で寝かせている内にワインが蒸発するのだそうで、
       上に見える緑のガラス瓶の中にワインを入れておくと
       自然に蒸発した分が補給されるのだとか。
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       低い天井、古い壁、そしてこんな坂道もあり
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       下って小さな部屋に繋がり
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       古い薄暗い部屋に見える、古い小さな樽
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       中には博物館式にかっての道具類の展示もあり、
       これは葡萄絞り器
       上から重石をかけ、出る葡萄汁を手前下で受けます。
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       多分ここが一番古く、深い地下なのだと思いますが、
       ひんやりした空気の中を降りていくと
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       こんな小さな部屋
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       エトルスク期からのワイン蔵、ちょっと湿気も感じる様で、
       余り深いと不便でしょうし、今は使われていませんでした。

       それにしても、ワインは静かに、温度も一定の場所で寝かすと言いますが、
       こんな風にずっと開けっ放し、人もしょっちゅう出入りする、
       おまけにワン君までと、ははは、
       こういう場所でワインがじっくり熟成できるのかいなぁ、と
       他人事ながらちょっぴり心配したのでしたぁ。

       
       我が町コネリアーノに、素晴らしいワイン樽製造所があります。
       こちらにご案内を。




       モンテプルチャーノのワイン、で検索すると、
       ヴィーノ・ノーヴィリ・ダブルッッォ・アブルッツォ種の葡萄からの
       モンテプルチャーノのノービリ・ワインとか、
       たくさんのカンティーナの名前が挙がり、
       美味しそうな葡萄、葡萄畑、ワイン、料理の写真がずらり!
       その中からほんのちょっぴりをどうぞ!
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       所でこの町独特と思われる、ワインとワイン樽に関連するお祭りですが、
       ワイン樽ころがし・Bravìo delle Botti・ブラヴィーオ・デッレ・ボッティ
       と言うお祭りがあります。

       町の区域を8つに分け、毎年8月最後の日曜に行われ、
       町中が沸き立つお祭りなんだそう!
       元々は14世紀頃から始まった騎乗の競争だったのだそうですが、
       17世紀に(人身)事故があり中止され、
       今の樽ころがしに変わったのだと。

       ブラヴィーオというのは、勝者の区域に与えられる旗の事で、
       この写真の中央に見えるのがそれ。
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       シエナのパリオのパリオと同じ意味で、
       どちらも毎年手描きの絹の旗が、柄は毎年違うのが与えられます。
       この写真のは2006年と。

       どこのお祭りも、即競技が始まるわけではありませんで、
       出発点で2列に並ぶ順番のくじ引きから始まり、ははは、
       旗振り競技、そしてこんなブラーヴィオを持った行列も勿論と、
       町中が興奮に溢れ、沸いていくわけで、
       



       さて、いよいよ出発点からの競技の始まり、始まり!
       ほらね、後ろにマルゾッコの円柱が見えるでしょう?!
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       前後2列に4つずつの樽、重さは80kで、
       勿論途中での衝突で樽を間違えたりしないよう、
       しっかりと区域の焼印が押される写真もサイトにあり! 




       見てください、この坂道!
       歩くだけでも大変だったあの坂道を、
       80Kの樽を2人で押してる!! 
       それはもう、応援の人々の熱気も盛上がるわけですよねぇ。
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       ここは多分、下の道を上って行った後の一旦の下り坂で
       この部分ではまぁ一息つけるでしょうがね。
       町の南で折り返すと、また上り坂!
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       一度車で町の道を上っている時、うっかり間違えて入り込み、
       車が通れる道だったので、ホテルの近くにでも出れるだろうと
       思って上っていきましたら、
       突然目の前の道が、ダッシュボードの先から見えなくなった!!
       わっ、ぎゃ!! とサイド・ブレーキを引き、
       そろっと車のドアから出てみましたら、崖っぷちではなく、ははは、
       急傾斜の下り道の始まりで、ああ、やれやれ、の
       そんな経験もある、町の道だったのでした。




       なので、あの坂道を樽を転がしながら上がる、というこのお祭りに
       興味を持ち、どの道を通るんだろうと
       行程図を探し回り、ははは、見つけました。
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       地図右側のマルゾッコの円柱前から上り坂、途中から下って
       町の南側を上りながら迂回し、最後の折り返し点がまた急傾斜で、
       最後はドゥオーモの前に出てくるのですね。
       全長1,7kmだそう、ようやる選手諸君たちは!!



       という事で、ゴールの写真
       広場に集まった人々の数も凄いですね!
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       いやぁ、シエナのパリオも燃えますが、これもきっと同じでしょう!
       道中の様子など、ドゥオーモ前の人々にも見れるように、
       TV中継などもあるのかな? 




       町の道を行ったり来たり、先回ご覧頂いたプルチネッラの塔から
       南側辺りはいわゆる下町と言うのか、
       中世の面影が強く残る小さな家が建ち並んでいますが、
       城壁沿いの道からの眺めはこんな様子
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       ちょうどこの右手下の平野では、ジオストラ・Giostra と呼ぶ
       子供達の為の遊戯公園ができていて、大音響の音楽が聞こえ・・。




       町の下を通る道を辿りますが、中世の面影が濃く残る建物郡
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       上の道とを繋ぐ階段、坂道を下から眺めるとこんな傾斜!
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       見上げる家並み、建物
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       ちょうど中ほど、町の上下を結ぶ道が三叉路になる所
       16世紀頃の町の経済の一番の中心であったと言う
       ピアッツァ・デッレ・エルヴェ・Piazza delle Erbe.

       ここにあるのが、ロッジェ・デル・グラーノ・Logge del Grano,
       またはロッジェ・デル・メルカートと書いたのもあるので、
       まさに商取引の中心部だったのでしょう。
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       道を辿りくぐるのが、この門カヴィーナ門・Porta della Cavina.
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       その先の店の前にこんな表示が出ていて
       1157年に、紀元前5世紀のエトルスクの古い2つのお墓の上に
       この門が建設されたのだそう。
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       多分町の南半分の高い方に先に町が出来、
       この辺りがその当時の町の境界だったのでしょうね。

       で、木の標識の下の写真には、
       ここで、映画「ニュー・ムーン」が撮影された、と。




       映画「トワイライト・サガ」の「ニュー・ムーン」というの、
       ご存知ですか? 
       この俳優は確かTVシリーズの「ドラキュラ・ダイアリー」に
       出ていたと思うのですが、オカルト的なものは見ないので・・。
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       こちらのシーンは、ドゥオーモ前に大きな泉も作られ
       赤いマントの大集団が集っての撮影風景。
       映画の中では、かなりの迫力だった事でしょうね。
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       この町ではたくさんの映画が撮影されている様子で、
       「トスカーナの空の下」でも、この広場での旗振り大会が出てきましたし、
       「ノスタルジア」も、「イギリス人患者」も、他にもたくさん!
       「ニュー・ムーン」のあの俳優は、shinkaiの泊まったホテルに
       泊まったのか、フロント横に写真がありましたっけ。




       こちらは道を歩きながら、漏れ聞こえてきた弦楽の響きに導かれ
       入ってみたジェズ教会・Chiesa del Gesù.
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       はい、この町の若者達の春のコンサートでした。

       はっ、出来具合ですか? はぁ、まぁ、若者というよりは、
       少年少女達のグループでしたので、頑張っていたと思います、はい。


     *****

       と言う所で、下の応援クリックをプチッとやって頂きまして、ははは、
       それから、ページの一番下に出ている、
       ・・・ 2-2 モンテプルチャーノ >> から飛んで下さいませませ。

   

     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、 ポルトガルの海 途中経過と、仕上げ1枚 ・ 落ち葉の色 を
       アップしています。
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     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     

       
       
       



by italiashiho2 | 2015-11-28 02:43 | ・トスカーナ州 | Comments(7)
2015年 09月 09日

・・・ クーポラ登頂と、建設のあれこれ ・フィレンツェのドゥオーモ ・・・

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       さていよいよ、フィレンツェは花のサンタ・マリーア聖堂の
       大クーポラ・丸屋根の上に上ります!

       そしてかねてから知りたかった建設法について
       shinkaiの頭の程度でも分るように書いてあるサイトをあれこれ探し、
       私めが読んで分る程度、はぁ、これがなかなかで、ははは、
       漸く私なりに納得できた泥縄の知識を皆さんにも!

       あのクーポラは内と外と2重の構造になっている、と言うのは
       よく言われるので知ってますけど、
       では内と外とを別々に造ったのか?なんて考えられた事ありません?
       ああた、正直に仰いませ、shinkai同様そう考えた事もあったと。ははは。
       なので、実際にどう造ったのかを具体的に、知りたかったのでした。

       調べながら探しながら面白い事も分りましたので、
       そんなあれこれも含めての登頂記、どうぞごゆっくり!

       上は上空からの写真で、そうなんですよね、
       フィレンツェの街中のこんな狭い空間に
       偉大な美しい聖堂があり、赤いクーポラが街を睥睨!

       例によりブログ名のない写真は、サイトからの拝借です。

       フィレンツェのご案内全般は
       http://italiashio.exblog.jp/i27



       前日午後には長打の列だったクーポラ上り口ですが、
       朝8時半開いたすぐ後でしたので、すんなりと入場。
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       この上りの入り口は、聖堂の北側からだった事をご記憶に。
       で、こんな階段が続き
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       厚い壁の高い場所に小さな窓
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       そしてまた上り、今聖堂の庇が見える位置
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       内側の壁にこんな窓が開いている場所もあり、
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       ひょっと開けたかなりの空間、美術品の修復場所でもある様子
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       街がこんな風に見える高さまで来て
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       クーポラ内側の、フレスコ画の一番下の高さ
       この位置にクーポラ内を一巡できる通路があるのですが、
       上りの行程では全部回れないようになっています。
       で、写真の下に見える黒い線の位置まで、透明のプラスティック板があり、
       高さはほぼ肩位までで、下からは見えないようになっています。
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       このフレスコ画をほぼ同等の高さで見た様子は、
       また戻りの行程の時にご覧頂きますね。




       爪先立って覗く、聖堂内陣部
       右の流れが聖堂身廊部で、
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       これが正面扉方向
       正面のウッチェッロ作の時計も見えますが、
       こうして見ると、高さの関係で余り広く感じませんね。
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       当時にあって世界最大の丸屋根、現在も壁造りのクーポラとしては
       世界最大、の建設の流れですが、
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       1419 クーポラ建設のアイディア募集のコンクールが行われ、
          ブルネレッスキ・Brunelleschiが、型枠なしで造る事を提案。

       1420 正式なコンクール勝者の発表はなかったものの、
          ギベルティ・先回見て頂いた洗礼堂の扉の作者と、
          ブルネッレスキの2人が大頭・大師匠として任命され、
          8月7日から建設に取り掛かります。

       1425 建設に関しては不慣れなギベルティが失策をし、
          左官屋の反乱もあり、ギベルティは追放され、
          ブルネッレスキ一人の手に、仕事がゆだねられます。
 
          洗礼堂の扉のコンクールでも最後まで残ったブルネッレスキで、
          この2人は大変なライヴァルであった様で、
          ブルネッレスキはわざと不慣れな仕事をギベルティにさせた、とも!

       1436 クーポラの屋根部分が完成。
       1446 頂上の灯台部分の仕事が始まり、
       1461 一番上の円球と十字架が置かれ、建設完了。      




       クーポラの建設は、聖堂の建設が始まった当初から
       関係者の間で様々な検討がされた難問だったと言いますが、

       こちらは聖堂の大きさを比較する図
       の古くからあったサンタ・レパラータ・Santa Reparata教会を取り壊し、
       オレンジが、最初に建設を請け負ったアルノルフォ・ディ・カンビオ・
       Arnolfo di Cambioの考えた聖堂の大きさ、
       薄いオレンジ色が最終案、現在のドゥオーモ、クーポラのかかる大きさ!
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       なぜどんどんこんな大きさになったのか?!
       当時ヨーロッパ第一の財力を握るまでに成長したフィレンツェの街は、
       何が何でも大きな素晴らしい聖堂を造る力を持っているのを示したかったと!

       それにしてもちょっと笑えません?
       負けん気を起こしてどんどん大きなのを造り始めたのは良いものの、
       途中で、あ、クーポラはどうする?!と気づいて
       皆が深刻に相談を始めた、と言うのは、ははは。




       で、ここに登場したのが我らがフィリッポ・ブルネレッスキ
       Filippo Brunelleschi(1377-1446)
       公証人の息子として生まれたものの、金細工師、彫刻家となり、
       ギベルティと争った洗礼堂の扉の後、ローマに行き古代建築物を勉強、
       建築家となった人物。
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       ユーモアにも富む人物だった様子ですが、かなりのつむじ曲がりと言うか、
       性格の悪さでも知られた人だった様子、はは。




       ドゥオーモは1294-1295年から工事を初め、
       クーポラの基礎となるタンブーロ・ドラム部分の工事は
       1314-15年には既に完了していたと見られます。
       ただし、当時このドラム部の下に見える窓のある層の、
       窓は無かったそう。
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       ご想像を!
       こんなぽっかり天井の開いた聖堂があり、
       クーポラの建設はこんな所から始まったのを!!
       
       八角形のドラム部、内部直径は45m、外径が54m。
       従来の建設方法でドーム・丸屋根をかけるには、
       内側に木材で仮の支えのアーチ型を造っての方法だったので、
       それだとこの聖堂の大きさでは、到底重量を支えきれず無理なのですね。

       写真の下に見える図は、17世紀後半に再現された
       ブルネレッスキがドゥオーモ工事のために発明した
       内部で使用した足場。




       これは現在のクーポラ見学の行程でもあり、図の矢印のように
       時計回りに工事も進んだものと
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       上の図と同じ物ですが、
       ご説明のために番号を打ちましたので、それでご覧下さいね。
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       1.Calotta・半球、屋根のドーム
         内側はある部分では約2mの厚さ、これは他の部分も殆ど同じで、
         外側はもっと薄く、基礎部分は1,3m、頂点部は90cm。

       聖堂のクーポラは2重構造になっている、という図で、
       内と外の厚さの比、そして内側が外を支える関係になっている、
       というのも、この仕切りの壁の様子で良く分ると思います。

       縦と横の仕切り壁の数の関係も、右側でお分かりかと。
       
       
       2.Scalo・寄航地、引き上げ斜面
         建設中の工事労働者達の仕事や補填をしやすくする為に、
         2つの壁の間を石段が通っている。 
         窓から明かりを取った3段階の歩道で、
         最後の段階は直接に急傾斜を内側から外に出るようになっている。

       はい、これが現在クーポラ見物の我々も通っている道で、
       壁と壁の隙間、幅は約1,2m。

       3.Mattoni・煉瓦
         ブルネレッスキはレンガを「ヘリンボーン・杉綾織」に
         並べる方法を上部に、下部には技術ミックスを使った。
         そしてヘリンボーン式の場合、クーポラの傾斜に合わせ
         軽く内側に傾けるように、そして別のレンガとの間が少し開くように
         角を回して置き、隙間をモルタルで埋めた。
         これは衝動や振動を和らげ、ずれを防ぐ為の工夫である。
       
       4.Costoloni esterni・外側のリブ、白い肋骨
         クーポラ基礎のドラムの角部分から延びる付け柱。

       5.Embrici・瓦
         クーポラの外を覆う瓦。

       6.Buche pontaie・組足場用の穴
         足場を組む為の梁を通した穴。 
         何世紀にも渡って残されているのは、修復用の足場に使うので。       
       
       7.Lanterna・灯台
         クーポラの頂上にある冠、小礼拝堂を模した大理石製で、
         美的な意味づけの他に、2つの層の壁が合い閉じられた場所。              
       
       8. Volta interno・ヴォールト内部
         ジョルジョ・ヴァザーリとフェデリコ・ズッカーリによって、
         フレスコ画が描かれた。

       9.Loggetta・外のバルコニー、通廊
         多分ブルネレッスキによって既に予見されていたと見られ、
         1512年にバッチョ・ダンジェロ・Baccio d'Angeloにより
         建設され始めた物の、ミケランジェロの「コオロギの巣みたいだ」
         という酷評により取りやめになった。

        クーポラの南東側に一部分のみ残っている、あれです。

       10.Tribune morte・(使われない)観覧席
         クーポラからの重量を外側に逃す為の張り出しの扶壁。

       11.Oculi・丸窓




       以上なのですが、部分的に補充する事にし、
       ははは、shinkaiは一度読んだだけでは分らず、あれこれその説明を
       納得行くまで求めましたので、皆さんにも復習を兼ねまして、

       左上が内の壁と(実際は内側がもっと厚いのですが)外の壁
       そして間の支え壁の様子
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       壁の厚みですが、これには内部が2,1m~1,5m
       外側が75cm~38cm。
       この数字は上での数字とは少し違いますが、大体これ位だとご了承を。
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       で、問題は右の図で説明している事なのですが、
       数学に弱いshinkaiには数字を使ってのご説明が出来ませんで、ご容赦、
       
       つまりクーポラの上部に進むにつれ、壁の厚みすべてが
       内部へ傾斜し、その断面が切り立っていく訳で、

       これが最大の建築問題点だった様子で、如何にそれを解決したか、
       これについては、クーポラ内の中心点に立てた軸棒を基点に、
       「コルダ・ブランダ・緩やかなロープ」というのを使って
       断面の傾斜を決めていった様子です。

       これの説明(イタリア語!)とヴィデオがありますので
       それで様子を推察して下さいませませ。
       教授が手にされている傾斜棒、これがコルダ・ブランダの働きです。



       こちらがクーポラの壁の傾斜度数!
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       上にも足場の復元図の小さなのが出ましたが、
       
       これもブルネレッスキが発明したといわれる起重機
       下には馬が1頭ですが、私が見たヴィデオでは牛が2頭回り歩き、
       単に荷を吊り上げるだけでなく、(確か)歯車の向きを変えることで
       荷を下ろす事もできたのだと。
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       所でドゥオーモの5分の一サイズのミニが造られ、見る事が
       できるそう。 場所はフィレンツェのアルノ河を渡って東に、
       アンコネッラ公園・Parco dell’Anconella内。
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       クーポラの傾斜部分に使ったといわれるヘリンボーン式の
       レンガの並べ具合も見えますが、
       前におられるのが設計家のマッシモ・リッチ氏・Massimo Ricci。
       近年のドゥオーモの研究者で、彼の指導を受けて実際に作ったのは、
       フィレンツェの建築高校の学生達だそう。

       5分の一サイズで、煉瓦も同じにし、当時の手法を使い造ったそうで、
       向こう半分は口を開け、中からの様子も見れるようになっていると。




       こちらはクーポラの壁建設の進み具合
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       煉瓦の繋ぎのモルタルの乾き具合を見ながらのゆっくりの仕事。
       工事人は一列を1週間かかって並べたそうで、
       カタツムリの歩みのようにゆっくりと、30cmの高さに1ヶ月かかったと。

       上記したコルダ・ブランダ、ドラム部の円の中央の基礎点に
       結び付けられたロープを使い、
       各煉瓦をどこに置くべきかを指示したそう。

       そうそう、ブルネッレスキは働き手を88のグループに分け、
       一つのチームに何人かは分りませんが、少なくとも88人は居た計算で、
       各人がそれぞれの箇所を請け負っていたと。
       
       これで賃金などが分るともっと興味深いのでしょうが、
       それには本を買って読まないといけませんですね。

       ナショナル・ジェオグラフィックのヴィデオもどうぞ。




       所で使用した煉瓦について読んでいて、インプルネータのコット
       cotto dell'Imprunetaという言葉に出会いました。

       コットというのはテラコッタの事で、インプルネータはフィレンツェの
       南に位置する町の名、古くからテラコッタの生産で知られた町で、
       ブルネレッスキは厳しい冬の寒さにも強いここの煉瓦を
       クーポラの建設資材に選んだのですね。

       あの大きなクーポラの重量を支えるにも、大理石に比しての
       焼き煉瓦の軽さが必要だったのですが、
       粘土に含まれる鉄酸化物があの赤さを生み出すのだそうで、
       クーポラの外側に張られた瓦の色がまさにそれですね。

       修復に即使える様に、瓦は当時の色を保つ為に
       ずっとそのまま日に晒されつつ、現在も保存されているそう!

       ブルネレッスキの建設煉瓦への要求は厳しく、
       形がきちんとしている事、良く焼いている事だったと。


       で、このインプルネータの窯元で働く人々の間から生まれた
       有名な土地の料理が「ペポーゾ・デル・インプルネータ
       Peposo dell’Impruneta」これです。
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       この写真にはトウモロコシの粉で作るポレンタが添えられていますが、
       フィレンツェでもポレンタを食べるのかな?

       テラコッタの窯元で働く人たちが、窯の隅にテラコッタの鍋を吊るし、
       材料の牛の筋肉とワインを入れそのままほって置くと、
       5時間後には美味しく柔らかく煮込まれた筋肉が食べられるという、

       ブルネレッスキはこの料理を建設現場にも持ち込み
       工事人たちが昼時にいちいち下に下りずに済む様に、
       食事場所を建設現場の上に作り、勿論トイレもね、
       飲んでも酔っ払わないように、水で薄めた赤ワインを添えたと! ははは。

       ペポーゾの簡単リチェッタは
       ・1kgのキアニーナ牛の筋肉
       ・1Lのキアンティ・ワイン
       ・20粒の黒胡椒  胃の弱い方は少し控えめに。
       ・5片のニンニク、薄皮のまま
       ・サルビアとローズマリーノ、塩
       ・トスカーナのパン

       筋肉は小さ過ぎない角切り、他の材料も鍋に入れ
       ワインを注ぎ、火は弱火、筋肉が余り柔らかくなり過ぎない程度に
       煮込みます。
       最後にパンを切りトーストし、ペポーゾの上に乗せ、即サーヴィスを。

       ミラノのトスカーナ料理店でも食べれるそうで、サイトは
       www.tavernetta.it




       さてでは、再度登攀にかかりましょう!
 
       天井部が少し傾いていますが、狭いながらまだ普通の階段で、
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       わぁ、サンタ・クローチェ教会が見える! 
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       徐々に暗く、急坂となり
       目に故障がある私めは暗いと鳥目で、足元を確かめつつ、
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       ほら、この高さに大きな窓があり
       真ん中がバディア・フィオレンティーノ修道院の塔、
       左がバルジェッロ宮の塔。
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       いよいよ急坂! でもまだ撮ってる、ははは。
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       この時点で初めて煉瓦の壁に出会い、通路が角ばり、
       煉瓦が斜めに走っているのに驚いたのだと。
       ほら、ヘリンボーン式に縦に挟まる煉瓦も見えますね。
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       左手からの壁の傾き、中の通路も右に曲がりつつ上り、
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       左手前、中側の壁の煉瓦の並びの傾斜具合!
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       本当は壁ももっと傾いていたのかも。




       暗くて見えにくいですが、穴倉を通り抜けて行く様な
       頭の上からのも、石段の横も傾いていて、
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       これは過ぎてきた方を振り返っていますが、外の壁、中の壁共に、
       傾斜している煉瓦の並びをご覧下さい!
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       最後の天上部に上る部分!
       女性の皆さん、ミニははいて行かないで下さいね!!
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       463段の石段の末漸く辿り着いた天井の穴、
       小さい灯台部への出口、これは聖堂の正面側にあったと。
       入り口の石のすり減り具合!!
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       クーポラが建設されたドラム部分の高さは、地表から55m、
       クーポラの高さは34m。
       聖堂全体の高さは、ランテルナの上の十字架の高さまで入れ、
       116,5m!!

       クーポラが出来て後、再度ランテルナのコンクールが行われ、
       当然ブルネッレスキの案が選ばれますが、彼は最後の仕上がりを見ず
       1446年に世を去り、
       ランテルナが建設され、1461年、上の金色の球、十字架も据えられて、
       全部の完成を見たのは1468年の事。
       
       



       ばんざ~い! フィレンツェの街だよぉ!
       ドゥオーモのクーポラに上ったぞぉ!! 
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       街に落ちるクーポラの影!
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       クーポラの建設については私の長い宿題でしたので、
       今何とか書き終えて、ホッとしています。
       上手くご説明できています様に!




     ◆ お知らせ ◆

       10月10日から18日の、諏訪のギャラリー橋田さんでの
       個展が迫りました。

       DMが出来上がりましたら、またご案内させて頂きますが、
       ご住所をお知らせいただけると、画廊にお知らせし、
       直接ご案内状をお送りできると思います

       新しくご希望の方は、ご住所とお名前を
       コメント欄の「管理者にのみ閲覧」にチェックを入れ
       お知らせ下さいませ。

       頂いたご住所、お名前は他には出しませんので、
       宜しくお願いいたします。 



     *****

       水彩ブログには、 ヴェネツィアのピンク2枚  描き初めと途中経過 を
       アップしています。
       見てやってくださ~い!    

 

     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     






by italiashiho2 | 2015-09-09 01:26 | ・フィレンツェ | Comments(12)
2015年 09月 04日

   ・・・ フィレンツェのドゥオーモ ・ 朝の眺めと内部 ・・・

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       日中はまだ陽射しが強く暑いものの、朝夕はすっきりと涼しく、
       秋めいて参りました。
       と、少しは写真の整理に励まないとと思い出し、
       昨年9月の末に行った、ははは、フィレンツェを眺めています。が、

       なにせ撮る時は狩と同じで、下手な鉄砲数撃ちゃ当る式に
       撮っているので、いざ開くとその枚数だけにも恐れをなし、ははは、
       漸くにドゥオーモの朝の様子と内部を纏めました。

       宿がドゥオーモから2,3分の所にあり、
       時間はちょうど7時頃、街中も閑散とし、まだ観光客はおらず、
       ドゥオーモの足元もすっきりと見える様子をどうぞ!



       空がここでも既に秋の空っぽいでしょう?
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       サンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂、正面
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       9年前に出かけた時の写真を眺めながら、自分なりにあれこれ
       頭の中に構成していた地理と、再会して見た時の聖堂周辺の広さが、
       随分違うのに我ながら驚きました。

       つまり、実際にこのドゥオーモのある周辺がとても狭いのに、
       聖堂が大きいので尚の事感じたのかも知れませんが、
       狭い地に、びっしりと詰まっている美の濃密さに驚いたのでした。

       聖堂の正面の詳細は



       聖堂前の階段上も、綺麗に水で洗われ掃除がすみ
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       向かい正面にある洗礼堂にぴったり付いて撮っても、
       これでいっぱい!
       まさにサンタ・マリーア・デル・フィオーレ・
       花のサンタ・マリーア聖堂の名に相応しい美しさ!
       尼僧さん達が何度か通り過ぎて行き・・、
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       正面扉。 漸くに観光客2人登場
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       そして上部
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       向かい側にある洗礼堂は、昨年秋は修復ですっぽり覆われていて、
       これが大いに目算を外れたのでしたが、

       ちょうど8年前の9月末の朝に撮ったのがありますので、
       それをどうぞ。 北側斜め前から
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       正面。 そうですね、本当に壁が汚れていたのですね。
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       洗礼堂の東の門ですが、「天国への扉」とも呼ばれるのは、
       この扉に嵌めこまれた中央10枚+他の化粧版の美しさからで、
       1401年のコンクールで選ばれたロレンツォ・ギベルティ
       Lorenzo Ghibertiの作品によります。
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       今回撮ったものの内から、
       下から2段目の右、ジェリコの壁の陥落
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       左、十戒を受けるモゼ
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       扉の真ん中に並ぶ2人の頭部、左が作者のギベルティで、
       右が息子でもあり協力者でもあったヴィットーリオ・Vittorio.
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       ですが、ここにあるのはコピー作で、
       ギベルティが1424年から28年間精根傾けて作った本物は、
       ドゥオーモ博物館に。

       洗礼堂の北側の扉の化粧版も彼の作というのですが、
       チラッと見ただけで記憶に残らず、次回またのチャンスに。

       洗礼堂についてはこちらに




       少しずつ明るくなって来ていますが
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       聖堂の北側には、まだ暗さが
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       7時半前か右の扉が開き、警備員が現れ掲示板を出しますが、
       観光客の入場は向って左の扉なので、また閉まり、
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       ふと気づくと、鐘楼の角に朝日があたるのが見え
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       カルツァイウオーリ通り・Calzaiuoliの角の建物にも
       手前角は、ロッジャ・デル・ビガッロ・Loggia del Bigallo.
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       朝日を浴びる鐘楼
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       ジョットーの鐘楼については




       聖堂南側から見るクーポラと
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       朝日に輝く、頂上にある十字架
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       南側の壁、余りにも広く大きいので、
       どう撮っても傾斜がつき・・。
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       朝日を浴び浮かび立つ、なんとも美しい鐘楼!
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       この撮っている位置の後ろに救急病院があり、
       救急車の係りの女性も一緒に眺めていて、
       本当に美しいね!と言い合った事でした。
       



       ではちょっとサンタ・マリーア・デル・フィオーレ聖堂に
       付いての基本を、モンダドーリのガイドブックから。
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       番号順に、
       1.中央入り口  常の観光客は左の扉から。
       2. ネオ・ゴシック式の大理石のファッチャータ・正面。
         ジョットーの鐘楼風模様ですが、装飾建築は1871~1887年に。
       3.鐘楼 ジョットーにより設計された85mの高さで、
         ドゥオーモより6m低い。
       4-1.ブルネレスキ設計建築の丸天井。
         当時に於いてかってなかった大クーポラを、伝統の木製足場なしで建設。
         頂上まで463段の階段で上る、別の一回り小さな内側のクーポラを
         造り、それが外側を支える仕組み。
       4-2.クーポラの頂上。  素晴らしい街の景観が見られる。
       5.様々なサイズの煉瓦
         曲面煉瓦とヘリンボーン(杉綾模様)を組み合わせた方法で、
         ブルネレスキはローマのパンテオンを見て発見した。
       6.内部の「最後の審判」のフレスコ画、ヴァザーリ作。
       7.大理石の床。 クーポラに上りながら16世紀制作の床の模様を
         見ると、迷路風になっているのが分ります。
       8.クーポラへの入り口、 となっていますが、
         現在入り口は反対側の北にあり、ここは出口。
       9.クーポラの真下の聖所、八角形。
       10.クリプタ・地下への入り口があり、ここには現在の聖堂以前の、
          4世紀に遡るサンタ・レパラータ教会の遺構が残ります。


       聖堂の起工式が行われたのは、1296年9月8日
       その時にサンタ・マリーア・デル・フィオーレ・花のサンタ・マリーアと命名、
       なんとも素晴らしい名前ですねぇ!
       
       以前この場所にあったサンタ・レパラータ教会・S.Reparata
       の遺構は、現在地下の博物館として見学できますが、
       その何倍もの大きさ、しかも2度に渡る計画変更で拡大され、
       途中の中断も経ながら1380年に身廊が完成、
       1418年にはクーポラを残すのみにまでに進行します。

       で、この当時はこの大クーポラを如何に架けるかが
       問題だった訳ですが、ブルネレスキ・Filippo Brunelleschi
       が解決、1434年8月30日に頭頂部が閉じられます
       その後の頭頂部の上の明かり取り部分の完成は1461年、
       そして天頂の球、金色ブロンズ製が取り付けられたのは
       1468年、レオナルドの師ヴェロッキオ・Verrocchio に依ります。

       つまり170年程の年月が掛かった訳ですが
       まさに今も残るルネッサンスの素晴らしい聖堂、我々もお陰さまで!




       午後、ドゥオーモの内部に
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       以前は左の扉から入ると、中は自由に行き来出来たのですが、
       今回は、正面扉から奥にいわば3角形に入れない空間が作られ、
       その分、逆に聖堂内が広く感じられました。




       脇の床の模様
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       奥に進むにつれ、クーポラ内部の壁画が見えて来ます
       そう、ヴァザーリの「最後の審判」。
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       クーポラ真下の聖所、いわば内陣部分
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       脇の壁に見えたダンテ像、「神曲」を手に持ち、
       背景は「神曲」の図解とフィレンツェの街。
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       真下から見上げるクーポラ内部のフレスコ画
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       今回はクーポラの上まで上がりましたので、写真整理が出来次第、
       頂上からの街の眺め、近くからのこの壁画もご覧戴きますね。




       内陣付近から見る、天井部と入り口扉周辺、そして床
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       正面上のこの24時間時計がずっと好きだったのですが、
       今回これはパオロ・ウッチェッロ・Paolo Uccelloの作品と知って、
       嬉しくなりました、単純、ははは。
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       フレスコ画で出来ていて、4,7m四方で、1443年の作。
       記録された支払額は、1443年の2月22日に、時計周囲の頭部に
       10リレ、4月2日に時計全体の装飾に、これの金額が分りません。




       左の扉入り口付近にある、右の騎馬図もパオロ・ウッチェッロ作の、
       フィレンツェの為に働いた傭兵隊長ジョン・ホークウッド・John Hawkwood            
       の記念騎馬図、1436年の作、8,2x5,15m.
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       当時大売れっ子で忙しかったウッチェッロは、3ヶ月で仕上げたのだそう!
       最初はブロンズの騎馬像にするつもりだったのが予算不足となり、
       ウッチェッロに依頼し、ブロンズ像らしい効果を狙ったと読んだ記憶あり。

       で、現在見える周囲のグロテスク模様のエレガンテな額縁は、
       1524年に修復したロレンツォ・クレーディ・Lorenzo Crediがつけたものと。

       左は、アンドレア・デル・カスターニョ・Andrea del Castagno描く、
       ニッコロ・ダ・トレンティーノ・Niccolò da Tolentinoの記念騎馬図、
       1456年作。
       
       このニッコロ・ダ・トレンティーノという傭兵隊長は、
       ウッフィッツィ美術館にある有名なウッチェッロが描いている
       「サン・ロマーノの戦い」のフィレンツェ側の隊長だったそう。

       で、この「サン・ロマーノの戦い」について、大変興味深い話の
       TV番組を見ましたので、また纏めてみたいと思っていま~す。




       こちらもガイドブックの写真から、

       上はドゥオーモの裏側というか、クーポラのある東の外側の様子。
       3つの飛び出した後陣が、内部にはそれぞれ5つの礼拝堂を持ちますが、
       15世紀のステンドグラスは、ギベルティを初めとする他の作家の作と。
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       下の写真は、ドゥオーモ内部の床模様




       午後半ばの、ドゥオーモの北側
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       身廊から後陣部分がちょっと飛び出す手前に、



       この扉があり、ここが現在クーポラへの上り口
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       午後の半ばに行きましたら長蛇の列で、
       翌朝8時半過ぎに行き、すんなり入りました。 が、
       階段部分は何とかかんとかOKでしたが、へへへ、
       薄暗いのが、目に故障を持つ身にはきつかったです!




       入り口前の掲示板
       聖堂の図の赤点が現在位置で、切符売り場は洗礼堂の向かいに、  
       オープンは、月~金は8時半から午後6時20分
       土曜は8時半から午後5時、 日曜祭日は上れません。
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       最後は、聖堂前にいたライオンみたいなワンちゃん!
       一体何種だろ?! お母ちゃんが浮気したとか・・、ははは。
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       楽しんで頂けましたように!




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       水彩ブログには、 冬の運河 途中経過と、最近のお気に入りCD を
       アップしています。
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by italiashiho2 | 2015-09-04 02:10 | ・フィレンツェ | Comments(6)