イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

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2017年 05月 04日

   ・・・ トゥレヴィーゾ行き ・ 日本展と、パラッツォ・デイ・トゥレチェント ・・・

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       5月1日メーデーの日、日本のゴールデン・ウィークに比べるとささやかですが、
       ははは、こちらは30日日曜に続いての連休となり、
       仲間とトゥレヴィーゾに出かけてきました。

       トゥレヴィーゾには3月に印象派絵画展を見に出かけたばかりですが、
       「花咲く日本展」というのが開かれていて、浮世絵が見れるらしいから行こう、
       という仲間のお誘いで。

       浮世絵もかなりの数の展示で、着物や帯、履物の展示もあり、
       その都度の仲間の質問に答える形で、皆満足の展覧会見学で、
       shinkaiも一応の責任を果たせて、ほっと。

       がそれよりも今回は、展覧会の後偶然に開いているのを初めてみた、はい、本当に!
       街の中心ピアッツァ・デイ・シニョーリにあるパラッツォ・デイ・トゥレチェントの扉、
       そして内部も初めて見ることが出来ましたので、その様子をご案内いたしますね。

       
       上は、中心街の細い小路を彩る三色旗





       先回のトゥレヴィーゾ行きは曇り空で残念だったのですが、

       今回は駅前から少し行って出会うシーレ河・Sile
        -先日はオアジ・チェルヴァーラで見て頂いたシーレ河が街中を流れます、
       にも綺麗に映りこむ風景。
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       朝まだ9時頃の到着でしたので、朝日が斜めに射し込み
       人通りが殆どない道を中心に向かい、
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       途中の広場で出会う銅像のこの方は、マリーオ・デル・モナコ・Mario del Monaco.
       (1519-1982) 「アイーダ」のラダメスの衣装でしょう。
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       若い方はともかく、オペラ好きな方ならご存知ですよね?!
       輝かしく重くドラマチックな素晴らしい声量の持ち主で、容姿も素晴らしく
       戦後のイタリア50年代60年代を代表するテノール歌手でした。

       彼は晩年をトゥレヴィーゾの北、ヴィッロルバ・Villorbaの彼の別荘で過ごしており、
       亡くなったのはメストレですので、その関係で彼の像がここに、と。

       生まれはガエータとか、フィレンツェとかいろいろ説があるのですが、
       ヴィッロルバというのもあり、晩年住んでいた事から考えると、
       両親がここの生まれで、住んでおられたのではないかと・・。

       第3回目のイタリア・オペラ日本公演1961年で来日し、
       その時に聞いた「道化師」の彼の声は素晴らしく、驚き、
       またプッチーニの「西部の娘」などshinkaiにとってはまさにオペラの洗礼でしたし、
       ・・「西部の娘」は後に見て、別の感想を持ちましたが、
       まぁ、当時は純真な高校生でして、ははは。
        
       こちらに来て後、サン・レモ音楽祭で彼が歌った「こんなにも大きな愛・Un amore così grande
       もTVで見て感激したことをよく覚えております。

       Youtubeで見つけましたので、どうぞ





       街の中心、印象派絵画展を見たサンタ・カテリーナ博物館へ行くよりも
       少し手前で左に曲がり
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       斜めに入り込むと、右手の奥に見えるのが今回の展覧会場
       カ・デイ・カッラレージ・Ca' dei Carraresi.
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       カ・デイ・カッラレージというのは、カッラーラ家の家という意味で、
       パドヴァの領主であったカッラーラ家がトゥレヴィーゾを領有した1384~88年代にも
       関係しているのでしょうが、

       博物館のサイトによると、それ以前の1354年当時の記録によると、
       ここは街中でもかなり有名なオステリーア・アッラ・クローチェ・Osteria alla Croce
       という食堂、宿であったそうで、

       北からの旅人や商人、ドイツやオーストリア、そしてフリウリを通ってハンガリアからの
       旅人がここで食べ休みしていたのだそうで、
       初代からの持ち主が変わって後の1396年まで大変繁盛していたのだそう。

       カッラーラ家の紋章、4つの輪が繋がった荷車を上から見た様子、は
       正面の壁にあったのが、上から塗られて消された形になっていたそうですが、
       内部に残るフレスコ画には、いくらか面影をしのべるものがあるそうで、

       という事で、ここは一時カッラーラ家の私的な住居でもあった様子。





       隣の、今はカフェになっている建物、これは元々教会ではなかったと言う様な・・。
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       これは美術館北側の運河沿いの眺め。 
       右に切れて見えるポスターは今ちょうどフランシス・ベーコン展もしており、     
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       この日は5月1日の祭日、月曜にあたり、月曜休館か特別開館か、
       はたまた9時開館か、それとも10時か、
       どのサイトを見ても皆好き勝手なことを書いており、イタリア式、はい、
       電話をして開館は確実、と確かめて出かけたのでしたが、

       9時頃に到着したものの、やはり10時開館で、
       運河沿いのカフェで時間を稼ぐ間に、
       お天気が良く、新緑が見事だったので、shinkaiはちょっと近所を。

       すぐそばの水車はゆっくりと回っており
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       運河にしだれる柳の新緑、朝の陽に浮き出る橋
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       という事で展覧会はゆっくりしっかり楽しみまして、

       北斎の「波越しの富士」は再び、「下界は雨、稲妻光る富士」は今回初めて、
       先回もいくつか見た広重の東海道の宿場の何枚か、
       
       ですが、今回の出品作の方が格段に作品の保存が良く、
       浮世絵の摺師の手腕も良く分かり、感嘆しましたし、

       日本語が何とか読めるshinkaiは、ははは、描き込んである場所や名所の説明も出来、
       仲間たちも大いに楽しんだ様子で良かったです。


       
       という事で、どこかで軽いお昼にしよう前に行ったあそこは?という事で、

       古い建物の見える細い小路を抜け
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       パラッツォ・デイ・トゥレチェントの北側に出てきて、       
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       手前の家並の並びを入った所の小さなオステリーアで、あれこれお任せのパニーノを
       お昼の様子は、絵のブログの方に。





       さて、このパラッツォ・デイ・トゥレチェント・13世紀の館ですが、
       街の中心ピアッツァ・デイ・シニョーリに位置し、右に見えるのがそれで、
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       これが東側からの眺めと、上の広間への階段
       ご覧の様に、壁に筋が見え、煉瓦の色も違う事にご留意を。
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       お昼を済ませ、どこかでカフェを、と裏側の広場に出てきましたら、
       階段上の扉が開いているのが見え
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       あっ、あ、開いているよ! というと、行っておいで、とエレオノーラが言うので、
       まだ出てこない仲間を残し先に階段を上りまして、ははは、
       まぁ、後からは仲間が全部上ってきましたが・・。

       何せ、来伊以来26年めにして、初めて扉が開いているのを見たのです!!
       こんなチャンスを逃す手はありませんよね?! もちろん!





       入口から見た様子
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       正面部。  ここは市議会場でもありますので、北側半分がその会場に、
       そしてこの部分にフレスコ画がしっかり残っております。
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       こちらが東側、階段からの入り口
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       中央には、大きな書見台
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       ちょうど南半分の真ん中で、こんな作品の展覧会が開催中で
       5月1日の祭日だったので、ここも開いていたという事で、幸運でした!
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       壁にこのようなパネルが3枚あり、このパラッツォの歴史変遷を説明しておりましたが、
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       肝心の真ん中の写真が、なんとPCの不手際で開けなくなり・・! くそめぇ。
       まぁ、資料は他にも見つけましたので、何とか大丈夫。





       最初の東側からの写真で見えた、建物の傷の線ですが、

       こちらがウィキから拝借の、1944年4月7日の爆撃でやられたパラッツォの様子
       はい、ちょうど屋根からズドンとやられたそう。
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       ここは12世紀の終わりに建設され初め、様々な組織の集会所であり、
       近くに監獄も備えたのが完成したのが1268年。

       市民の政治行政の中心であったこの建物の周囲にはたくさんの店も集まり、
       1546年には建物の下、ロッジャの部分だけでも44軒の店があり、
       これらは5年毎に市から賃貸の形で、どんどん増えていったのだそう。

       確かにトゥレヴィーゾの街は12~13世紀に大変な繁栄を遂げたのだそうで、
       13世紀にはグエルフィ(教皇派)とギベッリーニ(皇帝派)の争いもあり、
       近隣領主エッツェリーニ、コッラルト、ダ・カミーノ、スカリージェリ、の領有もありましたが、

       1339年に自らヴェネツィア共和国の元に下り
       その後一時的にオーストリア、そしてダ・カッラーラの下にあったものの、
      
       1388年以降は1797年まで400年間の平和と繁栄を享受、という街。

       現在も地元経済が大変に元気なのを感じる街の空気です。


       
       で、このパラッツォは16世紀半ばに改装された様子ですが、
       19世紀から20世紀にかけ大きな改修が行われ、

       現在見る東側の大階段も、最初は建物西にあったのが東に移され、
       それも両側から連絡していたのが北側からだけに減らされ、
       建物の西側に残っていた急傾斜の階段も取り外され、
       今見る形に近い形だったそう。

       で爆撃の後、全部を建て直さなければいけないかと心配されたのが、
       なんとか修復できるという見極めで、修復不全の壁は取り壊し、
       幸運にも以前の古い北側部分が残っているのだそう。

       ただ現在見る南と北面の尖がった形は、この時に決められたもので、
       周囲のレース飾り、煉瓦の小さな一連の尖がりも、この時のものと。





       という事で、フレスコ画の様子をどうぞ

       ぐるっと周囲を囲む紋章と、その下の名、年は、14~15世紀にかけての
       ポデスタ・執政長官の名と家紋で、
       一番上の部分にも、様々な物語の主題が描かれているのが見えます。
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       北正面のフレスコ画装飾、まず左脇から
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       正面左
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       正面中央、聖母子の脇にいるのは、左にサン・ピエトロ、
       右の旗を持ったのがサン・リベラーレと。
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       聖母の顔が、ねぇ、残念・・。





       正面右側。  
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       フレスコ画は16世紀後半のものとみられ、
       左側共に円柱の間に描かれた4女性は4つの主要な徳を表しており、
       知恵、勇気、節度、正義なんですって。  ご存知でした?  

       騙し絵的な影が背後に付けられており、くっきり浮き出す形。





       右の壁にあった、これは楽しいラクダの絵!
       壁画を描いた画家の内に、見た者はいなかったのでしょうね、ははは。
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       議会場側から見た南側
       周囲に大きな3連窓がずらっと並んでいるので、大広間も明るい空間。
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       壁と屋根の高さ
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       この広間、議会場と展示場は、
       今年2017年1月から土曜、日曜の14時半から18時まで公開されていて、
       入場料は、通常5エウロ、割引3エウロ、18歳未満とトゥレヴィーゾ市民は無料と。

       我らは祭日、労働者の日に当たり、無料でしたぁ!

       ちょっと及びませんが、
       今年からの公開で、やはりかなりの大広間ですので、
       トゥレヴィーゾに行かれ、お時間が合う方はどうぞご訪問を!





       広間を出て来ての階段の上からの眺め、かなりの高さで、
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       下の広場の女性像が、こんな風に見えます。
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       shinkaiはずっとこの像を、どこかから吹き込まれたまま、へへへ、
       「イタリア像」と思い込んでおりましたが、
      
       今回これは独立広場・ピアッツァ・インディペンデンテにある、
       正式名は「独立の記念塔」なんだそうで! ご容赦を。

       1866年のオーストリアからの独立で戦い亡くなった、
       トゥレヴィーゾの愛国者達に捧げられたものだそうで、
       アスブルグ家の支配の鎖を踏みつけ、右手に槍を、左手に月桂樹の冠を持ち、
       像の高さは槍の先まで3,83mで、全体で7,13mの高さ。
       
       説明にはご丁寧に、イタリア像とよく間違えられるが・・、とありましたぁ。
       へへ、それは私で~す。
       




       階段を下りてきた所で、綺麗な真っ白のワン君と出会い、
       撮らせてもらったのですが、肝心のワンは横向きで、ははは。
       でもこの若者、可愛いでしょう?!
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       シニョーリア広場を囲む商店街
       ここも古い街並みによくある、中世の細高く、奥に長い建物群。
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       駅に向かって歩きながら見つけた、可愛いカフェのモカ
       可愛い新作が出たようで・・!!
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       左のアルピーノのも可愛いですが、緑と赤のはお土産にも良さそうですねぇ!





       ショウ・ウインドウはすでに夏!
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       途中のカフェ・テラスで、一休み
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       こちらは今回トップで見て頂いたシーレ河の、橋の反対側
       白く見えるのは汚れではなく、花びらで~す。
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       駅正面を来た所にある小広場、新緑がとても鮮やか!
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       下の写真の左、彫刻のある後ろがコンティネンタル・ホテル。



       爽やかな日の、楽しく思いがけない事のあったトゥレヴィーゾ行きでした





     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、カステルムーツィオ そろそろと、 トゥレヴィーゾ行きのお昼ご飯 を
       アップしています。    
       見てやってくださ~い!    




     *****        
       
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by italiashiho2 | 2017-05-04 22:39 | ・ヴェネト Veneto | Comments(2)
2017年 04月 22日

   ・・・ 古きロンゴバルドの教会と、 「ティツィアーノの家」始末記 ・・・

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       1週間前の快晴の午後のひと時、近くのカッペッラ・マッジョーレ・Cappella Maggiore
       の町外れにある「ロンゴバルド教会」の見学会があり、出かけてきました。

       この教会があるのは既に20年ほど前から知っていましたが、
       殆ど放置された状態で閉まっていて内部が見れずで、
       今回参加しているグループの見学があるというので喜んで!

       ロンゴバルド時代の教会というと、この近くではフリウリ州の
       チヴィダーレの教会がとても美しくて有名ですし、期待したのでした。
       




       カッペッラ・マッジョーレの町の中心はこんな感じですが、位置が少し高く、
       ここから更に奥の高台の田舎に至る上り口、という感じの小さな町で、
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       訪問した教会は、左下に伸びる道を行き、坂を下った平野部にあり、





       車で動くようになってからは余り通らない道なので、
       すっかり整備修復されていたのも初めて知り!
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       これはトップで見て頂いた道端の標識を入ってきての、南側からの眺めで、
       教会周囲もきちんと整備され、洗われた壁の白さがとても美しく。
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       扉は正面と脇に2か所、窓も正面扉上に一つ、南側壁に2つ、
       張り出した小さな聖具室部に一つ、そしてこの写真では見えないのですが、
       内陣部の南側に一つありますが、
       建物の東側、北側には一つもありません。





       脇扉の上に TRINO ET UNI と彫り込みが見えますが、三位一体の事で、
       この教会が奉納された正式名「サンティッシマ・トゥリニタ・Santissima Trinità
       を示します。
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       最初に出た「ロンゴバルド教会」の名が一般に知られている名前だと思うのですが、
       その他にも「マッタレッラ教会・Mattarella」とも呼ばれているようで、
       マッタレッラというのは、この土地の古い持ち主の名前から来ているのだそう。





       教会前にあった掲示板の写真で、一番上の平面図に見える
       白い線が現在の教会の形で、緑の線がロンゴバルドの時代にあった小さな教会
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       つまり8世紀から9世紀建設とみられる古い小さな教会を内に含み、
       14~15世紀に大きく拡張されたのが現在の教会、という訳。

       ピンクの線は壁画のある部分で、南に張り出している聖具室部分は17世紀のもので、
       教会上に見える小さな鐘楼もどうやらその時のものの様子。





       皆がぼちぼちと車に分乗して集まって来、神父さんが来られ扉を開けて下さり、
       最初に扉の中に頭を突っ込み覗いたshinkaiが見たのがこれ!
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       もちろん神父さんに「写真を撮っても良いですか?」と尋ね、OKを頂いておりますです。

       正面の「最後の晩餐図」の左脇、上、そして右にも少し見える石の跡
       これがロンゴバルド時代の小さな教会跡の壁なのです。
       きっと高さも低かった事でしょう!





       この壁画は蛮族-ビザンティン様式11世紀のもので、6x3mの大きさというので、
       最初の教会の大きさがそれで分かりますね。
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       銀貨の入った袋を握ったユダはテーブルのこちら側に小さく光輪なしで、
       キリストにべったりと寄りかかる使徒ヨハネ、その肩越しにユダにパンを与えるキリスト。
      
       長いテーブルの上にはワインもパンも、木の実のような小さい丸いもの、
       果物なのかな、細長いものも見えますね。
 
      
       上に「蛮族-ビザンティン様式・barbarico-bizantino」と書きましたが、
       ここで蛮族というのは北から来た民であるロンゴバルド族を指します。
       
       イタリア語では北からの侵入民族をバールバロ・barbaroと言いますが、
       その語源はというと、何をバルバルしゃべっているのか分からない、から来ているという説明が、
       昔大いに勉強になった小学生向け図鑑に書いてあったのを思い出しましたぁ!
       ほら、日本語で、ベラベラしゃべりやがって、というのと同じでしょう、ははは。





       皆が入り込まないうちにと、大急ぎで撮っていきますが、
       上の「最後の晩餐図」以外は、時代が下り15世紀のもので、
       画家の名も判明、というのは、殆ど絵の下に書き入れがあるのです。
       
       隣の「ザクロの聖母子像」 アントネッロ・ダ・セッラヴァッレ作
       近くのヴィットリオ・ヴェネトの画家で、左の聖母子の足元に膝まづくのが寄進者と。
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       いつもこういう訪問の際のガイド役、ソリゴン・Soligonというグループの講師・元学校の先生が到着し、
       皆も席に着き説明が始まると、入り口の扉を閉めたため暗くなり、
       それもあって、今回の写真はイマイチよく見えないのをご容赦願います。       
       フレスコ画自体が損傷したり、傍で見ても細部がはっきり見えないのも多いのですが・・。

       全体の様子と、内陣後陣の全体像
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       「磔刑図」はベルガモ出身のアントニオ・ザーゴ・Antonio Zagoの作で、
       他にもう一人アントニオ・グネール?・Gnerという画家の名も。





       正面脇左下には聖母子像と、上に受胎告知の天使像
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       この聖母子像の顔細部が教会のパンフレットに載っていて、これです。
       達者な筆さばきでしょう?
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       同画面の下部にはこんな風な、右に眠る女性の顔半分と、
       白い犬がいて・・、ちょっと判じ物風。
       講師ソリゴンの説明によると、白い犬は彼女の処女性を示す、というのですが・・。
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       上部「受胎告知」の天使。 横割れの衣装から脚を大胆に見せた天使が
       口に百合の花を咥えて、というちょっと変わった構図でして、はは、
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       左脇、下の絵はかなり薄れていますが、上部の「受胎告知」のマリア側
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       聖母は謙虚に描かれているのですが、ここでも左上の天使の目つきとか、
       聖母の右奥の天使の顔もちょっと変わっており、
       聖母の左の戸棚の中も、いかにも家庭の中の戸棚の静物画の様で、ははは。
       画家の名がはっきりしませんが、面白いセンスを持っていると・・。





       後陣の「磔刑図」上部、キリストの顔ははっきりしませんが、
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       右の男はこんな風に描かれているのを、サイトで見つけました。
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       背景が壁になっている構図も初めて見ましたし、壁の上の三角風の飾り、
       これはヴェネツィアの大運河、リアルト橋横の新装なった元のドイツ商館の屋根飾りと同じ。 





       左下には心痛で気を失いかける聖母が抱えられており、  
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       右下のこの人物たち、これが良く分かりません。
       お分かりの方、お教えください! 
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       「磔刑図」を見ていて、中央のキリストは槍で心臓を突かれ、手足も釘付けですが、
       左右の二人は腕を横木に縛られ、脚も縛られた状態で、脚に傷を受けています。

       今までこんな風に描き分けられたのを見た記憶がなく、
       この違いは何を意味するのかと、改めて「磔刑」についてちょっと読んでみました。   
       知ったのは、

       磔刑はバビロニア期から行われていた極刑で、
       ローマ期においてローマ市民に適用されたことはなく、
       奴隷や破壊活動者、外国人に対してのみ適用され、
       磔刑の前に行われる鞭打ち、これがまさに酷い拷問であった様子。

       常に十字の形でなく、一本の木でも、逆さまVでも行われたようで、
       十字の場合、縦の木はすでに建てられており、横木を受刑者が運ばされたのだそう。

       脚に見える傷については、いつも、こん棒か槌で折られたのだそうで、
       つまり磔刑の目的は、長いゆっくりの死の苦しみの後に、貧血、肋骨の圧縮による窒息、
       または心臓の血液循環の滞り、虚脱による死、なのだそう。 恐ろしい事!!

       キケロは磔刑について、一番残酷な体刑であり、一番陰鬱なもの、と。
       




       内陣の天井図
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       内陣、北側の壁、上部。 これはアントニオ・ザーゴ作。
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       アーチ部の飾り画
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       というような、ロンゴバルド教会の、どこかちょっと違った教会なのかと出かけたのですが、
       教会自体は後の時代に改装されたもので、内部のフレスコ画も後世のものでした。
   
       が、一風変わったフレスコ画で、修復されて見やすくなっており、
       色も鮮やかで素朴で、なかなか良いと満足でした。

       1936年にこの一帯に地震があり、今残っているフレスコ画はこの地震で
       助かったものだそうで、案外教会全部がフレスコ画で埋まっていたのかも、ですね。

       神父さんが仰ったのは、ここは博物館ではなく、毎週金曜日には
       ミサが行われる教会ですので、お出かけください、との事でした。



       
       所で同様のアーチの飾りがカステッロ・ローガンツゥオーロの教会
       そうです、ティツィアーノの祭壇画を依頼した教会にもあった事を思い出し、
       解散後、まだ陽が高かったのもあり、寄ってみる気になりました。


       この一帯の地図をどうぞ
       薄いピンクで塗り分けられたのが、今回のカッペッラ・マッジョーレで、
       見学した教会は、東南端に近く、小さな赤丸のついた場所にあり、
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       北東にサルメデ・Sarmede 毎年国際絵本原画の展覧会のある場所 
       北西にヴィットリオ・ヴェネト  http://italiashio.exblog.jp/i8/10/
       南に我が村スコミーゴ 星のついている所に我が家   http://italiashio.exblog.jp/i12/
       そしてオリアーノ・Ogliano  http://italiashio.exblog.jp/23811624/
       一番下端にカステッロ・ローガンツゥオーロ   http://italiashio.exblog.jp/9036585/






       オリアーノの教会前から撮ったカステッロ・ローガンツゥオーロの教会と鐘楼
       小高い丘の上に、こんなぐうに張り出した形であり、       
       ここからだと、例のティツィアーノの家が良く見えるかも、と思ったのでした。
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       カステッロ・ローガンツゥオーロの教会前の庭から見る、
       こちらがオリアーノの教会と丘
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       午後遅めの太陽光線が強く、逆光で色が良く見えませんが、





       高台にある教会の周囲から見るカステッロ・ローガンツウオーロの村は、
       新緑に彩られ、美しい畑、農家が広がります
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       で、確かこの方面と見るコル・ディ・マンツァ・Col di Manzaの
       ティツィアーノの家が見当たらず・・!

       で、たまたま通りかかったシニョーレに尋ねましたら、
       おお、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりのうっぷん交じりに、

       北向きの、この風景の、右の大きな一群の建物
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       これですね、屋根にあるパネルで、赤と青に見える屋根の建物ですが
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       その奥に続く、家畜小屋といったか、これに遮られて、
       ティツィアーノの家が見えなくなったのだそう!!

       つまり、手前の長い屋根の奥に見える茶の瓦葺きの屋根だけ見えるのが
       ティツィアーノの家なんだそう!
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       いつから、と聞くと、大体20年かそこら前からで、農業関係の組合とかなんとかの
       建物なんだそうで、本当に悔しそうに話してくれましたぁ!





       たまたまこの日の午後、教会でお葬式があったのを下の駐車場で見かけましたが、
       それの片づけでまだ教会が開いており、
       我々が話している所に出てきたシニョーラも加わり、

       幸運にも彼女はガイドをしている方の様で、
       例のティツァーノの絵のコピーが中にありますからどうぞ!と。
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       左に見える礼拝堂の絵が見える部分にティツィアーノの祭壇画が。





       これです。 ヴィットリオ・ヴェネトのチェーネダの博物館にある修復画ではなく
       この近くの画家が描いた修復画を基にしたコピーで、
       額はこれがオリジナルなんだそう。
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       サイトで見た修復画の写真では良く分からなかった聖母の目元
       肩の感じ、キリストの首の座り、なども、ああ、こういう感じなんだ、と。
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       右のサン・パオロ像の方は、多少はティツィアーノらしき面影があるように
       写真では見えたのですが、こうしてみると、
       ティツィアーノが男を描くときの鋭さは見えず・・!
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       丁寧にあれこれ説明してくださったシニョーラによると、
       聖パオロが剣を持った姿で描かれているのは、彼は大変舌鋒鋭い方で、
       言葉で人を切る、と言われたことの表現なんだそう。





       こちらは額の上部に取り付けられていた、蘇生するキリスト像。
       これもティツィアーノの作とは見えませんが、質問するのを忘れまして・・、
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       これが上の絵の前にある、平常は閉じられている扉で、
       復活祭の時に開かれ、見ることが出来たのだと。
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       この絵と扉は、チェーネダの博物館にはない、というのをサイトで読んでおりましたので、
       ああ、これの事かと納得でした。


       ティツィアーノに払ったのは、リンクした記事に書いた契約の物品だけでなく、
       ニワトリや卵や野菜やと、とせっせと皆が運んだのだそうで、ははは、

       ティツィアーノの絵をオーストリア軍の略奪から守るために、巻いて天井裏に隠した
       当時の司祭さんは、絵の行方を尋ねられ、イタリアにある、とだけを答え、
       オーストリアの軍人はローマにあるのかと、ローマまで調べに行き、ないのでまた戻り、
       司祭さんは監獄に入れられたとか、


       そんなにまでして描いてもらった、守った絵が修復しても元に戻らずの状態で、
 
       その間に祭壇のフレスコ画、フランチェスコ・ダ・ミラーノの絵も綺麗に
       修復されたりで、

       結局、このフレスコ画の方が良い、という事になって、
       ははは、ある意味可笑しいでしょう?!
       ティツィアーノの絵は脇の礼拝堂に収まっているのだそう、
       という始末記でしたぁ!





       こちらがグーグルの衛星地図で確かめた様子
       右下に教会があり、左上にティツィアーノの家のヴィッラ・ファブリスがあり、
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       そうですね、確かに教会からだと前をふさぐ形に、大きな建物があることに!

       シニョーラも言われてましたが、現在は個人の所有のヴィッラで勝手に近寄れず、
       shinkaiが見たように、裏から見る姿しか見えない、という事で、

       リンク先に載せたウィキペディア・イタリア版の最初の写真も、何十年も前のもの!
       という事になります、という始末記でした。





       教会前からの長閑で美しい風景をもう一度
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       ティツィアーノも愛で、欲しがったこの土地の美しさと便利さ
       残された絵も今はこんな状態で、
       家も奥に見える大屋根の上に半分だけ見える、
       という・・、歴史の変遷のお話でした

       



     *****

       水彩+色鉛筆画ブログは、今週はパスさせて頂きま~す!

       復活祭関連で、お出かけ2回、食事会2回、車の検査と続き、
       本当に久しぶりに絵を描く時間が取れませんでした。
       
       まぁ、たまの息抜き、という事で、明日からまた頑張りま~す。

       絵のブログはこちら



     ◆ お詫びを ◆

       19日にアップしました記事のスタイルが、文字がずっと横長になるという
       見にくい形となり、一旦削除しアップしなおしましたが、
       それでも文字もいつもと形も大きさも違い、
       編集しなおしたものの、てんでんばらばらの見っともない面となりました。

       それまでにも2度エキサイトにヘルプ・メールを入れましたが、
       返事がなく、昨夜再度メールを送りましたが、まだ何も・・!

       気になり今朝方早く起き出して来まして、
       ひょっとしてと気が付いた事を実行し、
       前の記事を削除し、再度アップし直しました。

       何とかうまく行きそうですが、この方法だと頂いたコメントと、
       「いいね」が消えてしまいますが、
       どうぞ、ご了承下さるよう、お願いいたします!!
       



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by italiashiho2 | 2017-04-22 12:31 | ・ヴェネト Veneto | Comments(2)
2017年 04月 09日

   ・・・ 「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 ・・・

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       ヘミングウェイの「武器よさらば」は皆さんよくご存じと思います。
       あの簡潔なヘミングウェイの文体も素晴らしいですし、
       映画にもなっていますので、そちらからもご存知かと。

       第一次大戦のイタリアの戦場で脚を負傷し、ミラノの病院で手術。
       その病院で知り合った看護婦と恋に落ち、脱走し、
       マッジョーレ湖をボートを漕いでスイスに逃れ、
       そこで彼女は出産するも子供共に亡くなる、という粗筋。

       これはヘミングウェイのイタリアでの戦争体験が元に、というのも有名ですが、

       4年前の春、「ヘミングウェイのヴェネトでの足跡」を巡るツァーがあり参加。
       漸くにその時の写真を整理しましたので、へへ、ご覧ください。

       上はイタリア軍の軍服を着たヘミングウェイ、19歳(18歳)




       
       当日最初に行きましたのが、トゥレヴィーゾ南にあるカジエール・Casierという
       コムーネに付属のドッソン・Dossonという町。
       そこにあるヴィッラ・デ・レアーリ・Villa de Reali、17世紀。
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       おっちょこちょいのshinkaiはバスから降り標識を見て、えっ、レアーレ?!
       (王室の?!)かと驚いたのですが、

       いいえの、デ・レアーリ・de Realiという姓のジュゼッペ・マリーア、著名な政治家が、
       もともとはベネデッティーノ派の修道院だったのを改装してあったこのヴィッラを購入。
       その後、その息子のアントーニオ、上院議員、が大きく再建築し、
       13平米の庭を整備したものなんだそう。





       母屋の主体はこんな感じで
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       庭の奥隅に礼拝堂も見えます
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       ウィキペディアから拝借の写真で、礼拝堂の正面と建物の様子を。
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       翼側の建物
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       広大な庭園。 
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       ですが、どうも良く分からないまま、何となしに奥の方に行きそびれ、





       ちょっとした考古学博物館式になっているロッジャの下なぞや、
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       開いている窓から部屋の中を覗いたり・・!
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       この日ガイドしてくださった方は、地方歴史家というのか、
       第一次大戦におけるヴェネトの激戦地についてや、
       今回のヘミングウェイの足跡についての研究家の様子で、

       つまりこのヴィッラは特別ヘミングウェイに関係があるというのではなく、
       戦時中にこのヴィッラは兵隊の駐屯地にもなっていた様子で、
       その時に、彼もここに来て野営した、という関係だった様子・・!

       はぁ、まぁ、ヘミングウェイついでにヴィッラ拝見、とでも。





       漸くにヴィッラの中に入れ、お部屋を見れました
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       古い貴族のお屋敷を拝見に上がると、大抵懐かしい趣の写真があり
       そんなのを見るのが好きですが、今回も美人さんがおられ、
       懐かしいジョヴァンニ・パオロ2世教皇のお顔も!
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      ★ 写真追加 ◆  
       美人さんの写真、と書きながら、へへへ、肝心なのをアップし損なっておりました!

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       で、この女性なのかどうか・・、たぶん写真の撮り方から違うとは思うのですが、
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       デ・レアーリ家の最後の後継者テレーザが、1900年に侯爵ジュゼッペ・ディ・カノッサ・
       Giuseppe di Canossaと結婚し、
       1937年からこのお屋敷はカノッサ家の財産になっているのだそうで、
       現在の所有者は
       グアリエンティーナ・グアリエンティ・ディ・カノッサ・Guarientina Guarienti di Canossa.

       カノッサって、あのカノッサ?! と思われた方、
       はい、左様でございます。 
       あのカノッサ、10世紀からの貴族の家系、トスカーナ辺境伯、マティルデ女伯の下で
       「カノッサの屈辱」事件もあった、あのカノッサ家ですが、
       現在の上の麗々しいお名前の方はどの分枝の方か、存じませんです。


       「モンテクリスト伯」に、カヴァルカンティ・ディ・カヴァルカンティという
       イタリア貴族の騙りが登場しましたっけ、ぷっぷ。
        




       これは美しいお部屋でしょう?
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       でも、この小部屋の感じの方が好きだなぁ・・!
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       これは門扉の所にあった標識で、
       ほらね、「グアリエンティ・ディ・カノッサ」が見えるでしょ?!
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       見送って下さる管理人の方で、掌に入るほどのチビわんこを抱いて、
       やれやれ、野蛮人どもが帰るわい、という所、ははは。
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       我らはそれからバスで少し走り、地図で見ると多分シーレ河・Sileと思うのですが、
       その川岸を歩きながら、ガイドさんの説明を。
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       ですが、川岸の細い道でグループ全体が細い列になっていますから、
       ガイドさんの声はまるで通らず、後ろから付いていく我ら不良どもは、ははは、
       好きなように写真を撮って、時間の過ぎるのを待つばかり。
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       多分、このあたりにも若きヘミングウェイが出没したのでしょうが・・!


       そう、「若きヘミングウェイ」、本当に若かったのです!
       
       1899年7月21日、現在のシカゴ生まれ。 父親は医者、母親は元オペラ歌手志望。
       小学校へはあまり熱意なく通ったものの、ハイスクールで彼が文学に向いていることを
       発見した良き教師2人に出会い、彼らに励まされ、初めて学校新聞に発表。

       1917年卒業後大学には行かず、カンサス・シティでモダンで斬新、公平な記事を
       特徴とした地方紙「カンサス・シティ・スター」で働き始めるものの、
       
       この年4月6日にアメリカは第一次大戦に参戦、ヘミングウェイも仕事を捨て
       ヨーロッパでの戦いに志願するものの、視力の問題から、赤十字の救急車の運転手として
       イタリアへの派遣が決まり、
       2週間の教練と10日間のニューヨーク滞在の後、1918年5月23日ボルドー行きに乗船、
       5月29日上陸、ヘミングウェイ18歳!

       当時アメリカ側から参戦志願した若者たち、大学生の中には、
       ウィリアム・フォークナーやフランシス・スコット・フィッジェラルドなどもいたそうで。

       5月31日パリに。 ドイツの大砲により被害を受けた街並みを見た後、汽車でミラノに。
       何日かを緊急隊で働き、この時に近郊で、空爆を受けたくさんの女性工員が
       死んだ工場を見、彼にはこれが最初に直接に見た戦争での死者だったそう。

       そこからヴィチェンツァに、国際赤十字アメリカ部門のスキーオに配置されたものの、
       もっと戦争貢献と自分の記述のためを考え、短期間ながらもゴリーツィア、
       トリエステ近くのまさに最前線にも。

       が彼の所属していた部門はかなり平穏だったため、もっと実際の戦場に近い場所への
       配置転換を願い、こうしてピアーヴェ河の下流にある、フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ・
       Fossalta di Piaveの近く、塹壕の補助員として配置に。



       地図をどうぞ
       左下に見えるカジエール・Casierの上に小さな赤点がついているのが、
       最初に見て頂いたヴィッラで、その次の川沿いの風景はその東を流れるシーレ河と。
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       東側を流れるのがピアーヴェ河で、この河を挟んで北から南、ずっと大激戦地で、
       上に見えるファガレ・Fagaréには、第一次大戦の戦死者の廟があり、

       地図には見えませんが、ピアーヴェ河を北に遡ったネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・
       Nervesa della Battglia、我が町コネリアーノの西に位置するここには、
       もっと大きな戦没者の慰霊廟が。
       
       で、ヘミングウェイが負傷したのがフォッサルタ・ディ・ピアーヴェ
       右下に囲った、ピアーヴェ河が蛇行している所。





       バスに乗り、こんな菜の花畑を見ながら進み
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       ファガレの戦没者慰霊廟に
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       ここに葬られているのは、イタリア兵5191名、これは姓名が分かっている方で、
       身元不明の死者5350名、アメリカ兵1名、オーストリア兵1名と。
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       この部屋は下段に遺留品の展示もありますが、同じ形の部屋内全面に
       四角い廟という部屋が殆ど。
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       管理の方から、なんとも物凄い話もお聞きしたのですが、これはパス。





       そして、フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ。 この一帯が大激戦地だったのですね。
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       途中で戦時中に破壊された教会、現在はきちんと修復されておりますが、
       その前にあったヘミングウェイの写真
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       下に見える説明には、
       一般にはヴォランティアには軍服とか火器は許されないが、
       ここではベルサリエーレの自転車に乗り、銃も付けているし、ポケットに手りゅう弾も。
       だから、たぶんフォッサルタでは小さな戦闘にも参加したのであろうと。
       こういうのは、どこでも行われていたと。





       金属板の碑にあったこの一帯の地図
       ちょうど真ん中、ピアーヴェが湾曲している部分が彼が負傷した場所で、
       その下に橋が架かり、教会も見えますが、
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       橋はこれ。 多分私設の橋なのでしょう、渡り賃を取る料金所が真ん中に。
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       ポー河の下流で一度船を繋いだ橋を渡ったことがあり、やはり料金所があったのですが、
       知らずでそのまます~っと渡ってしまった経験が! ははは。






       土手にこんな鋼鉄の碑
         この土手で、アーネスト・ヘミングウェイ、アメリカ赤十字のヴォランティアが、
         1918年7月8日の夜負傷した。
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       土手から見るピアーヴェ河の湾曲部
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       皆土手を下りて岸辺に近づきますが、上から見つめる18歳のヘミングウェイ
       La guerra di Hemingway・ヘミングウェイの戦争
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       ピアーヴェ河、湾曲部の地図。 濃い赤色の線が塹壕で、
       16の番号のある位置が、彼が負傷した場所。
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       ちょうどあの砂場が見えるあたりでしょうか
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       1915年5月24日から始まったイタリアの第一次大戦。
       1917年の10月頃までは外部にあったこの一帯が、
       イタリア軍が現在のスロヴェニアのコバリード、カポレットの戦い(10月24日から11月9日)で
       惨敗し退却した事から、ピアーヴェ河を挟んでオーストリア軍と対戦することになり、
       一転して最前線となったというのですね。

       「武器よさらば」にも描かれているカポレットの惨敗、退却は大変酷かったようで、
       shinkaiも現在のコバリードに行き、博物館も見学しましたが、なんとも・・!!
       負けが込んでいたオーストリア軍がドイツ軍に応援を求め、ついにドイツ軍が参加、
       毒ガスを用いたのも勝利につながったというのですが、
       博物館で見た写真には、ものすごいのもありました・・。

      
       そして1918年の夏、6月15日から23日にかけ、必死の反撃を掛けたオーストリア軍が
       ピアーヴェ河を渡ることに成功し、フォッサルタの村は全破壊の状態にされたと。
       家から家、1mそして1m、という記述があったことからご想像を!

       そして1918年7月8日の真夜中を過ぎた頃、ブーゾ・ブラート・Buso Burato
       呼ばれたこの湾曲部で、
       オーストリア軍の手りゅう弾がヘミングウェイの近くで爆発、
       または迫撃砲が着弾し、それで手りゅう弾が爆発とも、
       
       近くのイタリア兵一人が死亡、ヘミングウェイも負傷するものの、
       もう一人の負傷したイタリア兵を敵弾の届かない場所まで背負って救助し、
       その後敵の機関銃弾が右足に当たり膝もやられますが、這いずりながら自分も助かり、

       ミラノの軍病院に運ばれ、12回にわたる手術を受け、227に及ぶ破片が取り出されたと!





       これはヘミングウェイが被っていた帽子と身分証? ウィキペディアから拝借。
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       昔読んだ本の解説などでは、第一次大戦に従軍記者として参加、なんぞと
       書かれていたと記憶しますが、
       アメリカ赤十字に所属する救急隊員の補助で、毎日のように塹壕をめぐり、
       兵士達にタバコとかチョコレートとかの援助物資を配る、という事だった様子。

       彼は、自分が負傷しながらもイタリア兵を救助した、という事で、
       イタリア国から軍の銀メダルを、自国アメリカからも戦争十字を授かったと。





       「武器よさらば」に登場するイギリス人看護婦キャサリンとのロマンスですが、

       こちら、ドイツ系アメリカ人アグネス・フォン・クロウスキー・Agnes von Kurowsky
       ミラノのアメリカ軍病院入院中のロマンスの相手だったようで、彼より8歳年上の女性。
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       彼にとってはかなり真剣な恋だったようですが、何せまだ若い19歳。
       儚い3か月間のロマンスと入院が過ぎ、

       彼は一旦バッサーノ・デル・グラッパの戦場に戻りますが、部隊が動員解除となり、 
       近い将来の結婚約束を語りながら、翌年1919年1月21日にアメリカに戻りますが、
       3月、アグネスからイタリア人将校と婚約したことを告げる手紙が。





       アメリカに戻った彼は新聞記者をしながら書き始め、1926年「日はまた昇る」を。

       そして1929年にイタリア戦線での経験を盛り込んだ「武器よさらば」
       現在のモンダドーリ版の表紙には、入院中のヘミングウェイの笑顔が。
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       カポレットのイタリア軍の惨敗、退却、そして脱走が描かれている内容から、
       第一次大戦後のファッシスト党ムッソリーニ政権下のイタリアでは
       出版が1945年まで禁止されていたそうで、

       ヘミングウェイの翻訳で有名なフェルナンダ・ピヴァーノ・Fernanda Pivanoにより、
       すでに1943年に秘密のうちに翻訳されていたものの、彼女はその為に逮捕も。

       
       その後ヘミングウェイはスペインの人民戦争にも参加し、「誰がために鐘はなる」
       そして「老人と海」も。 1954年にはノーベル文学賞受賞


       重傷を負ったフォッサルタ・ディ・ピアーヴェを後年ヘミングウェイは再訪し、
       1950年に「川を渡って木立の中に」に当時の様子を描いているそうですが、
       これは読んでおりません。

       
       切れの良い簡潔な文章で語るストーリーは、アメリカの古典と称えられるそうですが、
       私は若い頃に熱中した上記の作品よりも、「海流の中の島々」が好き。
       自分が年を取ってから読んだことにも因るのかもしれませんが、
       なんとも心に染み入る優しさにあふれた作品と。       
       べたつかない、乾いた人間の感情、優しさが心地良いです。





       ガイドをして下さった歴史家は、フォッサルタの後まだ案内したい場所があったようですが、
       我らは内容の重さに少々疲れ、日も暮れかけるので早く家に帰りたく、
       バスの中で採決しましたら、まだ行きたい挙手は2~3名で、ははは、

       夕暮れ近い川を渡り
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       落日近い平野を走り
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       すでに暗くなったコネリアーノに戻った、「ヘミングウェイの古戦場巡り」でした




     *****

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by italiashiho2 | 2017-04-09 23:47 | ・ヴェネト Veneto | Comments(8)
2016年 10月 11日

   ・・・ エトルスク博物館 ヴォルテッラ ・・・

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       ヴォルテッラの有名な見所をあれこれご覧頂いて来ましたが、
       今回が最終回、この町の名を世界に広めている
       エトルスク博物館・Museo Etrusco Guarnacciのご案内を。
      
       博物館名の最後にあるGuarunacci・グアルナッチというのは、
       この博物館収蔵品の大きな、そして主要な部分を占める作品を
       寄贈したマーリオ・グアルナッチ氏(1701-1785)の名が冠されたもの。

       18世紀後半にこの博物館が出来たのですが、それまでは町の
       貴人著名人達の個人コレクションとして分散していたのだそう。
       1776年地下墳墓からたくさんの発掘があった際に市に寄贈され、
       それがこの博物館発足のきっかけになったと。
       
       とにかく物凄い数と質の高い収蔵品でして、
       到底すべてをご覧頂けず、ご説明もままなりませんが、
       shinkaiの目で見た好きな物、良いと思ったもの優先で、はは、
       あまり学術的では無いご案内ですが、ごゆっくりどうぞ。

       上の写真は、町の中心からヴィア・マッテオッティ・Via Matteotti
       を、そして右にヴィア・グラムシ・Via Gramusciを南に。
       左からの道が合流する位置のヴェンティ・セッテンブレ広場・
       Piazza XXSettembre.
       
       この辺りレストランもたくさんあり、




       目指す博物館は、そこからのドン・ミンツォーニ通り・Via Don Minzoni
       を少し先に行った所。
       町の地図は既に2度ほど載せておりますので、そちらで。
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       エトルスコ・Etruscoと言っておりますが、これはエトルリア人、国、
       形容詞にあたり、エトルリア文明・文化と同じ事で、  
       イタリアで馴染みの言葉ですので、これを使わせてもらいますね。

       エトルスコ文化が栄えたのは紀元前8世紀から1世紀ごろと言われ、
       とりわけイタリア中部に広がり、独特の言語文化を持ちますが、
       紀元前4世紀頃からローマ人が勢力を持つようになると、
       徐々に併合、吸収されていった民族です。

       この博物館の38室には、それぞれの時代、部門にわたる展示が
       ありますが、
       ここでは大まかに区切り纏め、ご覧頂くことに。
       専門家の皆様、ごめんなさい!

       まずは石棺類ですが、素晴らしい彫りのものを。

       船の到着を迎える女性の楽人たち、戦闘場面、狩猟かな、
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       これは上下が別々の物を一緒に展示しているらしい石棺
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       こちらはテラコッタのお棺
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       ご覧になって分かるよう、大きな石棺と、このテラコッタ製の
       小さなのがありますが、小さいのには火葬しての遺骨を入れたものと。
       エトルリア人達の間ではかなり火葬が多かった様子で、
       棺の上に横たわるのは、生前の人々の在りし日の姿を偲ぶ物。

       そして棺の他に骨壷や、小さな家の形をしたものとか、
       様々な埋葬の品があります。




       上の様に一人で横たわるのも多いのですが、ご夫婦で、というのもあり、
       この博物館の目玉の一つが、テラコッタ製のこれ!
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       棺の蓋部のお2人のみが残っていて、紀元前1世紀頃の作、
       大きさを探しましたが見つからず、
       見た記憶からだと、長さが1m位だったかな・・。
       


       仲良く寝椅子に寄り添い、妻の方はじっと夫の顔を見つめているのですがぁ・・、
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       こうして見ると、妻の凝視がちょっときつく見え、ははは、
       大阪弁で「アンさん、若い女を作ったら承知しまへんでぇ」とでも・・、
       ははは、失礼。

       所で夫の左手に持っているのは何かと思いましたら、
       これは角笛なんだそう!
       動物の強い力を借り、黄泉の世界に旅立つ為の魔よけなんだそうで、
       必ず男性の左手に持たれていると。




       背後から見るとこんな形
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       妻の頭に見える穴は、テラコッタを変形させる事なく焼く為に、
       中の厚みを調整しているのですが、それを掻き出すための穴と。

       夫が右手にも何か持っているのですが、これは何も指摘が無く、
       花の様にも見えませんか? とすると、可愛い夫ですねぇ!!




       所でちょっと脱線ですが、

       「夫婦像の寝棺」として有名なのが、ローマのヴィッラ・ジューリア博物館
       にある、同じくエトルスクのテラコッタのこれ!
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       これはラツィオ州の北の海辺に近いチェルベーテリ・Cerveteriで、
       19世紀に発掘された物で、高さは1,14m 長さは1,9m、

       アルカイック・スマイルと呼ばれる謎に満ちた微笑を浮かべ、
       あの世でもずっと一緒に寄り添う事を確信した笑みなんだそう。
       なんともエレガントな作品で、紀元前6世紀の作というのには驚くばかり!!




       背後からの姿、この髪型も良いですねぇ!
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       そして、この女性の手の優雅な事!!
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       足先ですが、夫は裸足で、妻は靴を履いていて、
       妻の靴の裏底の形が綺麗に揃っているでしょう?
       当時のテラコッタ職人の技術の高さと
       その美的センスの良さにも大いに驚かされた事でした。
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       ローマの街自体も殆ど知りませんが、
       この博物館はまだ行った事がなく、チャンスを待つ事に!




       さて、ヴォルテッラのエトルスコ博物館に戻りまして、

       今回あれこれ見ていて石棺の中にも、ご当地名産のアラバスター
       石膏雪花の石で造られたものと、他の石で造られたものとが
       あるのに気がつき見え、そうなんだ!と一人で納得のshinkai。
       
       この豊満美女はアラバスターの石の中で、今も微笑み続け・・
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       ですがね、これは美女ですし、周囲が緑色の枠内なので載せましたが、
       黒枠の中に、顔にだけライトが当っているのもあり、
       パッと見た時、ぎゃぉぇ~!と叫びそうな位で、本当に怖かった!!

       胸部が黒枠の向こうにあり、顔にだけライトが当っているのですよ、
       それも下からね、ご想像下さい!!
       ずっと昔に訪問した時に比べ、大変整備された今回の再訪だったですが、
       誰が設置方法を考えたのか、誠に良いご趣味で、はぁ・・。




       こちらは副葬品の、なんとも薄い金の花びらかな、の王冠
       お金持ちにしても、大変な愛情のこもった美しい高価な物ですねぇ!
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       金のイヤリング。  素敵ぃ!
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       博物館の床に移された、床モザイク。  
       渋い色合いの幾何学模様、素敵でしょう?!
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       ギリシャの影響が大きく感じられる壷絵
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       そして、取っ手のついた大皿。 シックですねぇ。
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       これは当博物館蔵ではなく、フィレンツェの考古学博物館所蔵ですが、
       発掘はヴォルテッラ、とあるので、ついでにご覧を。
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       多分、ワイン入れでしょうね。
       それにしても、形と文様の見事さ! 
       こんなのを実用していたのですね、エトルリアの民は!




       そして当博物館の一番有名な所蔵品と言っても良いか、
       「夕暮れの影・オンブラ・デッラ・セーラ」と名づけられた男性像。
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       フィレンツェの骨董市で1737年頃まで売られていたのを、
       紛れも無くヴォルテッラからの出土と、当博物館創設の
       グワルナッチ氏が1750年に買い取ったものだそう。

       ブロンズ製、高さは57cm、頭の高さは3,2cm、直径2cm、
       首の長さ1,5cm、肩から性器まで22cm、そこから足まで30,3cm、
       重さは1322グラム。




       紀元前3世紀始めの作と見られるそうですが、
       こうして見ると、髪もきちんとセットされているのが分かります。
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       この小像に「夕暮れの影」とロマンティックな名を与えたのは、
       ガブリエーレ・ダヌンツィオ・Gabriele D'Annunzio(1863-1938)
       詩人、作家、政治家、愛国者と幾つもの顔を持つ人。


       shinkaiはイタリアに来て後、彼の写真を見て
       即いかれたミーハーですが、ははは、
       彼はまたヴォルテッラを舞台にした映画「熊座の淡き星影」の
       原作者でもあり、他に良く知られているのは、やはり映画「イノセンス」で、
       どちらも監督はルキーノ・ヴィスコンティ・Luchino Visconti.
      

       彼の最後の住居、ヴィットリアーレについては
       

       フィレンツェのヴィッラ
       

       愛人だったエレオノーラ・ドゥーゼの博物館展示にも彼
       




       昔初めて博物館でこの小像を見た時のshinkaiの第一印象は、
       わっ、ジャコメッティだ!! と思ったのでしたが、

       アルベルト・ジャコメッティ・Alberto Giacometti(1901-1966)は
       スイスの彫刻家、画家で、このヴォルテッラの小像から
       強いインスピレーションを受けたであろう事が
       彼の作品をご覧頂くとすぐ分かります、これです。
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       下の写真は、1955年のアンリ・カルティエ・ブレッソンが撮った物と。




       という様子で、上の細長い小像はやはりちょっと特殊で、
       小さなブロンズ製の人物像や動物達の作品がたくさんあります。
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       ギリシャの影響を強く感じる頭部像
       美しいですねぇ!
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       ガラス製品。 
       練りこみガラスと言うのか、大変美しいもの!
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       小さな実用品の美しさ、楽しさ!
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       こちらは骨壷
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       ヴェネトの本土側、ちょうどヴェネツィアはトルチェッロ島の
       北に当りますが、アルティーノ・Altinoという村に
       国立の考古学博物館があり、ずっと昔に偶然寄って見た事があります。

       いまだヴェネツィアの歴史も、アクイレイアの遺跡の凄さも良く知らずでしたが、
       それでもその収蔵品の内容の凄さに驚いた記憶があります。
       少しだけ記述しておりますが、
       収蔵品のひとつに美しい青いガラスの骨壷がありました。
       こちらでどうぞ。
               
       アルティーノもその後の発掘が進んでいる様子ですので、
       来年にでも再訪問してみたいと思っています。




       これは灯火器と。
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       闘士の兜と頬宛。 兜には細かい浮き彫り。
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       日常用品の鍋釜類
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       これらは家具に取り付ける物でしょうか?
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       なにせ夥しい数の展示で、ここでは2枚のみに。




       美しいオレンジ色の指輪、メノウでしょうか?
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       金のブローチと、下は何でしょう?
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       真ん中はイヤリングで、右はピンの付いたブローチかな?
       緑色は何でしょう、ガラスかな?
       金の細工も細やかで、技術の高さが偲ばれます。
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       ざっとのご案内になりましたが、それでもたくさんの品々
       お疲れでしたしょう、 お付き合い有難うございました!!

       ヴォルテッラのご案内
       最後は近くの広場からの谷の眺めをどうぞ!
       城壁に囲まれているのも見えます。
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       トスカーナのフィレンツェ、またはピサ方面に行かれた時は、
       是非ヴォルテッラまで足を延ばして下さいね
       周囲の風景も他とは違い、荒々しく雄大で
       エトルスクの息吹が今も残る、素晴らしい博物館も是非どうぞ!!
       


       
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by italiashiho2 | 2016-10-11 00:03 | ・トスカーナ Toscana | Comments(2)
2016年 07月 14日

・・・ イ・ヴィヴァリーニ展 ・ ヴェネツィア絵画の煌きと移り ・・・

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       先週、イ・ヴィヴァリーニ展・I Vivarini に出かけて来ましたので、
       今回は「黄金背景の祭壇画」の煌きをたっぷりご覧頂きますね。

       地元のコネリアーノで2月の下旬から開催されていたのを、
       も少し暖かくなってからね、と引き伸ばしていたのが、
       友人それぞれに予定があり、6月5日終了迄に出かけられず・・。

       残念と思っていたのが、会期延長で7月17日まで!との
       市の通知が郵便受けに入っており!
       それで漸くに友人のジュリアーナと出かけたという次第です。

       ヴィヴァリーニの名前も知らずの!(無知ムチshinkai)画家でしたが、
       ヴェネツィア、そしてヴェネト近辺の町で活躍した15世紀の
       アントーニオ・Antonio 1420頃-1476~1484
       バルトロメーオ・Bartolomeo 1432頃-1491以降
       アルヴィーゼ・Alvise   1446頃-1503~1505 の3名。

       アントーニオとバルトロメーオは兄弟で、
       アルヴィーゼはアントーニオの息子という関係で、

       これにアントーニオの姉(妹)と結婚していた、つまり義理の兄弟である
       ジョヴァンニ・ダレマーニャ・Giovanni d'Alemagna(1411頃-1450)も、
       初期には一緒に仕事をしていた、という一家で、

       上記しましたように、ヴェネツィアはもとよりヴェネトの各地
       とりわけ教会の祭壇画などを多く手がけていた様で、
       当時としてはかなり売れっ子だったのではないかと。

       今回はそんな彼らの作品を集めた展覧会で、
       兄弟、親子といえどもかなり作風も違い、時代がちょうど
       ゴシックからルネッサンスに移り行く15世紀後半とあって、
       その影響も作風に見受けられる興味深いものでしたので、

       カタログの写真と、サイトから集めた物でご覧くださいね。
       カタログからの写真はshinkaiのサイト名を入れましたが、
       その他はサイトからのものです。

       トップの写真はカタログの表紙になっていた物で、
       バルトロメーオ作の祭壇画の一部、大天使ミケーレの顔
       後ほど全体もご覧頂きますが、かなりメリハリの効いた表現。


       私はかなり偏った好みを持ち、有名画家にも好き嫌いがありまして、
       余り美術評論的褒め言葉ではなくあれこれ書きますが、
       かといってその評価を認めていないわけではありません。
       ただこのように見た、思った、というのを単純に書きますので、
       どうぞそれをご了解下さり、読んで頂ける様にお願いいたします。



       兄弟はヴェネツィアはムーラノ島の生まれで、
       父親ミケーレはガラス職人ですが、パドヴァ生まれと。
       アントーニオの作品が記録に最初に残るのは1441年とありますが、
    
       今回展覧会場の第1作はこちら、クロアチアのパレンツォ(Poreč)
       の博物館からの祭壇画と細部。1440年。
       諸聖人に囲まれた聖母子と、昇天するキリスト。
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       見ての正直な感想は、女性像は美しいけれど、男性像がちょっと
       類型的というのか、イマイチしっくりしてないなぁ、と・・。
       まぁ、この辺りがゴシック絵画でもあるのですが。
       



       こちらはアントーニオの師匠と言うか、その一派であると見なされる
       アンドレア・ダ・ムラーノ・Andrea da Murano(生没年不詳)の、
       現在ヴェネツィアのアッカデミア美術館収蔵の物。

       ムラーノのサン・ピエトロ・マルティレ教会にあった祭壇画と見られ、    
       1475年ごろの作品と。
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       かなり強い作風で、北方絵画の影響も見られる様な。




       そして義理の兄弟でもあったジョヴァンニ・ダレマーニャの作品で、
       こちらもヴェネツィアのアッカデミアに収蔵の祭壇画。
       彼は元々ドイツ人で、装飾的、北方絵画の影響が強いと。
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       もう一枚、アントーニオが強い影響を受けたと言われる
       ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ・Gentile da Fabriano(1370-1427)の
       「三博士の礼拝」を。
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       そしてこちらが、展覧会には来ておりませんでしたが、
       アントーニオの「三博士の礼拝」現在ベルリンにあるそう。
       煌びやかな表情が良く似ておりますね。
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       アントーニオとジョヴァンニ・ダレマーニャの合作
       「玉座の聖母子」1443年頃 現在パドヴァのディオチェザーノ博物館蔵。
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       サイトからの全体像の写真は濃く写っておりますが、
       実際は部分像よりももっと明るく美しい物でした。
       とりわけ聖母子共に、肌の色が涼しく、大変細やかな表現で、
       衣装の赤と金の部分が素晴らしかった。
       表情も最初にご覧頂いた聖母と比べると、随分と違いますよね?!




       アントーニオの義理の兄弟ジョヴァンニは、アントーニオよりも
       年上だったと思いますが、
       初期の作品は合作が多く、そしてお互いの良さが上手く融合していたと
       思われます。

       2人で一緒に参加して仕事をしたのに、パドヴァのエレミターニ教会・Eremitani
       のオベターリ礼拝堂・Cappella Ovetariのフレスコ画があり、
       1448年と1457年の制作と言いますが、

       この礼拝堂の仕事には、彼らよりも年の若いアンドレア・マンテーニャ
       Andrea Mantegna(1431-1506)未だ未成年の年頃だったのも、
       働いていた様子。

       このオヴェターリ礼拝堂のこちら部分は1944年3月に爆撃を受け、
       いくらかの破片が残る位で、ここに見えるのは
       白黒写真が残っていたのに着色した物だそう。
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       蛇足ながら、エレミターニ教会の北隣には




       同じオヴェターリ礼拝堂の、後半に描かれたマンテーニャのみの、
       有名な遠近法を活用した「聖クリストフォロの殉教と遺体の運搬」は
       爆撃以前に剥がされ、別の場所に保存されていたので、
       無事残ったという次第。
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       今回ヴィヴァリーニ兄弟の事を知るのにあれこれ読んでいて、
       パドヴァのサンタントーニオ聖堂の前のドナテッロ作の
       ガッタメラータ将軍騎馬像の事も、
       フィレンツェ在のドナテッロが作って送ったと単純に考えていたのが、

       そうでなく、ドナテッロがフィレンツェを離れパドヴァに10年ほど
       (1443-1453)住んで仕事をしていた事も含め、
       やはり当時のフィレンツェと比べると田舎であったパドヴァに、
       ルネッサンスの空気を運んで来たのを知りました。

       そういったパドヴァで仕事をし、マンテーニャを始め、
       その師であり養父であったスクアルチョーネ・Squarcioneが、
       いわば絵画で、パドヴァのルネッサンスの音頭取りをした
       ここから北イタリアにもルネッサンスが広がっていった
       その時代の空気を吸い大いに刺激を受け、勉強したのであろうと、
       想像して、こちらもいささか興奮しました!
       
       パドヴァのご案内のあれこれは、こちらから



       アントーニオとの合作でよい成果を生み、パドヴァでも一緒に
       働いていた義兄弟のジョヴァンニ・ダレマーニャが1450年に
       パドヴァで死亡しており、年代から考えて仕事中の事故死だったのかも。
       彼の死はアントーニオにとって、大変な痛手であったでしょうが、

       アントーニオの末の弟、何人兄弟だったのか、
       12歳ほど年下のバルトロメーオが成長して来ます。
       パドヴァを訪問マンテーニャを知り、大きな刺激を受けたに違いなく、


       これはマンテーニャの描いた「聖セバスティアーノ」ですが、
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       こちらはバルトロメーオの祭壇画 1491年
       現在ベルガモのアッカデーミア・カッラーラ収蔵で、
       右側のサン・セバスティアーノの部分をどうぞ。
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       良く似てはおりますが、少し違うとも・・。




       バルトロメーオのもう1つの祭壇画 1488年
       こちらもベルガモのアッカデーミア収蔵。
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       右端の大天使ミケーレの部分を今日の最初に見て頂きましたが、
       真ん中の聖母子が美しいでしょう?!




       そして左端のサン・ピエトロ
       最初にご覧頂いたアントーニオ作1440年の祭壇画の聖人像に
       比べると、ぐんと現実感が溢れる聖人像になってきていて、
       半世紀ほどの違いの差が良く分かります。
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       バルトロメーオ 玉座の聖母子 1465年
       ナポリのカポディモンティ美術館蔵
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       実際はこの様に派手でなく、と言っても修復による物かも知れずですが、
       大変に美しい作品で、とりわけ聖母の衣装がなんとも綺麗!
       
       興味深いのは、バルトロメーオのご覧頂いた祭壇画1488年のに
       比べると、脇の聖人像の顔がまだ不安定な事! 
       いや、こういう見方は邪道なのかもしれませんが、
       年数を描いていて良くなる、というのは安心しますです、ははは。
       



       今回見た中で一番気に入った作品、本当に美しいと思ったのはこれ
       バルトロメーオの「聖母子」1465-1470
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       実際はこんなに背景の赤、金箔を貼る下塗りの赤が見えているのが、
       これほど強く見えませんで、顔の赤色ももっと薄く、
       肌の白さと衣装の黒に近い青、そして赤色とインパクトも強く、
       美しさに暫し見とれました!

       ただ気になったのは、アントーニオもそうでしたが、
       子供の手と足の描き方で、前を向く足が異様に短く、
       足首のプックリさの描き方が変に凝っている様子で・・。




       サイトから見つけた、バルトロメーオの別の「聖母子」を。
       これはワシントンにあるようですが、
       これも美しいでしょう?!
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       そしてボストンにあるという「マグダラのマリーア」
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       マンテーニャに大いに影響を受けたというものの、
       辿った道は違っていた、と言うのが良く分かる気がしますね。




       そしてアントーニオの息子アルヴィーゼの登場で、
       「聖ヒエロニムス」 1476-1477 ベルガモのアッカデーミア蔵
       人物も背景も、暗い茶色の如何にもの古典調で、空の色のぼかしも!
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       アルヴィーゼ  左「聖母子」1480年代 ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・
       イン・ブラーゴラ教会 
       右「十字架を運ぶキリスト」1475年頃 ヴェネツィア、サンティ・ジョヴァンニ・
       エ・パオロ聖堂 画布にテンペラ
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       当時既に油絵が画布に描かれるようになっていましたが、
       彼らは板にテンペラ画、がアルヴィーゼは画布にテンペラも試み、

       キリストの顔なども如何にも油絵的手法が試みられ、
       劇的効果を求めてか、かなり影が濃くなっている印象を受けます。




       かと思うと、またこんな涼やかというか、クールな表現もあり、
       「パドヴァのサンタントーニオ」1480-1481
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       これは彼の父親のアントーニオと、叔父さんのバルトローメオとの
       合作の、1458年の祭壇画ですが、
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       上のアルヴィーゼの作品は、この中の男性諸聖人の薄い感じに
       良く似たところがあると思ったのでした。




       アルヴィーゼ 「聖母子と諸聖人たち」1500年
       この表現などは既にルネッサンスの空気で、油絵風というか・・。
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       最後は、アルヴィーゼの 「キリスト昇天」1497-1498
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       これを最後の部屋で見た時、ほぉ~と見とれ、
       ティツィアーノやラファエッロの作品を連想しました。
       同じようなのがあったっけ、と探しましたが見つからず、
       きっと如何にも晴れやかなルネッサンスの空気を感じ
       後世の画家の作品を思ったのでしょう。

       15世紀の僅か60~70年代の絵画表現の変化が
       こんな風に一家の3人に現れているのはとても興味深く
       当時の時代の変化の激しさも想像した事でした。




     *****

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       アップしています。   
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by italiashiho2 | 2016-07-14 00:21 | ・映画絵画文学 Film Arte Le | Comments(7)
2016年 06月 29日

   ・・・ ティベリウス帝の別荘跡と博物館 ・ スペルロンガ ・・・

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       先回のスペルロンガの町のご案内に引き続き、
       今日のご案内は町の東、浜続きにある
       第2代ローマ皇帝ティベリウスの別荘跡、洞窟と
       洞窟内から発掘された大彫像などを展示している博物館のご案内を。

       上の写真は、海辺に面している別荘跡の写真をサイトから拝借し、
       右下に見える建物が博物館。



       私はローマ史に弱く、ギリシャ神話にもまるで疎いので、
       最初に博物館内を見学した時、ギリシャの大古典である
       ホメロスのオドュッセイに関連した大彫像群を見ていささか困惑。
       ガイドさんの説明も殆ど聞かなかった事を白状いたしますが、へへ、

       一人で館内を歩きつつ見ているうちに、
       船が難破しかけ、なにやら海獣たちに喰いつかれる人間達
       その迫真の彫像を見て、これは凄い!!と感じ、

       今回これらが何を現しているのかをあれこれ読み、写真も集め、
       ああ、そうなのか!と納得しましたので、

       shinkai同様、こういうのがいささか苦手、という方にも分かりやすく、
       私めがそうか!と納得した方法でご説明いたしますので、
       お付き合い頂ける様、お願いいたしますです、はい。




       博物館前、 国立考古学博物館 ティベーリオ(ティベリウス)の洞窟
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       入り口入ってすぐの左側、ガラス張りの天井から射し込む光の下、
       シッラ・Scilla(セイレーン、スキュラ)・海の怪獣たちに襲われる
       オドュッセイ達の船
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       かなり破損し失われている部分が多く、
       残っている像から元の姿を想像するのは困難なのですが、
       援けになったのは、横にあったこの写真
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       ですがセイレーン(スキュラ)という怪物がオドュッセイの船を
       襲っているらしいのは分かりますが、
       写真上に見える女性と、男達を襲う動物との関連が
       良く分かりません。




       で、見つけたのがこれ。
       そうなんです、このスキュラの下半身が6つもの海獣(犬)に
       分かれ、男達に喰らいついている凄まじい場面!
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       こうして見ると、オドュッセイの第12話に詠われた、
       オドュッセイは船にしがみつき何とか無事にやり過ごせそうなものの、
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       頭はスキュラの手に捕らえられ、危ない状態で!!
       ははは、持って行かれず助かって良かった!
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       ライオンにも似たこの凄まじい犬達に、むさぼり喰われる男達!!
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       ホメロスのオドュッセイ物語は、同じくイーリアスと並んでの
       ギリシャの大古典といわれ、shinkaiも名前のみは知っておりますが、
       荒筋を読んだ程度の無知でして・・!

       このオドュッセイを詠った英雄叙事詩の大筋は、
       トロイア戦争での勝利から故郷に戻ろうとしつつ
       ギリシャ神話の神ポセイドンの怒りを買い、10年に及ぶ漂泊の身となり
       その間様々な冒険というか、危険な目に遭いつつ遂に家に戻ると、
       亭主が既に死亡したものと思い、妻に言い寄る男達を発見、
       それらを殺害、復讐する、という物語で、なかなかに凄まじい物!
       
       で、このオドュッセイの逸話の中から、
       大きな彫像群としては2話、上のスキュラが船を襲う場面と、


       第9話の、一つ目の大怪物ポリフェーモ・Polifemo(ポリュペーモス)
       の目をオドュッセイと仲間達が突き潰すというもので、


       それがこちら。 博物館の一番奥にあったのですが、
       建物の大きさと比較して、その大きさをご想像くださいね!
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       こちらも、全体の想像図を見つけましたが
       こんな様子で、これだと分かりやすいでしょう?!
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       一つ目の大怪物群像とはいえ、こういう肉体美の像でして・・!!
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       発掘された実物の方も展示されていて、
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       まさに考古学者たちの細心にして忍耐の賜物である
       復元像に、驚き感嘆するばかり!!




       これは一つ目の目を狙うオドュッセイの顔
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       所でこれらの彫像群は、1957年、西のテッラチーナから
       東のガエータに至る道を建設中に偶然発掘された物で、

       建設技師の方が考古学に大変詳しい方で、発見されすぐに
       大変な物らしいと分かり、私費で工事人たちに発掘させたといい、

       当初から、あれに良く似ている、とされた彫像がこちら
       1506年にローマのトラヤヌス浴場付近で発掘されたもので、
       見学に来たミケランジェロに大きな感銘を与えと言われる、
       現在ヴァティカン美術館に所蔵されている、ラオコーン像
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       トロイアの神官ラオコーンが、ポセイドンが送った海蛇の怪物
       2匹に、息子もろとも喰われたというもの。

       確かに後に確かめられたのは、このラオコーンの彫像の作者名3人
       と同じ、Agesandro、Atanodoro、 Polidoroの名が見つかったとの事。

       そして発掘された像の幾つかは、ギリシャのヘレニズム期・
       紀元前180年のオリジナルの物である事も確かめられたと。




       これらの大彫像群を含めた素晴らしい大理石像が
       どのようにティベリウス帝の別荘に隣接の洞窟内にあったかですが、

       博物館にあったこの図をどうぞ
       洞窟内の円形プールの真ん中に、最初にご覧頂いたセイレーンに
       襲われるオドュッセイたちの船の像、B、
       洞窟の奥、右の小洞穴に一つ目のポリュペーモス像群が、C、
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       現在は欠けている円形プールの突き出した部分に
       A アキレスを救い出すオドュッセイ
       D パラス神殿の強奪
       と洞窟入り口上に、E 鷲に拉致されたガニメーデ像
       という具合に配置されていた様子。
    



       こちらが博物館にあった、
       鷲に拉致されたガニメーデ像と、顔の部分
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       と、洞窟上部にあるコピー像
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       なんとも凄い趣向のガニメーデ像を、ヴェネツィアの館で
       見たことがあります。

       なぜガニメーデが登場するのかは
       オリンポスの神々へのお給仕の為に鷲に拉致されたというので、
       成る程、夏の食卓、横臥宴会場のあるこの洞窟に相応しいという
       皇帝の思し召しだった訳でしょうね。
       




       博物館内には発掘品の幾つか、壷や、彫像、モザイクも
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       そして外に出て、ヴィッラ発掘場所に向いますが、
       
       庭に見えた、これは浴槽でしょうか?
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       サボテンにたくさんの実がつき、熟れていて・・!
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       草むらに咲く花
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       最初に見て頂いた上からの眺望写真に見える、
       博物館と遺跡との間の木々は刈り取られ、見晴らしが良くなっていて、
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       こちらが全景。 海のすぐ傍にある大きな別荘で、
       一番手前は兵舎や馬小屋だったそう。
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       その向こうに、広い中庭を取り囲む形で住居や召使達の住まい
       台所、フォルノ、パン焼き釜部分などが広がります。




       壁の造りがとても厚く、見事なサイコロ型の石の斜め積み
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       そして床はレンガの杉綾模様
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       山に沿った東側に洞窟が見え、屋根の掛けられた部分には
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       こんな風に、フレスコ画装飾された部屋がある様子ですが、
       ここは見ておりません。
       きっとこの奥まった部分に、皇帝の居室、寝室があったものと。
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       これはヴィッラ跡の一番の南西角にあったもので、
       水洗トイレ跡なんですと!
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       どう使ったのか良く分からず隣にいたエレオノーラに訊ねると、
       ローマのオスティアにも有った同じ形と言い、
       見ていないshinkaiが再度訊ねるのにガイドさんが気がつき、ははは、
       詳しく説明してくれたのですが、

       この周囲に水が流れていて、今は無くなっているものの、
       石とか木製の突き出した椅子式おまるがあり、
       それに腰掛て用を足し、拭き取るには、スプーン状の物でぬぐったのだと!
       
       もうちょっと詳細にお尻にお知りになりたい方は、こちらを。
       ガイドさんの話では、水洗とはいえ、やはりかなり匂ったと!
       ふむ、さもありなん!!


       この別荘は元々ティベリウスの母方の祖父、つまり初代ローマ皇帝
       アウグストゥスの妻にもなったリディア(リウィア)の父
       が持っていた物と見られ、
       紀元後1世紀の始めに拡張し、自然の洞窟にも手を加えたものと。




       さて洞窟の正面からですが、上部にガニメーデの像が見え、
       手前に広がるのは生簀、魚の養殖をしていたプール!
       でその中、洞窟の正面に四角くもう1つプールが見えますね。
       その真ん中に草の生えた四角い部分が見えるのは、夏用の食堂!
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       図をどうぞ
       白く点々の付いた道が見学用に歩ける道で、上に遺跡群があり、
       中庭を囲み住居部が広がる様子、北に離れて兵舎、厩舎があり、

       洞窟の中に丸いプールがあり、これは直径12mで、
       真ん中に島が見えるのは、ここにスキュラと船の像があった場所で、
       手前に方形プール、その中心部色の濃い部分に夏用食堂
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       魚の養殖をしていた外側の広い四角いプールは海水ですが、
       淡水魚も山からの水を引いて養殖していたとの事ですので、
       円形とその手前の小さい方形プールは淡水か、もしくは
       海水とが混じるようにされていたのかも、ですね。

       洞窟の奥に、左右に奥まる小洞窟があり
       右は奥にポリュペーモス像群がおかれていた部分で、
       この手前には小さな滝があり、水の遊びが出来た様子で、
       左には横臥食堂があったそう。




       外側の大きなプールには、今も悠々と大きな魚が泳ぎ
       狭い道を列を作って歩く我らは、
       うっかり落ちると魚に食べられそう、と笑う位の大きさ! ははは。
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       洞窟内はご覧のようにかなり広く、手前に円形プールがあり、
       奥に見える小洞窟は、手前に小さな滝があったり噴水があったり、
       この奥に一つ目の怪人の目を潰すオドュッセイ達の群像があった場所。
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       これは滝から流れ出す水を、円形プールに導く溝
       で、多分円形プールでは淡水魚も飼っていた、と想像する水の流れ。
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       洞窟内から見渡す現在のスペルロンガの町
       夏の暑い日、海風の吹き込むこの涼しい洞窟内から海を眺め、
       あの正面に見える夏用の食卓で、美女をはべらせ、
       養殖している新鮮な魚を食べ、音楽を聞き・・!!
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       こちらは左にある小洞窟の方で、奥に横臥食堂があったと言いますが、
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       この一部に最近修復が済んだという、皇帝の寝室もあったそうで、
       覗きこむと、床に黒い線のモザイク跡。
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       壁脇にある穴、これは何かとガイドさんに訊ねましたら、
       花を生けていたのだそう! なんと優雅な!!
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       いやぁ、紀元1世紀に生き、栄華を尽くしたローマ皇帝の
       夏の別荘なのでしたぁ。




       洞窟のすぐ傍まで迫る海、見える石積みは防波堤。
       位置から見て、かっては船の停泊も出来たのだろうと。
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       近くの砂浜に出来た波の紋
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       スペルロンガの町を望み
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       夏の夕暮れにはこんな風に!! 
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       そして、頂く海の幸
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       う~ん、ローマ皇帝の権力栄華には及ばずとも、
       我らもきっと彼と同じ位の幸せは味わえているのですよね
       そう思われません、皆さん?! ははは。
      


     *****

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by italiashiho2 | 2016-06-29 00:05 | ・ローマ・ラツィオ Roma Lazio | Comments(2)
2016年 03月 26日

・・・ ルチャーノ・パヴァロッティの家博物館訪問 ・ モデナ ・・・

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       先週水曜にモデナ・Modenaをグループで、市内の聖堂、エステンセ美術館、
       そして郊外にあるルチャーノ・パヴァロッティの家博物館、
       モデナ名物のバルサミコ酢醸造元、等を訪問して来ました。

       当日は生憎と小雨が時にぱらつく日でしたが、
       天気予報の終日雨よりはまし!
       たっぷりぎっしりの日程をこなして楽しんで来ましたが、
    
       今日はまず、イタリアが誇る世紀のテノール歌手
       ルチャーノ・パヴァロッティ・Luciano Pavarotti(1935-2007)
       の家博物館の様子をご覧くださいね。

       shinkaiめはまだ日本にいる頃から彼の歌声の大ファンでして、
       あの明るく豊かな声量の歌声を聴いていると
       まさにイタリアの煌く青空が私の中にいっぱいに広がる様な・・。
       そんな印象で、憧れと共に惚れ惚れと聞き惚れていたのでした。

       なので今回、グループ旅行で嬉しく行く事ができ、
       皆さんにもモデナ訪問の最初にご案内、という、ははは、
       様子です。 彼の歌声も最後に聞いて頂きますね。
       
     

       家の前、明るい彩の家、門扉が目に付き
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       一番左に見えるこれ、これは彼が歌い終わってのいつものご挨拶姿
       手に大きなハンカチを持ち、両手をいっぱいに広げる姿。
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       この家博物館はどこにあるか、
       モデナ市の郊外、Stradello Nava 6 に。
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       蛇足ながら、パヴァロッティ博物館のすぐ北に、高速A1を挟んで
       見えるB&B Contrada という民宿
       ここに2年前の秋、トスカーナに向う前に1泊しており、
       とてもお安く、猫や犬が居たのを良く覚えている、懐かしいB&Bが出て!




       さて入り口の門扉から見る家、左手の黄色い部分はブックショップで、
       母屋は右手のサーモン・カラーの部分
       広い庭の木々に花が咲き始めておりました。
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       母屋の入り口
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       ガイドさんに連れられて入り口を入ると、右手奥にピアノが見え
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       話を聞くと、彼は自分の幸運だった人生を振り返り、
       パン屋の息子に生まれ、特別の財産があったわけでもない彼が、
       その折々に人々から受けた支援で今があると考えていて、
       この家にやって来る歌手志望者には、
       このピアノで無料レッスンを与えていたそう。

       左に切れて、彼の着ていたモーニングが見えますが、
       さすが、大きい!!




       ピアノの右手の壁には、大きな書棚
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       この家は古い農家が売りに出されたのを買取リ、取り壊し、
       彼の長年のアイディアをすべて込めて
       古い田舎家風に新築された物なのだそう。

       80年代に買取リ、設計が始まり、実際に工事に掛かったのは
       90年代。 彼はすべてを自分の思うようにしたい、が
       しょっちゅう海外にも公演で出かけるので、しばしば工事中断も。
       
       実際に家が完成し、ここに住んだのは約3年間!
       で、このお家で亡くなったと。 




       入り口側の壁はこんな感じで、
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       ここにはプッチーニの手紙のコレクションが。
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       そうですよね、ジャコモ・プッチーニのオペラ作品、
       トスカ、トゥーランドット、ラ・ボエーム、蝶々さん、などなど、
       パヴァロッティの当たり役がたくさんありました!

       プッチーニの家博物館のご案内
       



       家の中の家具類などは、すべて使っていたものがそのままにされており、
       それに博物館としての資料を加えている、という事で、

       この陳列ケースには、左上にメモ帳、その右下に折れ釘
       舞台で手に持っていたハンカチ類(右上光って見え難く・・!)
       蝶ネクタイなど。
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       折れ釘、というのは最初の舞台だったか、
       舞台で見つけた折れ釘をポケットに入れていたのが上手く歌えたので、
       それ以来彼のおまじないのようになったのだそう。




       左上にあったメモ帳、かなりのメモ魔だったようで、
       左側のには、各公演日に *TOSCA OK one などと。
       oneは、benoneの略で、bene良い、の上級形、
       つまり公演の出来具合を記していて、
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       右側の開かれているページには、あれこれ料理のレシピ!

       ガイドさんによると、パン屋の隣に大統領の電話番号があったりで、
       彼にとっては皆同じだったんだろうと、ははは。




       入り口扉の正面にはエレベーターが備えられていて
       そりゃまぁ、あの体格で階段を上がるのは大変でしたでしょうしね、はは、

       そのガラスに書かれていたのを見て、あれ?!
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       Buongirono a questo giorno che si sveglia oggi con me,
       buongiorno al latte ed al caffè,
       buongirono a chi non c'è...
       今朝一緒に目覚める君にお早う、
       カフェラッテにお早う、
       ここに居ない君にお早う・・

       この歌詞はしばらく前にTVで流れたヌテッラ・半液体チョコレートの
       懐かしく彼の声を聞きましたっけ!  多分彼の最後の曲なのかも・・。
    
   


      1階の反対側の部屋には、彼の写真とシャツがあり、 
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       部屋にかかっている油絵は、皆彼が描いたものだそうで、
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       部屋の壁の色も明るいでしょう?!
       明るい色が好みだったそうで、絵もその通り明るい色調。
       そして、やはり美味しい物が大好きだったと!




       この部屋の半分の天井はこんな風に古い格子天井が使われていて、
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       こじんまりとした居間風で、クッションでいっぱいのソファー
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       カード遊びが大好きで、公演旅行にもカード仲間が一緒だったと!
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       彼のお父さんは、やはり美声のアマチュアで歌っていたそうで、
       まさにステージ・パパとして、世界中の公演に付いてまわっていたと、
       これはイタリアに来てからの彼のインターヴューで聞きました。

     


       間の細い廊下、脇の棚には食器類、を抜けると
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       広い黄色い台所!
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       流し台と6口のガス台の間が遠いのが、ちょっと気になりましたが、
       はは、すぐテラスに続くドアがあり、
       夏など気持ちの良い昼、夕食だったでしょうね!




       さて我らは、明るいサーモン・ピンク色の階段を上り
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       2階と3階の中央は吹き抜けになっており
       天井が開き明るい広い空間に。
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       左に行くと、クローゼットがあり
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       その奥は、キングサイズのベッドがある寝室!
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       部屋にかかる自作の油絵、2度目の結婚で生まれたチビちゃんと
       彼の愛情が溢れていますね。
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       彼は2度結婚しており、shinkaiがイタリアに住むようになって後に、
       TVニュースで彼と秘書のニコレッタとのゴシップが流れるようになり、
       遂に前の奥さんと離婚、若いニコレッタと結婚、女の子誕生、
       という様ないきさつがありました。

       日本で単純に彼の歌声を聞いて惚れ惚れしていたのと違い、
       イタリアでのジャーナリストのインタヴューの肌合いの違いにも
       驚いた物でしたが、
       例えばインタヴューで、貴方はお金に細かいそうですが、本当ですか?
       なんぞとは、日本では大物歌手には訊ねないですよね?
       そんな違いもあったのですが、

       ニコレッタと一緒になってから始めた公演、
       パヴァロッティとフレンズ、という音楽ジャンルを問わずの、
       若いミュージシャン達との公演中継も最初の何回かはTVで見たものの、
       やはりちょっと違うな、という感じとなり、

       ニコレッタが冷たい、と言ったという様なゴシップも聞くと、
       次第に単にCDを聴くのみとなり、そして訃報、という様子でした。




       寝室の隣にバス・ルームがあったのですが、
       こちらは普通サイズのバスやトイレで!  皆がちょっと驚き、
       ただし体重計は大型でしたぁ!
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       寝室の反対側には、こんな風にすっきりの白い部屋もあり
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       屋根裏っぽい部屋には、大型スクリーンを寝転んで見れる設えがあり、
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       暫く眺めていましたら、この懐かしい、歌い終わっての姿が出て!!
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       出合ったたくさんの人々との写真!!
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       左上はダライ・ラマ、ポール・マッカートニー、コロンボ警部、ははは、
       アナン国連総長ですよね、左下は誰かな、そしてカラヤンとミレッラ・フレーニ、
       彼女は同じモデナの、しかも家も近い子供の頃からの知り合いだったそうで、
       ボエームの舞台も一緒だった時のCDも持っていますが、
       ヨハネ・パオロ2世とも!

       家のあちこちに大きな彼の写真があり、舞台で使った衣装も
       様々展示されていましたが・・。
       



       反対側の隅には、彼の肖像画
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       上から見下ろす吹き抜け部分
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       上からエレベーターで地下1階まで降りると、
       世界各地から届いたファンレターや、写真、プレゼントの展示があり、
      
       彼は馬が好きで、ここモデナに厩舎も持っていたそうですが、
       馬との写真もたくさんあり、
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       パヴァロッティとフレンズ、の公演仲間との夥しい写真! 
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       お家の庭の隅に、子供用の遊び道具があり
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       彼の理想の家とすべく、長い年月をかけて造った家に僅か3年、
       というのを聞き、ちょっと哀しくなりました。
       現在2度目の妻(と子)は、ボローニャに住んでいるそう。
  
       享年71歳、まだまだ歌える年だったと思うと、ちょっとね。
       冥福を祈ります!!


       彼の一番有名な曲というと、やはり「トゥーランドット」の
       ネッスン・ドルマ・Nessun Dorma・誰も寝てはならぬ、でしょうか?
       こちらでどうぞ。


       shinkaiの大好きな、情緒てんめんたる、はは、カルーゾ・Carusoを。


       最後は皆さんに、イタリアの青空の広がりを!
       懐かしい、ホセ・カレーラス、プラチド・ドミンゴと一緒の楽しいのを。
       

       こうして聞き直すと、やはり本当に素晴らしい偉大なテノールだったと!!
       同時代に生き、折々に近しい感じで聞ける事が出来たのを嬉しく思います




       パヴァロッティの家博物館は
       月曜休館 毎日10時から18時までオープン、
       住所は Stradello Nava 6 Modena 
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       公式サイトはこちらに
       ニコレッタが語るパヴァロッティ、のヴィデオもあります。



     *****

     ◆ 展覧会のお知らせ ◆

       ブログリンクをさせて頂いていますフレスコさん、永見隆義さん
       陶芸の内山正義さんの2人展が
       3月31日から4月5日まで、大阪心斎橋ギャラリー永井にて開催されます
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       どうぞご高覧下さいますよう、ご案内申し上げます


     *****

       さて、この27日はパスクワ・復活祭!
       いよいよ春の盛りを迎えますね。

       皆様、ブオーナ・パスクワ!! 
       良い復活祭をお迎えくださ~い!


     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、 描き始め2枚と、 花盛りの木々 を
       アップしています。
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by italiashiho2 | 2016-03-26 00:16 | ・エミーリア・R州 Emilia | Comments(15)
2016年 02月 10日

・・・ ヴィテルボ 3 コンクラーヴェ(教皇選出)の言葉の初まり、聖堂 ・・・

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       ヴィテルボの街のご案内も今回が最後!
       中世が盛りだくさんに残っているヴィテルボの街ですが、
       その中でも大変興味深くもあり、はたまたご案内が面倒な、はは、失礼、
       歴史に残る長~い教皇選出が行われた街でもあり、
       現在も使われるコンクラーヴェ・conclaveという言葉が生まれた街。

       教科書的、無味乾燥な歴史の記述はshinkai本人が苦手ですので、
       何とか分りやすくご説明を、でもなるべく正確詳細に、をモットーに、ははは、
       取り組んでみますので、宜しくお願いいたしま~す!

       まずトップの写真はサイトから拝借の、
       上から見たサン・ロレンツォ広場の様子

       左側に鐘楼と共に見えるのが、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂で、
       右奥に長く続くのが、パラッツォ・デイ・パーピ・Palazzo dei Papi
       13世紀に教皇庁が30年ほど、ローマからこちらに移っていた本拠地。

       教皇様の事をイタリア語でパーパ・Papaと呼びますが、
       (父親を呼ぶパパ・papàの場合は終わりのaにアクセントが)
       約30年間の間に、9人の教皇がこのヴィテルボに居られましたので、
       複数形でパーピ・Papi となる訳ですね。




       まず上の写真の左下にちょっと見える、ドゥオーモの左手前の
       ヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタの家・Casa di Valentino della Pagnotta
       これは13世紀建設の、典型的な中世の邸宅なのだそう。
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       名を残すヴァレンティーノ・デッラ・パニョッタという人物は、
       1458年に町の執政官に選ばれたと記録に残る、農業の財産家だったのだそう。

       大きなアーチを持つ美しくエレガントな家ですが、何度か改装されたり、
       第2次大戦の爆撃の後も、元々の姿に再建されたものなんだそう。




       さて、サン・ロレンツォ聖堂の美しい鐘楼
       これは12世紀のオリジナルで、2つ並んだ窓と、白と青灰色の縞模様。
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       聖堂は、この場所に7世紀に遡る小さな教会があった後に建設された物で、
       現在、聖堂の内部は建設時12世紀のロマネスク様式なのですが、 
       正面はご覧のように16世紀に改装された姿
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       聖堂内部は、天井も側廊アーチも床も全部見えるのをサイトから拝借し、
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       柱頭飾りもなかなか興味深いのがあり
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       天井の梁装飾が興味深く、なんと書いてあるのか読めると良いのですが・・。
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       床模様がコズマ式! 綺麗に残っているでしょう? 好きなのです、これが。
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       右下の平面図をどうぞ、と言いますのも、
       16世紀に教会の正面を改装したのと同じに、内部左右の側廊の壁を開け、
       10の礼拝堂を造ったのですね。 これで壁の以前のフレスコ画が失われ、
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       17世紀には内陣を深くする改装が行われ、図に見える突出した部分
       ですが、この聖堂も第2次大戦の爆撃でやられた部分の修復時に、
       出来るだけ元のロマネスクの形に復元され、

       現在は聖堂内からは突出した内陣部も見えませんが、
       隣のパラッツォ・デイ・パーピ内部の見学と共に、聖堂横の博物館受付に
       申し出ると見学できるとの事。




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       これは聖堂内に残っていた数少ない壁画の一つ




       そしてパイプ・オルガン。 ただし20世紀後半の物と。
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       16世紀に教会の正面をルネッサンス様式に変えた人物の名が、
       正面に彫り込まれており、
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       IO FRANC CAR DE GAMBARA、つまり、Io Francesco Cardinale Gambra
       我フランチェスコ枢機卿ガンバラ でして、

       バニャイアのヴィッラ・ランテを造ったと同じ人物、あのヴィッラの
       東屋にも同じ彫りが残されていましたが、

       こういう場所には、教会の名とか神に捧げる献辞とかがあるものと思い込んで
       おりましたので、これを知った時には少し驚き! この顕示欲!!
       
       ガンバラ(1533-1587)は1568年から80年までヴィテルボの司教を務めており、
       教皇ピオ5世の下に、異端審問にも確固たる信念を持って働いたという、
       ちょっと怖い人物であったのも知りますと・・、
       まぁ、俗世間から離れ、ゆったり寛げるお庭も欲しくなりますわな・・。




       これは聖堂の脇壁だったと思うのですが、
       ここにも見つけたガンバラ枢機卿の紋章!
       上につばの広い枢機卿の帽子が見え、下に鷲と海老の彼の紋章です。
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       ここヴィテルボには、カンタベリーからローマに至る中世巡礼の道、
       ヴィア・フランチージナ・Via Francigenaが通っていた、
       と言う小さな標識が右に見えます。
       


       
       聖堂正面、張り出した脇壁にあった小さな薔薇窓
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       サイトから拝借の写真で、
       聖堂とパラッツォ・デイ・パーピの間の様子
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       右手前に見える階段は、パラッツォ・デイ・パーピの入り口階段で、
       奥が司教座、教皇庁の本部でもあり、住居でもあった建物類




       聖堂、そしてパラッツォ・デイ・パーピの間に広がる広場の石畳
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       広場の奥に広がるパラッツォ・デイ・パーピと、正面部
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       写真は2度の訪問で撮ったものの良い方を使っておりますので、
       陽射しの様子が違うのはご勘弁を。




       階段上部と扉、そしてテラスへの入り口部、そして扉上のライオン像
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       正面階段の下は、こんな風になっておりまして、
       奥に見えるアーチの下を通って、ここまで道が着いています。
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       階段の上にある円柱の下に見える横縞の紋章にご注目を。




       そして建物に続いてあるテラス、ロッジャ・開廊と呼ばれる部分、
       その上部のアップ。
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       アップにもしっかり見える横縞の紋章。これは街のご案内にも出てきた
       ガッティ家のもので、
 
       そうなんですね、このガッティ家の当時の当主、ラニエーロ・ガッティ・
       Raniero Gatti、街のカピターノ・デル・ポーポロ・行政官でもあった
       彼が、このパラッツォ・デイ・パーピを造り、
       教皇庁をローマからヴィテルボに迎えるために働いたのですね。

       つまり1254年に教皇即位のアレッサンドロ4世からの内意を受け、
       以前からあった司教庁を拡張したりの設備が整うと同時に
       1257年、教皇と教皇庁がこの街に移転してきた、という訳で、

       なぜヴィテルボにと言うと、当時のローマでも教皇派と
       皇帝派の軋轢があり、それに耐えられずにアレッサンドロ教皇は
       既に司教庁の大きなのがあったこの街に移転を決めた様子。
       
       それにしても教皇と教皇庁が移転する、というのは、
       当時にあってもやはり大問題、遷都に匹敵するような出来事では
       なかったかと想像するのですが・・。

       ロッジャは少し遅れて1267年、やはりラニエーロ・ガッティにより
       建設された物と。

       ガッティ家は当時のイタリアを揺るがせていた教皇派(グエルフィ)と
       皇帝派(ギベッリーニ)の対立の中で、ヴィテルボの教皇派の大物。
       穀物の取引と金融業からの莫大な富を持ち、
       「ヴィテルボの最初の銀行」と定義付けされているほどだそう。




       正式には「祝福の為のロッジャ」という、教皇様がここにお出ましになり、
       広場の庶民に祝福を与える為のロッジャですが、
       内部から見るサン・ロレンツォ広場はこんな感じ
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       現在残っているのは広場に向いた側だけで、天井屋根部分もありませんが、
       建設当時は奥の谷に面した壁、そして天井部分もあったのが、
       1325年に崩れ落ち、それ以降この姿なのだと。

       まぁ、この美しい2重になった円柱の並びと、
       三つ葉飾りのアーチだけでも、よくぞ残ってくれた、と思えますですね。




       そしてこのロッジャ内にも泉
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       左上の平面図をご覧下さいね
       階段に続いての右のロッジャ部分と、左の大きな細長い部屋
       ここは教皇がお出ましの、いわゆる応接議会室だったのが、
       現在歴史に残る長~い教皇選出、33ヶ月!!が行われた舞台とされ
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       見学できていたのですが、
       細長く大きな明るい部屋、両側に6つの窓、と言うだけで何も無い部屋
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       歴史に語られる長~い教皇選出というのが始まったのは
       1268年11月の末の事で、1271年9月までの1006日!もかかったのですね。

       前の教皇クレメンテ4世が、寝室の(書斎という説も)
       天井穹窿部が落ちて亡くなった後の事で、
       こんなにも長くかかったのは、ひとえに選出選挙の為に集まった
       19名(一人はフランス王に従いチュニジアに行っており、欠席のち死亡)の
       枢機卿たちが、いわば教皇派、皇帝派と二分し
       当時は教皇選出には枢機卿の3分の2の投票が必要だったので、
       妥結点を見出せなかった事によります。

       枢機卿達が街中に滞在し、一日に一度サン・ロレンツォ聖堂に集まり
       投票がくり返されるのみで、1年近くたっても結果が出ないのに
       怒ったのはヴィテルボ市民達。 
       もてなし費用は当時は市民が持っていましたので、ははは、勿論怒りますよね。
      
       ここにラニエーロ・ガッティが乗り出し、枢機卿達を心地よい滞在住居から
       引き離し、パラッツォ・デイ・パーピに閉じ込め
       食料の差し入れもパンと水だけ!にし、
       遂には屋根を引っ剥がし、風雨も流れ込む状態にした、と言う!

       鍵で部屋に閉じ込めたので、clausi cum=con clave・コンクラーヴェ
       ここに初めて、教皇選出に今も使われる言葉の登場、となります。
       枢機卿同士の根競べではありませぬぞえ、ははは。

       現在の研究者によると、この屋根も引っ剥がした部屋に監禁、というのは、
       約3週間続き、その後はパラッツォ・デイ・パーピ内の部屋に
       住まう事が許されたと言いますが、やはり建物内監禁で、
       選挙中に19名のうち2名の枢機卿が亡くなり、17名になっても
       それでもまだ枢機卿たちは頑張ったのですねぇ! ははは。

       屋根を引っ剥がすと言う思い切った行動に出たのも、
       枢機卿の一人が機知で、こういう部屋には神の意思も届きにくいね、
       と言ったのが、通り易くする為のインスピレーションを与えたのだと、ははは。
       



       所で、今までコンクラーヴェの行われたのは、上でご覧頂いた大部屋
       いう事になっていたのですが、

       2014年末から公開されている、このサーラ・グワルティエーロ・Sala Gualtiero
       美しくフレスコ画で装飾された部屋で、上でご覧の大部屋に続いてあるのだそうで、
       ここが実際に13世紀のコンクラーヴェが行われた部屋ではないかと
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       広さは約200平米、20名弱の枢機卿達が集まって協議する、投票するには
       ちょうど良い大きさ。 何よりも早急な修理が望まれるこの部屋は、
       天井からの雨漏りの為に破壊されているのだそう! 成る程ぉ!!


       こうして約33ヶ月もを費やし、選出された教皇はグレゴーリオ10世
       俗世の名をテダルド・ヴィスコンティ・Tedaldo Visconti、
       ピアチェンツァの貴族出身ですが、かのミラノ大公ヴィスコンティ家の
       支流であるともないともの方で、
       ただ彼の精神の正しさと正直さが大変に評価されていた
       聖職者の位置としては最下の、司祭でもなかった方!

       選出選の間にも、指名され驚いて逃げ出した候補者、
       辞退した候補者もいた様子ですが、
       彼は遂に呆然としながらも受託し、1272年3月27日に即位。
       後にこの方は教皇選出に付いての新しい法則に付いても、発布されたと。

       
       所でヴィテルボに教皇庁が置かれていたのは約30年間と短く
       が、その間の教皇は9人と多く、まぁ、年を取って教皇になられる事が
       多いので必然そうなるのかもですが、

       以下にヴィテルボでの教皇様の一覧を
       ・アレッサンドロ4世 1254年から61まで在位 ヴィテルボには1257年から。 選出時55才 没62才
       ・ウルバーノ4世 1261-1264 ヴィテルボとオルヴィエートを行ったり来たり。 選出66才 没69才
       ・クレメンテ4世 1265-1268 殆どヴィテルボに。 選出70歳 没73才
       ・グレゴーリオ10世 1271-1276 実際には約1ヶ月間ヴィテルボに居たのみ。 選出61才 没66才
       ・インノチェンツォ5世 1276年1月選出 6月没! 約半月間ヴィテルボに。 選出、没51才  
       ・アドリアーノ5世 1276年7月選出 8月没! 殆どヴィテルボの修道院に。 選出、没71才
       ・ジョヴァンニ21世 1276年9月選出 1277年5月没 殆どヴィテルボ。 選出61才 没62才
       ・ニッコロ3世 1277-1280 ヴィテルボとローマ、そしてソリアーノ・ネル・チミーノ。 選出61才 没64才 
       ・マルティーノ4世 1281年2月選出後、すぐにヴィテルボから教皇庁を撤退。 選出71才 没75才
       
       なんとまぁ、3人の教皇様が数ヶ月で亡くなっていますねぇ!
  ◆ 追記 教皇選出時と亡くなった年齢を調べ、追記しました。 はは、物好き・・。
       それにしてもどの教皇様は余りヴィテルボに長滞在は無かった様で。
       
       所で長期間かかったグレゴーリオ10世選出の際の枢機卿17名ですが、
       その中の4名が後に教皇になられていて、このリストの中の
       アドリアーノ5世、マルティーニ4世も長い教皇選出に加わった方。
       

       枢機卿というのは、司教叙階の方の中から教皇が選ばれる方々で、
       教皇についでの位階というか、現在は新しい教皇は枢機卿の中からが自然で、
       その数も現在は過去最高の230名くらい居られるとか!

       教皇選挙は現在も完全秘密必須のコンクラーヴェではありますが、
       80歳以上の枢機卿は、教皇非選出との事。

       
       現在では、世界10億人を超えると言うカトリック信者の頂点に立つ
       教皇様として、政治的にはともかく、厳然と大きな影響力をお持ちと思うのですが、
       中世のこの時代、政治的にも権力を持っていたいわば領主の立場でもあり、
       勢力権力争いの真っ只中で、大変だったろうな、との率直な感想も。

       この後ヴィテルボの街に教皇庁が戻る事は無く
       当時の繁栄は廃れ、ラツィオ州内でも常に2流の立場に甘んじたと。




       ロッジャからは背後の眺めが大変素晴らしく
       北に広がる街並みや、旧市街を囲む城壁も。
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       これはパラッツォ・デイ・パーピの背後からの眺めで、
       間の谷をファウルの谷・valle FAULと言い、まさに要塞の趣きも。
       素晴らしい威容でしょう?!
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       ファウルの谷のこちらには大駐車場があり、
       緑地で若者達が遊ぶ姿も
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       あれこれどこかまだ書くべき事が不足している気もするのですが・・、
       ご説明が上手く出来ましたでしょうか?
       これで一応今回のヴィテルボのご案内をお終いとし
       皆様、長いお付き合い有難うございました!!



       最後は、サイトから拝借の写真で、
       サン・ロレンツォ聖堂の夕景と
       パラッツォ・デイ・パーピの夜のイルミネーションをどうぞ!
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by italiashiho2 | 2016-02-10 00:02 | ・ローマ・ラツィオ Roma Lazio | Comments(6)
2016年 01月 06日

   ・・・ 松本城訪問 ・ 信濃の国 ・・・

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       昨年の秋日本に行った時、松本と安曇野を訪ねましたが、
       今回は、松本城訪問の様子を見てやって下さいね。

       信州長野生まれで育った私は、小学6年生の春(だったと)に
       松本から諏訪への修学旅行で一度訪問しているのですが、
       それ以降はいつも素通りでしたので、町の様子も知らずのままで・・。
       今回漸くに安曇野も含め訪問できたと言う訳でした。

       上の写真は、お城、天守への内堀を渡っての、二の門
       復元された門との事ですが、立派で控え壁には鉄砲用挟間も見られ、
       外人観光客の姿もかなり多く・・。




       案内図をどうぞ
       上でご覧頂いた二の門は、中ほど下に見える「現在地」から上、
       の数字にあり、
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       2. 本丸御殿跡、3. 二の丸御殿跡も実際には建物がありませんので、
       6.二の門の後は、11.黒門を通ると、広い庭園になります。

       6.の右に、外堀を渡っての位置になりますが、
       10.太鼓門、門の上に楼上があり、鐘と太鼓で情報を伝えていたと言い、
       ここは見なかったのですが、復元された大きな立派な門で、
       多分こちらが家臣の登城門だったのでしょうね。




       案内図11.の黒門、こちらも復元された物と言いますが、
       本丸御殿に通じる重要な門で、
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       柱にも初代城主であった石川氏の笹竜胆の紋
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       門の内側に、この城の歴代藩主の名と紋所が。
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       元々は16世紀の初めに、当時深志城と呼ばれた城が築かれたのが
       始まりのようで、城主は戦国の世の中ですので色々変遷があり、
       
       最初に名の見える石川数正が入城したのは1590年、徳川家の関東移封後で、
       彼が天主を築き、城郭、町の整備も行ったとの事。
       こうして代々城主が変わりながらも引き続き、明治2年まで。 

       明治最初の城取り壊しの際、競売に掛けられ解体される寸前に、
       街の有志が音頭を取り運動を繰り広げ、
       遂に現在まで生き残ったという城なのですね。

       松本城のサイトはこちらに

       上諏訪の町とお城については




       黒門から入ってくると、広い庭園の向こうに大天守が聳えます
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       そうなんですよね、この松本城は平城!
       もともとの築城年を考えると、ちょっと不思議な位なのですが、
       天守のある城としては唯一の平城なんだそう。

       そして、えっへん、はは、私が威張っても始まりませんが、ははは、
       そう、この松本城は日本に5つある国宝の城の一つ!なんですねぇ。
       (4つかと思っていましたが、松江城が昨年指定を受け)
       他の3つは犬山城、彦根城、そして姫路城ですね。
       
       犬山は明治村に寄った記憶がありますが、まだ城は知らずで、
       重文指定の他の7つの天守も美しく、チャンスがあれば!です。
       



       で、サイトから見つけた名と高さ入りの写真をどうぞ
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       という事で、乾小天守と大天守を繋ぐ渡り櫓の下にある
       大手口から入りますが、

       これは大天守の石垣の迫り出し具合
       角の上には石落としも見える実戦構造の城ですね。
       黒の色は漆塗りなんだそう!
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       石垣前に武者姿のこの方がおられ、皆さんとの記念撮影に
       応じられていたのですけど、shinkaiがお願いしますとカメラを構えると、
       一人撮影とわかって、あっ、あれっとちょっと照れたりして、ははは。
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       むむ、貴殿お持ちの三階菱の紋所は、2代目城主小笠原氏の物でござるな。




       ささ、大天守へいざ、いざ、お進みめされ!
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       ちゃんと靴を脱いで、ビニール袋に入れて持って上がって下さいよ、
       そこの外人さん。 (英語でなんていうの? ははは)




       松本城天守の構造。 
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       上がる前にしっかり読んで、というのをいつもパシャッと撮って、
       ブログ書きの前に読んでなるほど、というshinkaiですが、

       戦国時代の終わりの平城でも、やはりそれなりの実戦体制を
       取っての築城だったのが、鉄砲攻撃に備えての厚い壁とかで分りますね。
       大天守の壁の中には、木の枝とか縄を真ん中に挟み塗りこめてあり、
       厚さが20~30cmもあるそうで、これだと火縄の玉も通しません。

       明治時代にこの大天守が傾き、大改修が行われた事があった様子ですが、
       この説明の2にある、天守台の石垣の中に、16本の栂材の丸太柱を埋め込み、
       千トンの重さを支える、というのが、
       この丸太柱の老朽で支えきれなくなった、という事情もある様子。
       昭和に行われた解体大修理の際に発掘された柱は、
       殆どが腐食され形を留めていなかったとの事。
       400年もの歴史を持つ城ですものね!




       大天守の北にある乾小天守ですが、「北」にある小天守が「乾」・北西を指す、
       と呼ばれるのは、「北」が意味する言葉の不吉さを嫌ったからなのだそうで、

       大天守と違って、こちらには丸太の柱も使われているのだそう。
       すり減り、磨き上げられた、床と柱の美しさに目が行きます!
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       階段の踏み板も、支えもツルツルすべすべ
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       中はやはり薄暗く、窓の外の快晴の空、緑が嬉しく
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       この柱の見事さ! 木目の美しさ!
       床が黒いのは、これもかっては漆塗りだったんだろうか?
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       大天守への渡り櫓部にあった、梁の大きく曲がった太い柱
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       こんな自然のままの柱は強度に強いのだそうですが、
       傍らの管理の小父さんが、この柱は何の材木だと思いますか、と出題。
       でも、この城の名に因んだ名前です、とヒントもね、ははは。
       というので覚えると、忘れませんよね。




       でもね、凄みのある木目でした!
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       昭和の大修理(昭和25~30年)で取り替えられた展示品もあり、
       これは鬼面鬼瓦
       余り怖くなく可愛い顔にさえ見えますね、ははは。
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       大天守の1階の大広間、鉋や手斧で仕上げられた柱が
       整然と薄暗い中に並びます。
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       この広間の周囲を、約45cm低い武者走りが取り囲みますが、
       土台は2重になっているのだそう。




       大天守の上を護っていたシャチ。 口を開けているのが雄で、
       閉じているのが雌、というのですが、これはどちらかな?
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       かなり興味をそそった火縄銃の各種の展示があり、
       長いのと、馬上筒と呼ばれる短い物。
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       説明図によると、大筒と呼ばれる口径30mm程の物が、
       大阪夏の陣では昼夜を分かたず打ち込まれ、和議を早めたという事で、
       これ位のものだと射程500mほどの命中率はなかなかのものだったとか、
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       馬上筒は加藤清正が武器として取り入れたのが初めで、
       馬上で使いやすいよう50cmほどの長さの火縄銃で、近距離用。
       勿論連続発射は出来ず。

       右上に見える抱え大筒というのは、口径25~40mm程までの火縄大筒で、
       これを抱えて撃つ日本独特のものなのだそう。
       狭い坂道でも抱えて運べるので山城攻めとか、戦国後期に威力を発揮したと。




       こちらは鉛の弾、勿論手つくりで、
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       考えた事もなかったのですが、戦国期の武士の妻や娘の仕事だったそうで!
       夫の火縄銃に合った弾作りに精を出しているかっての女達の姿を思うと、
       いじらしくもあり、少々おかしくもあり!
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       火縄つくりも大切だったようで、良い火縄だと命中度が違い、
       木綿の火縄だと火持ちも良く、灰も真っ白で軽く、
       引き金を引いて玉の出るタイミングもとても良いと!

       ですが、木綿はかって北の国では栽培できず大変に高価だったので、
       刺し子や菱刺しの起源もこの理由からでしたしね、
       古くには繊維の長い竹や麻を混ぜて火縄を作ったとも。




       甲冑ですが、後ろに「当世具足」と見えるように、
       戦国時代になって当時の鉄砲戦に相応しい形を考えだした物で、
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       かっての煌びやかな革の小片を繋いだものではなく、
       鉄を使った大量生産で、鉄砲戦に対応した強い物、玉を反らせるために
       曲線や傾斜を多用し、機能性も重視しているのが特徴と。

       背中に玉込め用の棒・カルカを背負い、腰には玉入れを下げ、
       肩から口薬・点火薬入れの水筒みたいなのを提げ、
       これで火縄を持つと約20kgの重量だったと!

       ふっと気づいたのですが、玉込め用の棒がカルカ!
       イタリア語でカーリカ・caricaは職務、積荷、充填、仕込みなどを指し、
       戦闘での「弾込め、撃つ用意!」は動詞caricareから、carica!なんですね。

       仏壇にお供えする水を「閼伽・あか」と言うそうですが、
       これはacqua・アックワから来ているのかも、と聞いた事があり、

       と同様、遠い土地からの由来の言葉みたいにも思い至りました。




       これは4階の大広間の一廓、御簾で囲った御座所
       有事の際の御座所として使われた様子。
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       窓の形は、大屋根の下に作られる千鳥派風・東西と、
       南北にある唐派風とがあり、こちらは唐派風で、
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       こっちが千鳥派風の窓
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       大天守の中には1階から6階まで階段が7箇所あるそうで、
       どの階段もかなり急な階段でしたが、
       とりわけ4階から5階への階段が傾斜が61度もあり、
       おまけに蹴上げが約40cm!
       掴まりながら上がるのですが、足元は勿論見る余裕がなく、
       ヨイショ!と足で探りながら上がる感じで、

       今奥に見える階段の上の部分がそれ!
       昔の人は体も小さく、脚も短かったでしょうに、はは、
       大変だったでしょうねぇ~、ひひ。
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       こうして上がった最上階、大屋根の下に見えた注連縄
       納得しますです!
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       見えた、国宝指定書、昭和二十七年三月二十九日
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       窓から見る松本の街
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       乾小天守の屋根
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       内堀の西側と埋橋(うずめ橋)。
       4年前の地震で埋門の石垣がずれ、現在こちらからの入城が
       停止されているとの事。
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       そして黒門方面
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       階段を降り、最後はこの月見櫓
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       大天守に続いての辰巳附櫓、そして月見櫓ですが、
       ここは徳川3代将軍家光が長野善光寺参拝の途中に松本に寄る、
       というので建てられたのだそうで、
       外側には赤い欄干を巡らした月見櫓らしい風雅さなのですが、
       結局善光寺参拝は中止になったのだそうで・・。




       大天守の最上階に上がった辺りで、カメラ電池の消耗に気づき、
       最低限の写しにしていたのですが、
     
       遂に最後の一枚!となった、内堀越しの大天守の眺め
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       という、長年の夢でもあった松本城再訪でしたぁ。




       最後はサイトから1枚拝借し、
       美しい雪化粧の松本城をどうぞ!
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     *****

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by italiashiho2 | 2016-01-06 00:47 | ・日本・アジア Japan Asia | Comments(13)
2015年 12月 23日

   ・・・ インスブルックの街 その2 金の屋根、聖堂、博物館 ・・・


       引き続き、有難うございます!
       インスブルックの街、旧市街訪問を続けます。

       煌びやかな店の看板が目を引きますが
       これは左に大きな葡萄を担いだ男2人が見えるので、
       酒屋かな? それとも醸造所だった?
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       さてさて、インスブルックの街のシンボルの一つと言える
       「金の屋根」ですが、こんな風に建物から飛び出したテラスで、
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       斜め向かい角には、こんなロココ式の凝った装飾の家
       Helblinghaus・ヘルブリング邸、一般市民の住居だったというのがあり、
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       正面側に回ると、この豪華さ!
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       ちょうどこの邸宅と金の屋根の前が広場になっていて
       大きなクリスマス・ツリーと、屋台店が立ち並び、大賑わい!!

       その屋台店の並んだ間の上に上れる様になっていまして、
       上からの眺めはこんな風。 
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       背後の建物はNeur Hof・チロル伯爵の邸宅として
       1420年頃に建てられたもので、それにマッシミリアーノ1世が
       1500年の記念祭用にと、1494~96年に取り付けさせた物と。

       「金の屋根」と呼ばれる由来は、金を焼き付けた2657枚の
       鱗型の銅の屋根板から来ていて、
       ご覧のように2層になっています。    




       上階には、奥の壁にフレスコ画で、マッシミリアーノ1世と2人の奥方、
       最初の妻マリーア・ディ・ボルゴーニャ(ブルターニュ)・Maria di Borgogna
       と、再婚の妻ビアンカ・マリーア・スフォルツァ・Bianca Maria Sforza
       と、どちらがどの方かshinkaiには分りかねますが、
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       マッシミリアーノの宮廷生活を描いた、という事から想像を逞しくし、
       最初の結婚は幸せで上手く行き彼は2人の子を得ており、
       2度目の妻とは上手く行かず、子供も無かった、というので、

       左側のお付女官や書記官、吟遊詩人も混じっての賑やかなのが最初の結婚生活、
       右側の鷲鼻の横顔の彼と女性一人のが、ビアンカ・マリーアと想像を。
       
       その下の木彫彩色部には、踊っている兵士達と、真ん中はやはり
       マッシミリアーノの姿、そして2人の妻、の場面ですね。


       蛇足ながら、2度目の妻ビアンカ・マリーア・スフォルツァというのは、
       暗殺されたミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘で、
       ルドヴィーコ・イル・モーロの姪で、

       22歳でミラノでの盛大な結婚式の後インスブルックに。
       大勢の侍女やお付き次官たちを引き連れての行程に、ひょっとして
       レオナルド・ダ・ヴィンチも混じっていたのかも・・。

       というのも、最近になって彼の作かどうかと云われていた肖像画が
       真筆であると発表されたのを、皆さんも覚えておいででしょうか。
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       最初の妻にも劣らず美しく彼よりずっと若い妻だったのですが、
       マッシミリアーノはまったく彼女に愛を感じることなく、
       2人の間は冷たいままで、彼女はティロルの山の城で一人寂しく過ごし、
       晩年は神経性の食欲不振に陥り、38歳の若い死、衰弱死だったと。


       肝心のマッシミリアーノ1世、神聖ローマ皇帝にして、
       ハプスブルグ家の隆盛の基となった彼に付いては、
       最後に彼の廟を見ましたので、その時のご説明にしますね。       




       下の部分は、真ん中に窓と、両脇にフレスコ画で旗手の姿が描かれ
       下に並ぶ紋章は、オーストリアとティロルの物と。
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       で、バルコニーの軒下の部分には

    
       こんな風に、男達が格子の角にうずくまり
       うXちをしたり、おしXこをしたりなんですねぇ、ははは。
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       この周辺は、まさに古い町の歴史がそのまま残り
       古い頑丈な飛び出した壁の角があったり、物見かな?
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       この古い扉! 扉の右下の石だけ、すり減っているのにご注目を!
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       今回この古い地区を見てとても気に入ったのは
       パステル・カラーで美しく補修されているのですが、
       こういった古いものがきちんと使われ、残されている事でした。
       新しくモダンな新市街も広がる中心に、こういう一廓があるというのは、
       自分達の町を誇りに思い、護って行く意志があるからですよね。
       内側は出来る限り快適に改装しているのでしょうが、
       重厚な歴史感を感じ、大変に心地良かったです!




       狭い道を北に抜けていくと、サン・ジャコモ聖堂・Dom zu St. Jakoがあり、
       現在のは1717~1724に建設されたもので、
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       内部のその絢爛豪華なバロック様式に見とれました!
       はぁ、趣味ではないのですが、余りにも素晴らしく美しいと、ははは、
       やはり凄いなぁ!と見蕩れますです。
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       良く見えませんが、上の写真の祭壇画の中央に切り抜いたように
       別の聖母子像がはめ込まれているのが分りますか?
       あれはルーカス・クラナッハの聖母子像なのだそう。




       内陣の左右に、こんな風に御臨席があり
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       金色の双頭の鷲が王冠を持ち、両足に剣を構えているので、
       あれま、尻尾で立っているの?と笑えるshinkai、ははは。




       こちらは左側の翼部分にあったマッシミリアーノ3世の廟、17世紀。
       近くの王室教会にあるマッシミリアーノ1世の廟に憧れて、と
       ガイドさんの説明にあったような・・。
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       内部の柱装飾も、誠に優雅で煌びやか!
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       入り口の上にあったオルガン
       オルガン本体は20世紀の末に作られたのだそうですが、
       18世紀初期のこの見事な箱の中に納められたのだそう。
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       青緑の色も美しく、こういうのを見ると、わぁ~おと声が出ますです。




       ついでに、王宮見学も
       ですが、もう朝の9時から始まった見学でいい加減草臥れ、
       12時頃のこの時は、もういいよぉ、という感じで、ははは、
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       おまけに内部の写真禁止というので、広い舞踏室や、
       様々の部屋を通り抜けただけで・・!



       これは入り口にあった、展示案内の横幕
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       ガイドさんの言うには、この絵は日本人画家が描かれたのだそうで、
       私は好きじゃない、との事。
       でもこれは画家の趣味ではなく、注文主の注文ですからね、へっへっへっ。




       2階の廊下からの眺めを1枚
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       大きな舞踏室には、偉大なるオーストリア女帝マリーア・テレーザの
       17人だったかの子供達の肖像画が並び、
       その中には、マリー・アントワネットの肖像もありましたっけ。




       最後に見物したのが、ここ宮廷教会の隣にあった、
       現ティロル民族博物館
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       内部の、多分教会付属修道院の中庭で、
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       ここで見たのは、マッシミリアーノ1世の記念墓所、廟
       彼の遺体はここには無く、というのも、戦争に明け暮れした彼の
       町への借金不払いが余りにも多く、滞在を拒否されており、
       こういう当時からの市民勢力の強さを知ると、うふうふしますが、
       せっかく愛する町に眠りたいという彼の墓所準備もむなしく、
       ウィーナー・ノイシュタット、ウィーンの南に墓所があるそう。
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       この紋章の数々!  細部の細工の細やかさ!
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       マッシミリアーノ1世(1459-1519)オーストリア大公、神聖ローマ皇帝、
       ハプスブルグ家の隆盛の基を築いた人物でもあり、
       武勇に優れ、芸術を愛し、10ヶ国語を話し・・、まさに王となる為に
       生まれたかの様な人物でして、ちょっとあれこれ読んだ位では
       到底その人物を詳しくご紹介するまでには至りませんで。

       ですが、ハプスブルグ家の家訓は、婚姻により領土を増やす事にあったそうで、
       まさに自身もブルゴーニュ家の一人娘と結婚し、ネーデルランドも獲得、
       子供達もスペインのカスティーリア-アラゴン家と結婚させ、 
       孫に当るカルロス1世は、スペイン王、神聖ローマ皇帝となった人物、
       という様に、隆盛を招いた人物だったのですね。

       ヨーロッパの王室の関係の複雑さはまさにまさにで、
       今回もあれこれ読み出すと、ちょっぴり名を知っている人々に芋づる式に
       ずるずると繋がり、興味が尽きませんでしたぁ。




       中の棺の浮き彫り、マッシミリアーノの生涯を語る1枚。
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       で、この棺を挟んで左右両脇に黒いブロンズ像が全部で28体
       彼の生涯に影響、関連した人物像が、葬列に参加という様子で並びます。
       等身大以上の大きさで、黒いので、かなりの迫力!
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       祭壇側はこんな様子で
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       前側から見ると、棺の上にマッシミリアーノが祭壇に向き
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       左側上部に女性達の像もあり、自身の2人の妻や、息子の妻も。
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       足元には名が刻まれていたのですが、到底確かめておりませんで、
       どれがどなたか判別できませんが、




       こんな風に衣服の描写も凄く手の込んだもので
       でもブロンズ像で黒となると、やはりいかつい感じですねぇ。
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       祭壇手前左右に2体ずつあったのですが、これは左側で、
       どなたかな?
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       それがです、写真を撮っていると、ヴァレーリアが近寄ってきて、
       大変失礼な事に、ははは、


       撫でると運が付くのよ!といいつつ、するっと撫でまして、
       ほらね、かなりもう既に光っているでしょう?!
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       ヴァレーリアは大体ちょっと変わった女性なのですが、
       こっちに来て、といいつつ入り口近い左側の像の前に連れて行き、
       ほら!と、このピカピカを見せ
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       マッシミリアーノ1世の息子「美男フィリップ」像だと言い、
       「運が来る」と念入りに撫で回し、横にいた仲間の男性2人も大笑い!!
       shinkai? 撫でませんよぉ、そんなものぉ!!




       で、お笑いはもう一つ、彼女が撫でたのはお目当ての像ではなく、
       こちらが肝心の「美男フィリップ」王なのでしたぁ!! きゃはは。
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       最後に不謹慎な教会内事件でしたが、ははは、
       漸くにガイドさんから解放され、お昼を食べ、買い物をし、
       
       早くも日が傾きかける冬の午後、
       インスブルックの街に別れを告げ、戻り道を辿ったのでした。
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       長いご案内にお付き合いいただきまして
       有難うございました!
       お楽しみいただけましたように!!


       最後におまけの、クリスマス・カードを。

       皆様、ブオン・ニャターレ!!
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       良いクリスマスをお迎え下さいね


     *****

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by italiashiho2 | 2015-12-23 01:24 | ・ヨーロッパ Europe | Comments(0)