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2017年 04月 22日

   ・・・ 古きロンゴバルドの教会と、 「ティツィアーノの家」始末記 ・・・

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       1週間前の快晴の午後のひと時、近くのカッペッラ・マッジョーレ・Cappella Maggiore
       の町外れにある「ロンゴバルド教会」の見学会があり、出かけてきました。

       この教会があるのは既に20年ほど前から知っていましたが、
       殆ど放置された状態で閉まっていて内部が見れずで、
       今回参加しているグループの見学があるというので喜んで!

       ロンゴバルド時代の教会というと、この近くではフリウリ州の
       チヴィダーレの教会がとても美しくて有名ですし、期待したのでした。
       




       カッペッラ・マッジョーレの町の中心はこんな感じですが、位置が少し高く、
       ここから更に奥の高台の田舎に至る上り口、という感じの小さな町で、
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       訪問した教会は、左下に伸びる道を行き、坂を下った平野部にあり、





       車で動くようになってからは余り通らない道なので、
       すっかり整備修復されていたのも初めて知り!
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       これはトップで見て頂いた道端の標識を入ってきての、南側からの眺めで、
       教会周囲もきちんと整備され、洗われた壁の白さがとても美しく。
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       扉は正面と脇に2か所、窓も正面扉上に一つ、南側壁に2つ、
       張り出した小さな聖具室部に一つ、そしてこの写真では見えないのですが、
       内陣部の南側に一つありますが、
       建物の東側、北側には一つもありません。





       脇扉の上に TRINO ET UNI と彫り込みが見えますが、三位一体の事で、
       この教会が奉納された正式名「サンティッシマ・トゥリニタ・Santissima Trinità
       を示します。
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       最初に出た「ロンゴバルド教会」の名が一般に知られている名前だと思うのですが、
       その他にも「マッタレッラ教会・Mattarella」とも呼ばれているようで、
       マッタレッラというのは、この土地の古い持ち主の名前から来ているのだそう。





       教会前にあった掲示板の写真で、一番上の平面図に見える
       白い線が現在の教会の形で、緑の線がロンゴバルドの時代にあった小さな教会
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       つまり8世紀から9世紀建設とみられる古い小さな教会を内に含み、
       14~15世紀に大きく拡張されたのが現在の教会、という訳。

       ピンクの線は壁画のある部分で、南に張り出している聖具室部分は17世紀のもので、
       教会上に見える小さな鐘楼もどうやらその時のものの様子。





       皆がぼちぼちと車に分乗して集まって来、神父さんが来られ扉を開けて下さり、
       最初に扉の中に頭を突っ込み覗いたshinkaiが見たのがこれ!
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       もちろん神父さんに「写真を撮っても良いですか?」と尋ね、OKを頂いておりますです。

       正面の「最後の晩餐図」の左脇、上、そして右にも少し見える石の跡
       これがロンゴバルド時代の小さな教会跡の壁なのです。
       きっと高さも低かった事でしょう!





       この壁画は蛮族-ビザンティン様式11世紀のもので、6x3mの大きさというので、
       最初の教会の大きさがそれで分かりますね。
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       銀貨の入った袋を握ったユダはテーブルのこちら側に小さく光輪なしで、
       キリストにべったりと寄りかかる使徒ヨハネ、その肩越しにユダにパンを与えるキリスト。
      
       長いテーブルの上にはワインもパンも、木の実のような小さい丸いもの、
       果物なのかな、細長いものも見えますね。
 
      
       上に「蛮族-ビザンティン様式・barbarico-bizantino」と書きましたが、
       ここで蛮族というのは北から来た民であるロンゴバルド族を指します。
       
       イタリア語では北からの侵入民族をバールバロ・barbaroと言いますが、
       その語源はというと、何をバルバルしゃべっているのか分からない、から来ているという説明が、
       昔大いに勉強になった小学生向け図鑑に書いてあったのを思い出しましたぁ!
       ほら、日本語で、ベラベラしゃべりやがって、というのと同じでしょう、ははは。





       皆が入り込まないうちにと、大急ぎで撮っていきますが、
       上の「最後の晩餐図」以外は、時代が下り15世紀のもので、
       画家の名も判明、というのは、殆ど絵の下に書き入れがあるのです。
       
       隣の「ザクロの聖母子像」 アントネッロ・ダ・セッラヴァッレ作
       近くのヴィットリオ・ヴェネトの画家で、左の聖母子の足元に膝まづくのが寄進者と。
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       いつもこういう訪問の際のガイド役、ソリゴン・Soligonというグループの講師・元学校の先生が到着し、
       皆も席に着き説明が始まると、入り口の扉を閉めたため暗くなり、
       それもあって、今回の写真はイマイチよく見えないのをご容赦願います。       
       フレスコ画自体が損傷したり、傍で見ても細部がはっきり見えないのも多いのですが・・。

       全体の様子と、内陣後陣の全体像
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       「磔刑図」はベルガモ出身のアントニオ・ザーゴ・Antonio Zagoの作で、
       他にもう一人アントニオ・グネール?・Gnerという画家の名も。





       正面脇左下には聖母子像と、上に受胎告知の天使像
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       この聖母子像の顔細部が教会のパンフレットに載っていて、これです。
       達者な筆さばきでしょう?
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       同画面の下部にはこんな風な、右に眠る女性の顔半分と、
       白い犬がいて・・、ちょっと判じ物風。
       講師ソリゴンの説明によると、白い犬は彼女の処女性を示す、というのですが・・。
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       上部「受胎告知」の天使。 横割れの衣装から脚を大胆に見せた天使が
       口に百合の花を咥えて、というちょっと変わった構図でして、はは、
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       左脇、下の絵はかなり薄れていますが、上部の「受胎告知」のマリア側
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       聖母は謙虚に描かれているのですが、ここでも左上の天使の目つきとか、
       聖母の右奥の天使の顔もちょっと変わっており、
       聖母の左の戸棚の中も、いかにも家庭の中の戸棚の静物画の様で、ははは。
       画家の名がはっきりしませんが、面白いセンスを持っていると・・。





       後陣の「磔刑図」上部、キリストの顔ははっきりしませんが、
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       右の男はこんな風に描かれているのを、サイトで見つけました。
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       背景が壁になっている構図も初めて見ましたし、壁の上の三角風の飾り、
       これはヴェネツィアの大運河、リアルト橋横の新装なった元のドイツ商館の屋根飾りと同じ。 





       左下には心痛で気を失いかける聖母が抱えられており、  
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       右下のこの人物たち、これが良く分かりません。
       お分かりの方、お教えください! 
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       「磔刑図」を見ていて、中央のキリストは槍で心臓を突かれ、手足も釘付けですが、
       左右の二人は腕を横木に縛られ、脚も縛られた状態で、脚に傷を受けています。

       今までこんな風に描き分けられたのを見た記憶がなく、
       この違いは何を意味するのかと、改めて「磔刑」についてちょっと読んでみました。   
       知ったのは、

       磔刑はバビロニア期から行われていた極刑で、
       ローマ期においてローマ市民に適用されたことはなく、
       奴隷や破壊活動者、外国人に対してのみ適用され、
       磔刑の前に行われる鞭打ち、これがまさに酷い拷問であった様子。

       常に十字の形でなく、一本の木でも、逆さまVでも行われたようで、
       十字の場合、縦の木はすでに建てられており、横木を受刑者が運ばされたのだそう。

       脚に見える傷については、いつも、こん棒か槌で折られたのだそうで、
       つまり磔刑の目的は、長いゆっくりの死の苦しみの後に、貧血、肋骨の圧縮による窒息、
       または心臓の血液循環の滞り、虚脱による死、なのだそう。 恐ろしい事!!

       キケロは磔刑について、一番残酷な体刑であり、一番陰鬱なもの、と。
       




       内陣の天井図
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       内陣、北側の壁、上部。 これはアントニオ・ザーゴ作。
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       アーチ部の飾り画
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       というような、ロンゴバルド教会の、どこかちょっと違った教会なのかと出かけたのですが、
       教会自体は後の時代に改装されたもので、内部のフレスコ画も後世のものでした。
   
       が、一風変わったフレスコ画で、修復されて見やすくなっており、
       色も鮮やかで素朴で、なかなか良いと満足でした。

       1936年にこの一帯に地震があり、今残っているフレスコ画はこの地震で
       助かったものだそうで、案外教会全部がフレスコ画で埋まっていたのかも、ですね。

       神父さんが仰ったのは、ここは博物館ではなく、毎週金曜日には
       ミサが行われる教会ですので、お出かけください、との事でした。



       
       所で同様のアーチの飾りがカステッロ・ローガンツゥオーロの教会
       そうです、ティツィアーノの祭壇画を依頼した教会にもあった事を思い出し、
       解散後、まだ陽が高かったのもあり、寄ってみる気になりました。


       この一帯の地図をどうぞ
       薄いピンクで塗り分けられたのが、今回のカッペッラ・マッジョーレで、
       見学した教会は、東南端に近く、小さな赤丸のついた場所にあり、
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       北東にサルメデ・Sarmede 毎年国際絵本原画の展覧会のある場所 
       北西にヴィットリオ・ヴェネト  http://italiashio.exblog.jp/i8/10/
       南に我が村スコミーゴ 星のついている所に我が家   http://italiashio.exblog.jp/i12/
       そしてオリアーノ・Ogliano  http://italiashio.exblog.jp/23811624/
       一番下端にカステッロ・ローガンツゥオーロ   http://italiashio.exblog.jp/9036585/






       オリアーノの教会前から撮ったカステッロ・ローガンツゥオーロの教会と鐘楼
       小高い丘の上に、こんなぐうに張り出した形であり、       
       ここからだと、例のティツィアーノの家が良く見えるかも、と思ったのでした。
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       カステッロ・ローガンツゥオーロの教会前の庭から見る、
       こちらがオリアーノの教会と丘
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       午後遅めの太陽光線が強く、逆光で色が良く見えませんが、





       高台にある教会の周囲から見るカステッロ・ローガンツウオーロの村は、
       新緑に彩られ、美しい畑、農家が広がります
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       で、確かこの方面と見るコル・ディ・マンツァ・Col di Manzaの
       ティツィアーノの家が見当たらず・・!

       で、たまたま通りかかったシニョーレに尋ねましたら、
       おお、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりのうっぷん交じりに、

       北向きの、この風景の、右の大きな一群の建物
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       これですね、屋根にあるパネルで、赤と青に見える屋根の建物ですが
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       その奥に続く、家畜小屋といったか、これに遮られて、
       ティツィアーノの家が見えなくなったのだそう!!

       つまり、手前の長い屋根の奥に見える茶の瓦葺きの屋根だけ見えるのが
       ティツィアーノの家なんだそう!
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       いつから、と聞くと、大体20年かそこら前からで、農業関係の組合とかなんとかの
       建物なんだそうで、本当に悔しそうに話してくれましたぁ!





       たまたまこの日の午後、教会でお葬式があったのを下の駐車場で見かけましたが、
       それの片づけでまだ教会が開いており、
       我々が話している所に出てきたシニョーラも加わり、

       幸運にも彼女はガイドをしている方の様で、
       例のティツァーノの絵のコピーが中にありますからどうぞ!と。
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       左に見える礼拝堂の絵が見える部分にティツィアーノの祭壇画が。





       これです。 ヴィットリオ・ヴェネトのチェーネダの博物館にある修復画ではなく
       この近くの画家が描いた修復画を基にしたコピーで、
       額はこれがオリジナルなんだそう。
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       サイトで見た修復画の写真では良く分からなかった聖母の目元
       肩の感じ、キリストの首の座り、なども、ああ、こういう感じなんだ、と。
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       右のサン・パオロ像の方は、多少はティツィアーノらしき面影があるように
       写真では見えたのですが、こうしてみると、
       ティツィアーノが男を描くときの鋭さは見えず・・!
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       丁寧にあれこれ説明してくださったシニョーラによると、
       聖パオロが剣を持った姿で描かれているのは、彼は大変舌鋒鋭い方で、
       言葉で人を切る、と言われたことの表現なんだそう。





       こちらは額の上部に取り付けられていた、蘇生するキリスト像。
       これもティツィアーノの作とは見えませんが、質問するのを忘れまして・・、
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       これが上の絵の前にある、平常は閉じられている扉で、
       復活祭の時に開かれ、見ることが出来たのだと。
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       この絵と扉は、チェーネダの博物館にはない、というのをサイトで読んでおりましたので、
       ああ、これの事かと納得でした。


       ティツィアーノに払ったのは、リンクした記事に書いた契約の物品だけでなく、
       ニワトリや卵や野菜やと、とせっせと皆が運んだのだそうで、ははは、

       ティツィアーノの絵をオーストリア軍の略奪から守るために、巻いて天井裏に隠した
       当時の司祭さんは、絵の行方を尋ねられ、イタリアにある、とだけを答え、
       オーストリアの軍人はローマにあるのかと、ローマまで調べに行き、ないのでまた戻り、
       司祭さんは監獄に入れられたとか、


       そんなにまでして描いてもらった、守った絵が修復しても元に戻らずの状態で、
 
       その間に祭壇のフレスコ画、フランチェスコ・ダ・ミラーノの絵も綺麗に
       修復されたりで、

       結局、このフレスコ画の方が良い、という事になって、
       ははは、ある意味可笑しいでしょう?!
       ティツィアーノの絵は脇の礼拝堂に収まっているのだそう、
       という始末記でしたぁ!





       こちらがグーグルの衛星地図で確かめた様子
       右下に教会があり、左上にティツィアーノの家のヴィッラ・ファブリスがあり、
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       そうですね、確かに教会からだと前をふさぐ形に、大きな建物があることに!

       シニョーラも言われてましたが、現在は個人の所有のヴィッラで勝手に近寄れず、
       shinkaiが見たように、裏から見る姿しか見えない、という事で、

       リンク先に載せたウィキペディア・イタリア版の最初の写真も、何十年も前のもの!
       という事になります、という始末記でした。





       教会前からの長閑で美しい風景をもう一度
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       ティツィアーノも愛で、欲しがったこの土地の美しさと便利さ
       残された絵も今はこんな状態で、
       家も奥に見える大屋根の上に半分だけ見える、
       という・・、歴史の変遷のお話でした

       



     *****

       水彩+色鉛筆画ブログは、今週はパスさせて頂きま~す!

       復活祭関連で、お出かけ2回、食事会2回、車の検査と続き、
       本当に久しぶりに絵を描く時間が取れませんでした。
       
       まぁ、たまの息抜き、という事で、明日からまた頑張りま~す。

       絵のブログはこちら



     ◆ お詫びを ◆

       19日にアップしました記事のスタイルが、文字がずっと横長になるという
       見にくい形となり、一旦削除しアップしなおしましたが、
       それでも文字もいつもと形も大きさも違い、
       編集しなおしたものの、てんでんばらばらの見っともない面となりました。

       それまでにも2度エキサイトにヘルプ・メールを入れましたが、
       返事がなく、昨夜再度メールを送りましたが、まだ何も・・!

       気になり今朝方早く起き出して来まして、
       ひょっとしてと気が付いた事を実行し、
       前の記事を削除し、再度アップし直しました。

       何とかうまく行きそうですが、この方法だと頂いたコメントと、
       「いいね」が消えてしまいますが、
       どうぞ、ご了承下さるよう、お願いいたします!!
       



     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     

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by italiashiho2 | 2017-04-22 12:31 | ・ヴェネト Veneto | Comments(2)
2017年 04月 09日

   ・・・ 「武器よさらば」 若きヘミングウェイの戦場体験 (写真追加)・・・

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       ヘミングウェイの「武器よさらば」は皆さんよくご存じと思います。
       あの簡潔なヘミングウェイの文体も素晴らしいですし、
       映画にもなっていますので、そちらからもご存知かと。

       第一次大戦のイタリアの戦場で脚を負傷し、ミラノの病院で手術。
       その病院で知り合った看護婦と恋に落ち、脱走し、
       マッジョーレ湖をボートを漕いでスイスに逃れ、
       そこで彼女は出産するも子供共に亡くなる、という粗筋。

       これはヘミングウェイのイタリアでの戦争体験が元に、というのも有名ですが、

       4年前の春、「ヘミングウェイのヴェネトでの足跡」を巡るツァーがあり参加。
       漸くにその時の写真を整理しましたので、へへ、ご覧ください。

       上はイタリア軍の軍服を着たヘミングウェイ、19歳(18歳)




       
       当日最初に行きましたのが、トゥレヴィーゾ南にあるカジエール・Casierという
       コムーネに付属のドッソン・Dossonという町。
       そこにあるヴィッラ・デ・レアーリ・Villa de Reali、17世紀。
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       おっちょこちょいのshinkaiはバスから降り標識を見て、えっ、レアーレ?!
       (王室の?!)かと驚いたのですが、

       いいえの、デ・レアーリ・de Realiという姓のジュゼッペ・マリーア、著名な政治家が、
       もともとはベネデッティーノ派の修道院だったのを改装してあったこのヴィッラを購入。
       その後、その息子のアントーニオ、上院議員、が大きく再建築し、
       13平米の庭を整備したものなんだそう。





       母屋の主体はこんな感じで
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       庭の奥隅に礼拝堂も見えます
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       ウィキペディアから拝借の写真で、礼拝堂の正面と建物の様子を。
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       翼側の建物
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       広大な庭園。 
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       ですが、どうも良く分からないまま、何となしに奥の方に行きそびれ、





       ちょっとした考古学博物館式になっているロッジャの下なぞや、
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       開いている窓から部屋の中を覗いたり・・!
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       この日ガイドしてくださった方は、地方歴史家というのか、
       第一次大戦におけるヴェネトの激戦地についてや、
       今回のヘミングウェイの足跡についての研究家の様子で、

       つまりこのヴィッラは特別ヘミングウェイに関係があるというのではなく、
       戦時中にこのヴィッラは兵隊の駐屯地にもなっていた様子で、
       その時に、彼もここに来て野営した、という関係だった様子・・!

       はぁ、まぁ、ヘミングウェイついでにヴィッラ拝見、とでも。





       漸くにヴィッラの中に入れ、お部屋を見れました
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       古い貴族のお屋敷を拝見に上がると、大抵懐かしい趣の写真があり
       そんなのを見るのが好きですが、今回も美人さんがおられ、
       懐かしいジョヴァンニ・パオロ2世教皇のお顔も!
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      ★ 写真追加 ◆  
       美人さんの写真、と書きながら、へへへ、肝心なのをアップし損なっておりました!

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       で、この女性なのかどうか・・、たぶん写真の撮り方から違うとは思うのですが、
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       デ・レアーリ家の最後の後継者テレーザが、1900年に侯爵ジュゼッペ・ディ・カノッサ・
       Giuseppe di Canossaと結婚し、
       1937年からこのお屋敷はカノッサ家の財産になっているのだそうで、
       現在の所有者は
       グアリエンティーナ・グアリエンティ・ディ・カノッサ・Guarientina Guarienti di Canossa.

       カノッサって、あのカノッサ?! と思われた方、
       はい、左様でございます。 
       あのカノッサ、10世紀からの貴族の家系、トスカーナ辺境伯、マティルデ女伯の下で
       「カノッサの屈辱」事件もあった、あのカノッサ家ですが、
       現在の上の麗々しいお名前の方はどの分枝の方か、存じませんです。


       「モンテクリスト伯」に、カヴァルカンティ・ディ・カヴァルカンティという
       イタリア貴族の騙りが登場しましたっけ、ぷっぷ。
        




       これは美しいお部屋でしょう?
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       でも、この小部屋の感じの方が好きだなぁ・・!
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       これは門扉の所にあった標識で、
       ほらね、「グアリエンティ・ディ・カノッサ」が見えるでしょ?!
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       見送って下さる管理人の方で、掌に入るほどのチビわんこを抱いて、
       やれやれ、野蛮人どもが帰るわい、という所、ははは。
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       我らはそれからバスで少し走り、地図で見ると多分シーレ河・Sileと思うのですが、
       その川岸を歩きながら、ガイドさんの説明を。
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       ですが、川岸の細い道でグループ全体が細い列になっていますから、
       ガイドさんの声はまるで通らず、後ろから付いていく我ら不良どもは、ははは、
       好きなように写真を撮って、時間の過ぎるのを待つばかり。
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       多分、このあたりにも若きヘミングウェイが出没したのでしょうが・・!


       そう、「若きヘミングウェイ」、本当に若かったのです!
       
       1899年7月21日、現在のシカゴ生まれ。 父親は医者、母親は元オペラ歌手志望。
       小学校へはあまり熱意なく通ったものの、ハイスクールで彼が文学に向いていることを
       発見した良き教師2人に出会い、彼らに励まされ、初めて学校新聞に発表。

       1917年卒業後大学には行かず、カンサス・シティでモダンで斬新、公平な記事を
       特徴とした地方紙「カンサス・シティ・スター」で働き始めるものの、
       
       この年4月6日にアメリカは第一次大戦に参戦、ヘミングウェイも仕事を捨て
       ヨーロッパでの戦いに志願するものの、視力の問題から、赤十字の救急車の運転手として
       イタリアへの派遣が決まり、
       2週間の教練と10日間のニューヨーク滞在の後、1918年5月23日ボルドー行きに乗船、
       5月29日上陸、ヘミングウェイ18歳!

       当時アメリカ側から参戦志願した若者たち、大学生の中には、
       ウィリアム・フォークナーやフランシス・スコット・フィッジェラルドなどもいたそうで。

       5月31日パリに。 ドイツの大砲により被害を受けた街並みを見た後、汽車でミラノに。
       何日かを緊急隊で働き、この時に近郊で、空爆を受けたくさんの女性工員が
       死んだ工場を見、彼にはこれが最初に直接に見た戦争での死者だったそう。

       そこからヴィチェンツァに、国際赤十字アメリカ部門のスキーオに配置されたものの、
       もっと戦争貢献と自分の記述のためを考え、短期間ながらもゴリーツィア、
       トリエステ近くのまさに最前線にも。

       が彼の所属していた部門はかなり平穏だったため、もっと実際の戦場に近い場所への
       配置転換を願い、こうしてピアーヴェ河の下流にある、フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ・
       Fossalta di Piaveの近く、塹壕の補助員として配置に。



       地図をどうぞ
       左下に見えるカジエール・Casierの上に小さな赤点がついているのが、
       最初に見て頂いたヴィッラで、その次の川沿いの風景はその東を流れるシーレ河と。
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       東側を流れるのがピアーヴェ河で、この河を挟んで北から南、ずっと大激戦地で、
       上に見えるファガレ・Fagaréには、第一次大戦の戦死者の廟があり、

       地図には見えませんが、ピアーヴェ河を北に遡ったネルヴェーザ・デッラ・バッターリア・
       Nervesa della Battglia、我が町コネリアーノの西に位置するここには、
       もっと大きな戦没者の慰霊廟が。
       
       で、ヘミングウェイが負傷したのがフォッサルタ・ディ・ピアーヴェ
       右下に囲った、ピアーヴェ河が蛇行している所。





       バスに乗り、こんな菜の花畑を見ながら進み
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       ファガレの戦没者慰霊廟に
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       ここに葬られているのは、イタリア兵5191名、これは姓名が分かっている方で、
       身元不明の死者5350名、アメリカ兵1名、オーストリア兵1名と。
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       この部屋は下段に遺留品の展示もありますが、同じ形の部屋内全面に
       四角い廟という部屋が殆ど。
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       管理の方から、なんとも物凄い話もお聞きしたのですが、これはパス。





       そして、フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ。 この一帯が大激戦地だったのですね。
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       途中で戦時中に破壊された教会、現在はきちんと修復されておりますが、
       その前にあったヘミングウェイの写真
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       下に見える説明には、
       一般にはヴォランティアには軍服とか火器は許されないが、
       ここではベルサリエーレの自転車に乗り、銃も付けているし、ポケットに手りゅう弾も。
       だから、たぶんフォッサルタでは小さな戦闘にも参加したのであろうと。
       こういうのは、どこでも行われていたと。





       金属板の碑にあったこの一帯の地図
       ちょうど真ん中、ピアーヴェが湾曲している部分が彼が負傷した場所で、
       その下に橋が架かり、教会も見えますが、
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       橋はこれ。 多分私設の橋なのでしょう、渡り賃を取る料金所が真ん中に。
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       ポー河の下流で一度船を繋いだ橋を渡ったことがあり、やはり料金所があったのですが、
       知らずでそのまます~っと渡ってしまった経験が! ははは。






       土手にこんな鋼鉄の碑
         この土手で、アーネスト・ヘミングウェイ、アメリカ赤十字のヴォランティアが、
         1918年7月8日の夜負傷した。
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       土手から見るピアーヴェ河の湾曲部
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       皆土手を下りて岸辺に近づきますが、上から見つめる18歳のヘミングウェイ
       La guerra di Hemingway・ヘミングウェイの戦争
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       ピアーヴェ河、湾曲部の地図。 濃い赤色の線が塹壕で、
       16の番号のある位置が、彼が負傷した場所。
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       ちょうどあの砂場が見えるあたりでしょうか
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       1915年5月24日から始まったイタリアの第一次大戦。
       1917年の10月頃までは外部にあったこの一帯が、
       イタリア軍が現在のスロヴェニアのコバリード、カポレットの戦い(10月24日から11月9日)で
       惨敗し退却した事から、ピアーヴェ河を挟んでオーストリア軍と対戦することになり、
       一転して最前線となったというのですね。

       「武器よさらば」にも描かれているカポレットの惨敗、退却は大変酷かったようで、
       shinkaiも現在のコバリードに行き、博物館も見学しましたが、なんとも・・!!
       負けが込んでいたオーストリア軍がドイツ軍に応援を求め、ついにドイツ軍が参加、
       毒ガスを用いたのも勝利につながったというのですが、
       博物館で見た写真には、ものすごいのもありました・・。

      
       そして1918年の夏、6月15日から23日にかけ、必死の反撃を掛けたオーストリア軍が
       ピアーヴェ河を渡ることに成功し、フォッサルタの村は全破壊の状態にされたと。
       家から家、1mそして1m、という記述があったことからご想像を!

       そして1918年7月8日の真夜中を過ぎた頃、ブーゾ・ブラート・Buso Burato
       呼ばれたこの湾曲部で、
       オーストリア軍の手りゅう弾がヘミングウェイの近くで爆発、
       または迫撃砲が着弾し、それで手りゅう弾が爆発とも、
       
       近くのイタリア兵一人が死亡、ヘミングウェイも負傷するものの、
       もう一人の負傷したイタリア兵を敵弾の届かない場所まで背負って救助し、
       その後敵の機関銃弾が右足に当たり膝もやられますが、這いずりながら自分も助かり、

       ミラノの軍病院に運ばれ、12回にわたる手術を受け、227に及ぶ破片が取り出されたと!





       これはヘミングウェイが被っていた帽子と身分証? ウィキペディアから拝借。
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       昔読んだ本の解説などでは、第一次大戦に従軍記者として参加、なんぞと
       書かれていたと記憶しますが、
       アメリカ赤十字に所属する救急隊員の補助で、毎日のように塹壕をめぐり、
       兵士達にタバコとかチョコレートとかの援助物資を配る、という事だった様子。

       彼は、自分が負傷しながらもイタリア兵を救助した、という事で、
       イタリア国から軍の銀メダルを、自国アメリカからも戦争十字を授かったと。





       「武器よさらば」に登場するイギリス人看護婦キャサリンとのロマンスですが、

       こちら、ドイツ系アメリカ人アグネス・フォン・クロウスキー・Agnes von Kurowsky
       ミラノのアメリカ軍病院入院中のロマンスの相手だったようで、彼より8歳年上の女性。
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       彼にとってはかなり真剣な恋だったようですが、何せまだ若い19歳。
       儚い3か月間のロマンスと入院が過ぎ、

       彼は一旦バッサーノ・デル・グラッパの戦場に戻りますが、部隊が動員解除となり、 
       近い将来の結婚約束を語りながら、翌年1919年1月21日にアメリカに戻りますが、
       3月、アグネスからイタリア人将校と婚約したことを告げる手紙が。





       アメリカに戻った彼は新聞記者をしながら書き始め、1926年「日はまた昇る」を。

       そして1929年にイタリア戦線での経験を盛り込んだ「武器よさらば」
       現在のモンダドーリ版の表紙には、入院中のヘミングウェイの笑顔が。
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       カポレットのイタリア軍の惨敗、退却、そして脱走が描かれている内容から、
       第一次大戦後のファッシスト党ムッソリーニ政権下のイタリアでは
       出版が1945年まで禁止されていたそうで、

       ヘミングウェイの翻訳で有名なフェルナンダ・ピヴァーノ・Fernanda Pivanoにより、
       すでに1943年に秘密のうちに翻訳されていたものの、彼女はその為に逮捕も。

       
       その後ヘミングウェイはスペインの人民戦争にも参加し、「誰がために鐘はなる」
       そして「老人と海」も。 1954年にはノーベル文学賞受賞


       重傷を負ったフォッサルタ・ディ・ピアーヴェを後年ヘミングウェイは再訪し、
       1950年に「川を渡って木立の中に」に当時の様子を描いているそうですが、
       これは読んでおりません。

       
       切れの良い簡潔な文章で語るストーリーは、アメリカの古典と称えられるそうですが、
       私は若い頃に熱中した上記の作品よりも、「海流の中の島々」が好き。
       自分が年を取ってから読んだことにも因るのかもしれませんが、
       なんとも心に染み入る優しさにあふれた作品と。       
       べたつかない、乾いた人間の感情、優しさが心地良いです。





       ガイドをして下さった歴史家は、フォッサルタの後まだ案内したい場所があったようですが、
       我らは内容の重さに少々疲れ、日も暮れかけるので早く家に帰りたく、
       バスの中で採決しましたら、まだ行きたい挙手は2~3名で、ははは、

       夕暮れ近い川を渡り
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       落日近い平野を走り
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       すでに暗くなったコネリアーノに戻った、「ヘミングウェイの古戦場巡り」でした




     *****

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by italiashiho2 | 2017-04-09 23:47 | ・ヴェネト Veneto | Comments(8)
2017年 04月 04日

   ・・・ ヴェネトの春、 そして ティツィアーノの家 (追記)・・・

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       ここの所春めいた陽射しの日が続いているこちら北イタリア、ヴェネトです。

       日曜にヴェネツィア・メストレに出かけるので、家に戻る前ついでに
       以前から気にかかっていた「ティツィアーノの家」、
       近くのコッレ・ウンベルト辺りにあるらしい家を探してみようと思いつき、
       土曜の夜調べましたら、何と近い! では!! と寄り道し見つけました。

       今回はそのご報告と、ヴェネトの春の野ののどけさを!

   
       上は日曜の朝歩いた時に見た満開の八重桜と、藤の咲きかけ
       陽が昇った後じきの色です。





       さて、「ティツィアーノの家」と呼ばれるものですが、ウィキのイタリア版で
       見る写真はこれで、赤い矢印がついている家。
       背後の山並みから見て、これは南側から撮ったもの。
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       「ティツィアーノ・Tiziano」という名前だけで通じる16世紀のイタリアの大画家、

       学び、工房と家を持っていたヴェネツィアが彼の本拠地だったわけですが、
       ここ、ちょうどヴェネツィアとカドーレの中間に当たるカステッロ・ローガンツゥオーロ
       Castello Roganzuoloにも家を持ち
       旅の行き戻りに寄り、気候温暖なこの地で保養していた、というのですね。

       がその後に知った事は、この家はカステッロ・ローガンツゥオーロの教会の祭壇画を描き
       その支払の一部として受け取った、というので、
       支払いの一部?! 家を?!と驚き、尚の事、どこにあるのか興味を持っていたのでした。





       家は、現在の持ち主から「ヴィッラ・ファブリス・Villa Fabris」と呼ばれており、
       グーグル地図で検索しましたら、何の事はない、簡単に即見つかりまして、       
       我が家(Casa)から車で8分! 歩いても行ける位置!
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       地図の右下、カステッロ・ローガンツゥオーロと赤線で囲った上に打った赤点
       ここにティツィアーノが祭壇画を描いたという教会


       コッレ・ウンベルトへの道を途中で曲がって、それから・・、と頭に入れ、
       木々や丘で隠れていないと良いけれど・・と願いつつ、出かけました。





       心配することは何もなく、田舎道をゆるゆると進むうち
       進行方向右の丘の上に、あっ、あれだ!と見つかり、
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       間の木々が邪魔ですが、今はまだ殆ど枯れ木ですので、良く見えます。





       同じ丘の上に並ぶ大きな農家もこんなふうに見え、
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       周囲は春爛漫という感じで、花が咲き乱れ
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       道を挟んでの向こう側の葡萄畑の畝の間は、タンポポが満開!
       まさに春は黄色から!  
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       立木の上に見える泥棒カササギの巣。 
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       立木越しの姿以外には近寄る方法は無さそう、また出直してもよいかと
       車に戻り、ほんの100~150m程行った所にちょうどこのスペースが有り、
       そこから奥、畑の脇を通れそうな感じ・・! 
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       立っていた表示によると、この辺りはハイキングコースとしても利用され、
       11km~12kmのコースでの水車があるとか、有名なヴィッラがあるとかが
       示されていて、   
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       立木の隙間から見る、辿ってきた道。 のどかな風景でしょう?!
       右奥の大きな農家も、窓の作りなどから見て、古いかなりの農家。
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       ちょうど道のカーヴの所に白い標識が見えますね。
       あそこまでがコッレ・ウンベルトになり、今このshinkaiのいる場所はカステッロ・ローガンツゥオーロ。
       そして車を止めた道脇のすぐ先10mほどには、サン・フィオール・San Fiorと
       お隣のコムーネの標識が見えましたから、
       
       このティツィアーノの家のある丘 コル・ディ・マンツァ・Col di Manzaは、
       コッレ・ウンベルトとサン・フィオールの隙間に細長く飛び出している位置なのですね。





       道の左側にも、古い農家が細長く続くのが見え、
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       しめしめ、ここからだとよく見える、と目指すヴィッラを目指し進みます。
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       同じ丘の並びの大きな農家もこの位置で見え
       傾斜地には葡萄畑と、手前は麦畑。  
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       かなり歩いて、建物全部が見える奥まで入り込み
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       左の大きなのが、きっと最初に建てられたティツィアーノの家・ヴィッラで、
       右に続くのは後からの建て増し部分かも。
       一番右に離れて見えるのが、家の礼拝堂部分だそう。
       持ち主が変わり、内部も少し改装されているそう。 

       どの窓も皆閉じられていて、右に見える入り口の張り出し屋根の上に一つだけ
       明り取りに細く開けられた鎧戸が見えるのみで、

       こういう感じではいくら厚かましくとも、丘を上る気にはなれませんね。
       まして、公開されているヴィッラではありませんので・・。    
    
       まぁ、長年気にかかっていたティツィアーノの家が見つかった、というので納得



       上記した教会の祭壇画の支払いの一部としてこの家を、という事については、
       近年研究が進んで分った事だそうで、詳細が見つかりましたので、ご説明を。

       ティツィアーノの画料は大変高かった、というのはあちこちから知っておりましたが、
       このカステッロ・ローガンツゥオーロの教会から依頼された
       祭壇画の画料は200ドゥカート

       これが現在においてどの程度の価値になるのか、ご存知の方ぜひお教えくださいませ!!
       あれこれ探しては見ましたが分らずで、
       他の絵の画料についてでも宜しいので、教えていただけると有難いです!

     ◆ 追記 ◆

       シニョレッリさんがコメントで教えて下さいました。
       1ドゥカートは約10万円と考えてよかろう、との事ですので、
       200ドゥカートだと、約2千万円ほどですか。      
       なるほど、これだと「ヴィッラと土地」+アルファ、が成り立ちますね。
       シニョレッリさん、有難うございました!

     *****

       祭壇画は1543年に注文され、6年後の1549年に納入されたのですが、
       これはティツィアーノが64歳の時で、数々の名作ですでにイタリアのみならず
       国際的にも名を成した画家が、
       ちょうどこの1543年に、この一帯から2枚の注文を受けていまして、


       カステッロ・ローガンツゥオーロよりも遅く1552,3年に納入された、
       ヴィットリオ・ヴェネトの北側セッラヴァッレ・Serravalleのドゥオーモの大祭壇画 
       456x270cm、こちらです。
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       ティツィアーノがこれら2件の絵画注文を受けた理由として、3点考えられるそうで、

       セッラヴァッレのサルチネッリ家、コネリアーノにもサルチネッリ家の邸宅があり、
       現在は市の絵画展の催しに使われている邸宅で、お金持ちの一族。
       
       で、このセッラヴァッレのサルチネッリ家・Sarcinelliに、
       ティツィアーノの愛娘ラヴィーニア・Laviniaが嫁いでおり、
       ここカステッロ・ローガンツゥオーロからだとほんの数キロの距離で、
       会いに行けるという理由、

       そしてヴェネツィアと生地カドーレとのちょうど中間地点、気候温暖
       風光明媚のこの地に家を持ち、ここを基地にしようとした、という理由。

       基地というのは、画家ティツィアーノはここで保養しながら、

       その片割れの実業家ティツィアーノ、また彼の一族ヴェチェッリオの事業の
       中心管理事務所としての基地なのですね。

       すでに生地ピエーヴェ・ディ・カドーレから南に下ってきた所に一族が持つ製材所が2軒
       ここでの木材をヴェネツィアに運び販売するための管理。

       そしてこのカステル・ローガンツォーロの農製品、穀類、ワインの自家消費以外を
       ヴェネツィアで販売する事、などなど。



       どうやら最初の契約では祭壇画の画料として、土地と家を、という事の様だったのですが、
       かなり大雑把だったのを、ティツィアーノにうまくやられたのではないかと・・!

       1554年8月に祭壇画が納入された後、9月にも分割金を受け取っておらず、
       1556年になって教会の管理者との支払いについての話し合いが漸くにつき、
       今後8年間に渡って支払う事、という物品明細があり、

       ・1スターロ・staro値8リーレの、穀物を5スターロ    =416,585リットル
       ・1コンツゥオーリ.conzuoli値55リーレの、ワインを16コンツゥオーリ   =1248リットル
       ・建築のための資材をフレゴーナ・近くの石材のある場所から運ぶのに
        工人一日の賃金を4ソルドとして、各人に支払う事
       
       とあり、最後にティツィアーノへの支払額が26リーレ不足となり、支払われたと・・!!


       上記したスターロ、コンツゥオーロというのはいずれも計量の分量基準で、
       ローマ期からのものだそうですが、
       スターロは町によって基準がどんどん変わり、ヴェネツィアでは83,317リットル、
       コンツゥオーロは約78リットルだそうで、 

       shinkaiめが計算機をたたいて出た数字が、上の=で、これを8年分です!!

       8年間というのは、ヴィッラ建設を8年間で、という事からの様ですが、

       それにしても、本当に、計算に強い!という気がしません?!
       まさに偉大な画家でもありますが、頭の働きは実業家なのですね。

       こうして彼はこの後24年間を安楽に生き、86歳で亡くなります。
       
       



       丘の上のに広がる林、そして空と雲
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       大快晴の日のちょうどお昼時、逆光でコンパクト・カメラのディスプレイでは 
       何がどれくらい写っているのかも確認できないほど・・!

       う~ん、この雲はティツィアーノというよりは、ゴッホだなぁと、ははは。





       畑の右向こう、葡萄畑越しに遥かに見えるオリアーノ村の教会と鐘楼
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       その右の奥には、はるかフォルメニーガの教会も。
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       さて戻ろうかと振り返る畑の脇道、と言っても麦が植わっていない、という事でして・・!
       立木にも新緑の芽吹きの色が見え。
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       来る時は殆どヴィッラばかりを眺めて入り込んで来たのですが、
       戻りは足元も見つつで、

       たくさん土筆もあるのに気が付き! 日本のよりもずっと大きいのですよ
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       後ろに濃いめの色で見えるのは、立木の向こうの溝で、湧き水が流れているのですね。
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       これはなんという花でしたっけ?
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       葡萄畑の畝の先頭に、勢い良く新芽が伸びる薔薇の株
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       葡萄畑の薔薇の木は、何も美的要素のためではありませんで、
       葡萄の木とよく性質が似ているので、葡萄の病気の早期発見に役立つのだそう。





       可愛い新芽が出てきていて
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       葡萄の新芽を見ると、こちらも何となしに微笑みそうな可愛さ!





       辿ってきた道をもう一度
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       そして、タンポポの黄色、木々の新芽の色
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       道がどこに出るのか分かっているのでそのまま進み、

       道幅が広くなった所で見つけたこの古い家
       奥には大きな新しい家が2棟あるのですが、これは前庭に。
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       下の写真が入口側で、
       




       脇には、藤が咲きかけ
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       そしてこの道の名は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ通り
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       気候温暖なこの一帯、道脇にはオリーヴの畑
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       スコミーゴ村の上り坂の前まで戻ってきて、
       満開の白い花と、広がる葡萄畑
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       家に戻ってきて後、ヴィッラ・ファブリスへの接近方法を再検討、はは。
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       グーグルの衛星写真で、shinkaiが近づいた北東側は、ここでは家の裏側、
       やはり表側、南側には車寄せの前庭もあり、
       左に伸びる並木道が、一般道からヴィッラへの長い並木道で、
       他にはヴィッラへの接続道はないので、やはり近寄るのはちょっとなぁ、との結論。





       所で、肝心のティツィアーノが描いた祭壇画ですが、これです。
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       最初見た時、えっ、何、これ?! と驚いたのですが、
       理由を知り、納得もいきましたので、ご説明を。

       聖母子と、左にサン・ピエトロ、右にサン・パオロ
       画布の大きさは、両聖人が190x57,190x70cm、聖母子が240x80cm。

       祭壇画は注文を受けた6年後の1543年に納められた後ずっと教会にあった訳ですが、

       サンティ・ピエトロ・エ・パオロ教会と知り、教会は知っているけど絵は見てないよね、と
       少し泡を喰って以前の教会内のブログ記事を見直したほどですが、ははは。

       第一次大戦の勃発で、当時の教会の司祭殿がオーストリア軍に奪われては大変と、
       画布を教会の天井の下に隠したのだそう。

       司祭は尋問を受け逮捕もされたのだそうですが、隠し場所は発見されず、無事!

       そして戦争が終わり、無事だった絵も天井下から運び出されたのですが、
       なんと湿気のため、絵の具も剥げ落ちた酷い状態になっており、
       修復しても取り戻せないほどの落剝ぶり!!

       で現在は教会にはなく、ヴィットリオ・ヴェネトのディオチェザーノ聖美術博物館に

       何とかオーストリア軍の没収を逃れようと隠したものの、
       こういう結末になるとは!!

       本当に残念ながら、ティツィアーノらしい切れ味がまるで見られず、
       ぬるっとした肌合いの、そこらの地方画家の絵の出来具合の様で、本当に残念!
       最初はヴィットリオ・ヴェネト(チェーネダ)に見に行こうと思ったのでしたが、
       これでは見に行くほどの魅力を感じませんで・・、失礼。
       
       あれほどの高価な祭壇画でしたのに、勿体無いというか、逆に可笑しくもあり・・!
       兵どもが夢のあと、という言葉も思い出されたりして・・。




       ということで気分を変え、
       最後はお口直しに、イタリアの白い桜をどうぞ!
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by italiashiho2 | 2017-04-04 23:22 | ・ヴェネト Veneto | Comments(6)
2017年 03月 26日

   ・・・ 印象派絵画展 ・ トゥレヴィーゾ行き ・・・

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       先週土曜に、友人のジュリアーナと一緒にトゥレヴィーゾ・Trevisoに、
       今開催中の「印象主義の歴史展」を見に、行ってきました。

       上の入場券には、昨年10月29日からこの4月17日まで、となっていますが、
       5月1日まで日延されたので、気分ゆっくりで。

       が、いつも待ち合わせする場所の、新聞雑誌販売エディーコラの主人ティーノが、
       予約してないと30分待ちとかの超満員らしいよ、と言ったそうで、
       あれま! ・・まぁ、行ってみようと、9時開館に合わせ8時半の電車で。
       で、トゥレヴィーゾに到着したのが9時少し前。

       駅から会場のサンタ・カテリーナ博物館までは歩いて10分位でしょうか。
      
       残念ながら、天気予報では晴れ、曇りが、かなりの曇り空で、


       駅から中心街に向かう感じも、こんな空模様
       これは駅方面に向かって。
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       橋の西側、木々の新芽の柔らかい緑色も見えるのですが、
       少し靄もありどんより、残念!
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       橋を渡り、中心に向かって。  
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       ロッジャでは古本市が開催中
       博物館には、中心に向かいつつ緩やかに右にカーヴを取る感じで進みます。
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       西への道の隙間から見えるパラッツォ・デイ・トゥレチェント
       この前が旧市街の中心広場。
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       先に進みながら、広場横の銀行の建物装飾
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       レオナルド広場にある教会の上部
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       教会入口には「サンタ・リータ教会」としっかり書いてあるのに、その上には
       「サン・レオナルド教会」とも書いてあり、広場はレオナルド広場!
       どっちが本当? ははは。





       博物館前広場、向かいの建物の壁にあった絵
       空を塗るのか、天井を塗るのか、可愛いでしょう?!
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       で、ちょっと見には、2色使いの絵かと見えるのですが、




       実はこれ、金網か、プラスティックの十字網を切り取ったもので、
       濃い色に見える所は2枚重ねてあり、
       デッサンも上手く、アイディアも優秀でしょう?!!
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       という事で、右に見える大きなポスターが、「印象主義の歴史展」
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       脅かされていたにも関わらず、広場にも2,3人見えるだけで、
       入り口にいた管理のお兄さんが、予約済みかどうかを尋ね、
       では、切符売り場はそこですから、とすんなり入場。

       ほら~ね、とニンマリしながら荷物を預け会場に。

       内部にはかなりの人がいて、グループもいましたが、
       近寄って見たい絵の前に人がいれば、少し他を見て戻ればOKという感じで、
       じっくり見ることが出来ました。




       会場内は写真禁止ですので、サイトから拝借ので何枚かをご覧くださいね。。

       ゴーギャンの作品2枚。 初期のと、タヒチに行ってからのもの。
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       初期の肖像は顔色がもっと青白く、でも衣装の色や平面塗りにやはり後年の面影が。
       タヒチでの作品はやはり素晴らしいですねぇ。


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       ヴァン・ゴッホの作品、4枚。 
       この肖像の背景は、これほど強い色でなく、
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       この風景は色もとても素敵だとは思ったのですが、
       shinkaiには、この太陽の描き方が・・! 
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       ジュリアーナは今回この展覧会が2度めなのですけど、
       彼女はこれが大好きで、もう一度見るために私めに付き合ってくれたのでした。
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       これもゴッホ。 タッチは彼独特ですが、全体にもっと明るい色で、
       雰囲気も大変すっきり明るく艷やかで、これは好きでした。     
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       ピサロ。 如何にもフランスの柔らかい光、を想像させるのですが、
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       がさつなshinkaiには正直、ちょっと物足らない感じで・・、失礼。





       セザンヌ。 静物が2枚あり、こちらの方が構図的には良いのでしょうが、
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       好きなのはこちら、はは。 
       この布、エクサン・プロヴァンスの彼のアトリエに確かあったと。
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       ブログの「セザンヌのアトリエ」の記事を見直していて、
       上の静物画のつるの掛かった鉢・花瓶がやはりアトリエにあったのに気が付きました。





       セザンヌの作品は、水浴図も、色が好きだった風景画も2枚かな、あったのですが、
       サイトでは見つからなかったので、
       この風景画を。  
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       ルノワールを2枚
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       この風景の空気感が何とも素敵でした。 
       真ん中の道をゆく女性二人の衣装の黒が少し気になりましたが・・。  





       はい、これが来ておりました。 見れるとは知らずに行きましたが、
       やはり素晴らしかった!   
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       もう一枚小さな女の子の立ち姿があったのですが、こちらは如何にもで・・、失礼。





       モネ、5枚

       柔らかい色調で、溶け込むような風景を締める、手前の立木の影。
       こんな黒い色ではなく、濃い緑色。
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       エトルタの岩礁
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       藁山。 雪の影響
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       先日大快晴の日に、直射日光を浴びながら歩いた時、紫外線よけのメガネを通し、
       陰の中の色が赤くなるのを実際に体験した所だったので、この色は良く分かりました、はい。
       ただ雪景色とはいえ、この影の色が少し分からないのですが・・。





       睡蓮。 
       これは全体にもっと白っぽく明るく、とても美しかった!
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       岩礁の上の散歩
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       今回の展覧会で、いちばん好きだった絵。
       岩の陰の色が上手く働き、全体がとても明るい空気の中で、ピンクのパラソルが
       ピッと効いていますねぇ。


       油絵を描き初めたむか~し昔、印象派の絵がやはり印象が強く、はは、
       画集で見てはため息をついたものでしたが、いつの間にか好みから外れ、
       逆に好きでは無くなっていたのでした。

       が、近年印象派の展覧会を見るチャンスに接し、改めて今になって見ると、
       なんと、自分は印象派的なものを描いているんではねぇの?!と気が付き、ははは、
       今度は学ぶ目で見はじめ、以前よりも良く分かる部分もあり、
       そうなるとやはりモネに惹かれるのですね。

       広がる世界、空気の明るさ、柔らかさ・・!!

       描くモチーフも、使う画材も違いますが、学ぶ目で見れる絵があるのは嬉しい事!
       日本よりも展覧会のチャンスも作品数も多いので、これも有難い事です。

       
       今回の展覧会に来ていた作品数は確か80点余りと。
       トゥレヴィーゾ生まれのマルコ・ゴルディン・Marco Goldinという
       敏腕の展覧会企画者がおりまして、
       彼が関わる、とりわけ印象派関係の展覧会は内容が濃く、成功していて、





       所で昨年は日本とイタリア通商条約150周年記念で、様々な催し、展覧会が
       開催され、ミラノでは浮世絵の大きな展覧会が有りました。
       友人と一緒に行こう、と言っていたのがなんとなしに潰れて残念だったのですが、
       なんと今回のこの展覧会に、浮世絵が何枚が一緒に展示されておりました。

       ゴッホなどは浮世絵の模写をしているのでも有名ですが、
       当時のヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えた浮世絵という事で
       展示になったのでしょうが、

       ミラノでこれは見たい!と思っていた葛飾北斎のこれが!
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       紙の色が焼けたようにかなり茶色になっていたのは残念でしたが、
       初めて実物を見ることが出来ましたし、




    
       広重の東海道53次のも何枚かあり、サイトで確かめましたが7枚は確実に見ており、
       他にもあれこれの作品を見ることが出来、

       この「御油」の宿の女中さん達の客引きの様子などもジュリアーナに説明し、
       大いに笑ったことでした!
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       改めて、初めて見るこれらの版画で、何とも美しい日本字に感嘆し、
       版画彫師のその腕にも思いが行ったことでした。





       じっくり2時間程を楽しみ、中庭におりてくると少し薄日が差してきており
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       ゆっくり運河辺りに行こうか、と出てくると、




 
       きゃはは、表には長蛇の列が出来ていて、うぁ~お!!
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       そうなんだ、やはりティーノの30分待ちというのは嘘ではなかったね、と満足し、
       まだまだ博物館に向かってくる人々の様子を見ながら、
       我らは博物館から引き上げたのでした。

       運河沿いの春景色は、次回に見て頂きますね。
       



     *****

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by italiashiho2 | 2017-03-26 00:37 | ・映画絵画文学 Film Arte Le | Comments(5)
2017年 03月 21日

   ・・・ エンリコ・トーティ ・ イタリアの英雄、潜水艦と、その運搬 ・・・

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       さて今回はちょっと変わったお話しを
       というのも、先日来ご案内してきたクレモーナ・Cremonaに関係し、
       かってポー河を使っての商交易の河の港で大変栄えた、と知った時、
       あ、あれ、と思いだしたもので、
       写真やYoutubeがあれこれ見つかりましたので、皆さんにも!

       タイトルのエンリコ・トーティ・Enrico Totiというのは、
       イタリアの第一次大戦時の英雄の名であり、上の写真の方ですが、

       彼の名を冠した潜水艦があり、
       その艦が退役した後ミラノの博物館に贈られ、現在はそこで余生を過しているのですが、
       
       なにせ大きな潜水艦ですので、運搬が一大事業だったのですね。

       昔12年前、ははは、TVニュースで、ミラノ市中を運ばれた、というのを
       思い出し、それでYoutubeを探しましたら、あれこれ見つかり、
       どの様に運搬されたのかを、シツコクしつこく、ははは、
       子供みたいに、なんで?どうやって?と読んだという・・。

       ご本人のエンリコ・トーティについても、戦時の英雄という以外にも
       へぇ~!というような事を知りましたので、それも一緒に。




       エンリコ・トーティという方、上の写真をご覧になって、
       彼の左脚が付け根から無い事に気が付かれましたか?
       そうなんです、仕事中の事故で左脚を失っている方なのでした。

       こちらの絵葉書をどうぞ。
       エンリコ・トーティ - Ciclista・自転車乗り
       Futuro Bersagliere・後のベルサリエーレ  とあり、
       下に
       1882年8月20日生まれ、 両親の名と出身地があり、
       父親は鉄道員だった様子。
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       ローマ下町の生まれで、15歳の時に見習い水夫として実習船に乗り込み、
       その後戦艦、巡洋艦と乗り継ぎますが、22歳の時紅海で海賊船との戦いに遭遇。
       後除隊し、国鉄に火夫として採用されますが、
       26歳の時に連結作業中の機関車に注油をしていた際、足を滑らせ左脚を挟まれ、
       病院で骨盤の下から切断という事に。

       仕事を失った後、トーティは幾つかの小さな発明品を作ったりしますが、

       ここで絵葉書の右にある地図をご覧ください。
       29歳の時、片脚で自転車を漕ぎながら、イタリアからパリに行き、その後
       ベルギー、オランダ、デンマーク、そしてフィンランディア、遂にはラップランド迄!
       戻りには、モスクワ、ポーランドと回り、1912年の6月にイタリアに戻ります。

       どうやってアルプスを越えたのかと、それだけでも大変な冒険談英雄並と思うのですが、
       翌年1913年1月には、今度は南に向かって出発。
       エジプトのアレッサンドリアからスーダンとの国境まで!
       ここで当時駐在のイギリス行政からあまりにも危険であると止められ、
       カイロまで送り返され、イタリアに戻ることに。





       1914年の夏、第一次大戦が始まると、勿論徴兵から外されますが、
       トーティは片脚で自転車にまたがり、直接に最前線のフリウリのチェルヴィニャーノに向い、
       民間志願兵にはなるのですが軍の星章なしで、警察のパトロールに止められ、
       市民生活に戻されます。

       が、2年後1916年1月に念願叶い、やはりフリウリはチェルヴィニャーノ・Cervignanoの
       民間志願兵ながら、ベルサリエーレ・bersaglieri・歩兵狙撃兵の自転車部隊連隊に
       そして4月に戦闘が始まると、部隊の少佐からベルサリエーレの羽飾りの付いたヘルメットと
       星章を授かります。 
       トーティにとっては、心から待ち望んだ物だったことでしょう!


       そして8月イゾンツォ河の6回目の戦闘で、トーティはモンファルコーネ東での
       戦闘で戦い、なんども負傷しながらも、
       最後は「俺は死なないぞ!」と叫びながら松葉杖を敵に投げつけ
       その後に撃たれ戦死。 34歳。
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       この英雄的行為が、オーストリアからの独立を掛けた国民を奮い立たせたに違いなく、
       今もって彼の名は、知らぬ人なし、という感じなのですね。
       
       この一帯はまさに第一次大戦の一進一退を続けた激戦地で、
       今も無数の塹壕が残りますが、
       クオータ85・Quota85と名付けられたこの地点、林の中から海が望めるここには、
       彼の名誉を記した石碑があるそう。





       トーティが入りたかったベルサリエーレというのは、黒い鶏のつやつやの羽をヘルメットに付け、
       ・・一般兵士の羽の数は大体50本だそうですが、下士官、将官クラスは100本位と!!
       その軍楽隊は走りながらラッパを吹くというので有名、大人気な部隊ですが、
       元々は狙撃部隊というのは、知りませんでしたぁ。
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       それにしても、黒い尾羽根を持つ鶏君、丸裸にされても一人分のヘルメットに
       足りるだけの尾羽を持っているんでしょうかね?! ははは。




       という様に、彼はイタリアの英雄として有名でして、
       将軍などのえらい方ではなく、民間英雄としての意味が大きいと思うのですが、
       
       こんなふうな銅像とか、
       " NUN MORO IO " というのは、Io non muoio・俺は死なない、と叫んだ言葉。
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       大都市などには彼の名を関した道路がありますし、
       shinkaiめも、ずっと以前から彼の名は知っておりました。
       ただ第一次大戦時の、松葉杖を敵に投げつけて戦士した英雄と云うくらいの知識でしたが、
       今回はそれ以前の、片脚での自転車旅行などについても知ったという訳で、




       こちらはローマのベルサリエーレの博物館にある、
       彼の自転車と松葉杖。
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       という所で、潜水艦に話題を移しまして、

       こちらは最初に彼の名が冠された1928年進水の潜水艦
       実習船、運搬を兼ねていた様ですが、1940年にイギリスの潜水艦の攻撃を受け沈没!
       イタリアの潜水艦で唯一敵艦に攻撃されて沈没したものだそう。
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       それにしても、こういう艦にエンリコ・トーティという、戦時の英雄の名が冠されると
       いうのが、如何にトーティがイタリアで親しまれた英雄であったかがよく分かり、
       まして、2代目の戦後初の潜水艦の名に受け継がれるというのも、
       何となく微笑ましい感じを受けるのは、私だけでしょうか?





       そしてこちらが、今回の主人公である、エンリコ・トーティの2代目
       第2次大戦後の平和条約により、潜水艦造船を禁止されたイタリアが
       漸くに造船を許され、自国の持つテクニックを最大限に活かし
       1965年に造った最初の潜水艦、エンリコ・トーティ S506
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       長さ46m、幅4,75m、総重量536トン、潜水出来る深さ150m。 
       詳細については、日本語版ウィキペディアにありますので、どうぞ。 
       ただ名前が、エンリコ・トーチとなっていて、・・ちょっと切ない!
       

       所で、単純に「潜水艦」と書いておりますが、
       潜水能力によって2つに別れるのだそうで、
       このエンリコ・トーティは、Sommergibile・ソンメルジービレと呼ばれる型で、
       主に水上航海をし、潜水も出来る、というやつ。
       日本語ではどう呼ぶのでしょう?

       潜水艦・sottomarino・ソットマリーノ、英語で言うサブマリンは逆に、
       潜水航行が主で、水上航海も出来る、という違いがあります。

       イタリアが戦後造船を許されたのは、そのソンメルジービレだったという事で、
       潜水進行の静かさが売り物で、UATOの共同演習などで大活躍だったそうですが、
      
       約30年の現役サーヴィス、2万7千時間、137マイルの航海ののち
       トーティは1997年9月に退役となり、
       ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館に寄贈されることに。
     
  
       そしてここからの道のりが、長かったのです!!
       




       2001年潜水艦トーティは基地にしていたシチーリアのアウグスタ・Augustaから
       曳航され4月5日に出発
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       一旦ターラント・Taranto、ここには大きな軍港があり、そこに寄ってのち、
       85時間の航海後、ヴェネトのキオッジャ・Chioggiaに4月20日到着
    




       ここから5月4日、こんな風に水門を通ったりしながら、ポー河を遡り、 
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       クレモーナの河の港に到着、5月6日
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       こちらはクレモーナで水中から引き上げられたトーティの船体
       上の写真でも見られるように、かなりあちこち草臥れている様子で・・!  
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       ここでトーティはしっかりと整備され、余分なものは排除され身軽にもなり、
       第2の人生に向けてのお化粧直しもされますが、
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       ここでミラノへの、この超重量級運搬物の技術上の問題も含め、
       様々な問題解決が探られる間、トーティは4年間待ったのです!





       こうして遂に2005年8月8日、トーティは陸路の航海を始めます。
       
       この写真で、どういう状態で運ばれたかがよく分かると思うのですが、
       この為に造られた2台のトレーラーと言ったら良いのか、700馬力、240のタイヤ付き
       乗せられた458トンのトーティ。 高さは7m
       このトレーラーは別々に向きを変えることが出来、これで道の角を曲がるのですね。
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       艦橋というのか、上の部分は外され、後ろに別に積まれており、
       交通事情を考え、すべて夜の運搬でしたので、昼間はご覧の通り大勢の見物人!




     
       興味が湧いて、どの道を通ったのか、ははは、地図を調べてみました。
       クレモーナからミラノの博物館まで大体95kmだろうと思うのですが、
       車だと一般道路にしても2時間弱で走れる距離を、
       トーティは夜の道を4日間かかって博物館まで運搬されました。
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       ピッツィゲットーネ・Pizighettoneや、クレーマ・Cremaなどの地名が見え、
       懐かしかった。 この辺りも行き、写真も取っているのですが、そのままになっていまして・・!

       ミラノ郊外Via Rogoredo・ヴィア・ロゴレードでは、地下水の集合管が走っているので、
       重量を支えきれないだろうと、仮の移動橋を掛けた所、
       Via Toffetti・ヴィア・トッフェッティは、ミラノ市内通過前夜の宿泊場所で、
       見物人がわんさか集まった所なんだそう。
   
       最後の赤点を打ったカーブは、これはYoutubeでご覧いただけますが、
       ここも地下を運河が流れているので、仮橋を造り渡リ、そして左折した
       最大の難関地点。





       この仮の駐車場は、多分クレモーナから出発して最初のコルテ・マダーマ・Corte Madama
       という田舎と思うのですが、30キロの距離を6時間かかったそう。
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       ここで2日間を過したそうですから、日中は見物人が引きも切らず、押しかけた事でしょう!




       11日にはクレーマを通過する時ロータリーがあり、中央分離帯を飛び越すのに、
       用意していた木の棒を敷き、無事通過。
       
       翌12日はまさに出発時間の21時には本降りの大雨となったものの、
       見物人は傘をさし減ることなく、ずぶ濡れになりながらも満足して見物を。
       今や通り過ぎる潜水艦を見るというのが流行病になったかのごとく、と書いてありましたが、
       
       これはこのトレーラーを運転していたジャンニ・Gianniとフランコ・Francoの
       ベテランの運転手の長い経験においても、自分達の仕事ぶりをこんなにたくさんの
       人々の中で行い、見つめられるのは驚きであった様子で、

       警察、技師、博物館関係者、運転手、テクニコ、軍関係、そして見物人と、
       今や皆が一段の集団となり、お互いが顔見知りになった感も、とありました。

       そしてミラノの地下を1407kmに渡って流れる運河の集合管地点を、
       仮の橋を渡し無事に通過、9時間5分かかり、
       13日の朝6時10分、ヴィア・トッフェッティ、最後の宿泊地に到着




       14日、これがミラノ市中入りを前にしたトーティの晴れ姿と思うのですが、
       イタリア国旗の真ん中の白地に、かっての海軍都市ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、アマルフィの
       紋章が入ったイタリア海軍旗を付け、
       大勢の見物人に囲まれた、晴れやかな姿。
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       14日の夜から15日の朝にかけ、最後の行程、いよいよミラノ市中を、
       15万人のミラノ市民が迎える中を通り、トーティは無事、博物館に到着
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       Youtubeはあれこれご用意いたしましたので、ははは、どうぞ!

       トーティ、ミラノに。 8月の夜の旅。   5分間

       潜水艦トーティがミラノに。 10分弱。 仮の橋造りの場面や、日中の通りの様子も。

       潜水艦がタイヤの上に。 迎えた博物館のヴィデオ。

       運搬を請け負ったファジョーリ・Fagioliという会社のヴィデオ。 総まとめ

       
       ヴィデオを見ていると、舳先が先になって進んだり、スクリューが先になったりで、
       最初見た時はなんで?!と意味がよく分かりませんでしたが、
       トレーラー2台が分離し、角を曲がる時は途中迄カーヴを切った所で
       今度は逆に後ろだったほうが頭になって進む、という事だと了解。

       それで昔TVニュースで見て記憶していた、街中の直角のカーヴを
       あの長い潜水艦が見事に曲がった時は、真夜中にも関わらず集まっていた
       大見物人から大きな拍手が起こった!というのも、納得した次第。・・今更ですが、ははは。
   
       トレーラーのタイヤがそれぞれに動き、潜水艦がかなりトレーラー本体から乗り出す、
       外れた感じに見える場面が幾つかあり、見ていてハラハラしたりで、はは、
       ・・shinkaiは、こんなの見るのが大好き!!





       という事で、現在はミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館に収蔵され、
       余生を送っている、イタリアの戦後初の造船、英雄名を冠されての
       エンリコ・トーティ潜水艦の姿
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       内部は大変狭いそうですが、上が内部、下が魚雷の制御器。
       内部見学も出来るそう
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       喋りっぱなしのヴィデオですが、内部の様子もちょっぴり見れるので、
       お暇な方どうぞ。 はは。


       と云うような、英雄と潜水艦、そしてその運搬のお話しでしたぁ
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       いつかミラノで時間が取れる時は、博物館にトーティに会いに、
       まだ実際には見たことがない潜水艦内部も見たいもの!



       ◆ おまけ ◆
       トーティの運搬を請け負ったファジョーリという会社は、大物重量級運搬専門のようで、
       ヴェネツィアの大運河に掛かる第4の橋、ピアッツァ・ローマ前の橋の橋桁を運んだのも
       この会社のようで、ヴィデオが見つかりました。

       大運河の南、デッラ・サルーテ聖堂の前から入り、アッカデミア橋、リアルト橋、
       そして駅前のスカルツィ橋を潜り、現場に到着し、橋桁を繋いでいく様子が見れます。

    



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by italiashiho2 | 2017-03-21 02:17 | ・ご挨拶・番外 Saluti Speci | Comments(4)
2017年 03月 16日

・・・ ヴァイオリン博物館・クレモーナと、 ヴァイオリン、ストラディヴァリのあれこれ (再追記) ・・・

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       クレモーナ訪問の時に、2013年に開館した新しいヴァイオリン博物館を見ましたが、
       余り時間が取れずで、おまけにストラディヴァリの視聴が出来る、と聞いていたのが無しで、
       いささかがっかりで戻ったのでした。
       が、その後あれこれ調べているうちに、ヴァイオリンと言うものにすっかり嵌まりました!

       実際の演奏会には行ったことは少ないのですが、弦楽器全般、そしてヴァイオリンの
       音色は昔から大好きで、今も毎日絵を描く時にはBGMに常にCDを掛けて聞いています。
       で、今までは余り考えたことがなかったヴァイオリンという楽器そのものについて
       知り始めると大変に興味深く、もっともっととあれこれいつもの芋づる式に・・!

       という事で、何とか上手く纏まるよう、お伝えできるよう頑張りますので、
       よろしくお付き合いの程を!

       

       新しい、クレモーナのヴァイオリン博物館入り口
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       上記したように、ここは2013年秋オープンで、以前のストラディヴァリ博物館があった
       パラッツォ・アッファイターティ・Palazzo Affaitatiから移された楽器や
       ストラディヴァリの遺品の展示など10室の展示室、そして新しい音学室と、
       素晴らしいもので、ゆっくり時間があれば、と思ったものでした。




       前庭にあったストラディヴァリの像
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       こちらは建物の中庭にある、五線譜を使った鋼鉄の像
       スペインのプレンサ・Plensaという人の作品とか。
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       下はサイトで見つけた写真ですが、・・こういうのは、どうも、ですねぇ・・。





       こちらは博物館の中の一室、「宝の宝庫・Lo scrigno dei tesori」と呼ばれる部屋。

       この博物館のお宝である、1715年ストラディヴァリ作のクレモネーゼ・Cremonese
       初めとして、アマーティ・Amatiや グアルネーリ・Guarneriの作品
       1556年から1734年にかけての、全10点が収められた部屋。
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       壁も床もしっとりと布張りで、一つ一つの楽器がガラスケースに入っており、
       多分湿度調節とか様々な設備が施されているのでしょう。

       たまたま我々が行った時、最初のケースが空だったのですが、
       そのうちに一人の男性が持ってきてケースに入れ、それに続いて来た小グループに
       フランス語で説明しているのが聞こえましたから、視聴もあったのかも・・!

       博物館のお宝であるクレモネーゼは、この部屋の一番奥の真ん中に、
       ケースが明るく見えるのがそれですが、
       後ほども少し詳細に。




       こちらはズッカ・カボチャと呼ばれている、ははは、ヴィデオ視聴室で、
       中は暗く、円形状にそって椅子が並び、天井に映る音楽ヴィデオを視聴出来ましたが、
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       う~ん、いくら良い試聴室でも、ヴィデオではねぇ・・!




       こちらは新設の音楽室で、464人収容、真ん中で室内楽やソリストの演奏ができ
       ここの設計実現には日本の技術者トヨタ・ヤスヒサさんという方が携わったと。
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       博物館には他に、楽器店の科学的研究や診断も出来る工房が開かれたそう。

       博物館のサイトは http://www.museodelviolino.org/
       日本語版もありますし、右にはヴァーチャル・ツァーも出ます。





       さて、ヴァイオリンという楽器の歴史ですが、
       これについてはYAMAHAのサイトに分かりやすく載っていますので、ご覧頂き、
       
       イタリアで、というよりも歴史に残るヴァイオリン製作者の最初として名が挙がるのが、
       ガルダ湖畔サロ出身のガスパーロ・ダ・サロ・Gasparo da Salò
       そしてクレモーナのアンドレア・アマーティ・Andrea Amatiですが、

       こちらが上記のYAMAHAのサイトにあった、1565年頃のアマーティの作品
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       当時のヴァイオリンは、現在のと比べて指板、左手で弦を抑える板の部分
       短いのにご留意下さいね。
       
       
       が、上のヴァイオリン博物館のお宝の部屋には、1556年のアマーティの作品も、と
       帰ってきてから知る、見てない馬鹿が感じるこのちょっぴりの無念さ!
       




       通常ヴァイオリン発明者と言われるガスパロ・ダ・サロについては、こちらに

       彼は20歳の頃に父親が亡くなり、それでサロからブレーシャ・Bresciaに移り
       当時音楽が大変盛んだったブレーシャで活躍したらしいのですが、
       彼が作ったというヴァイオリン、これはまだ彼の作とは断定出来ていない様子ですが、

       大変に美しいオレ・ブル・Ole Bullというのを見つけました。
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       指板にも装飾が入り、少し長いようですし、裏板装飾も凝っていますが・・、
       ブレーシャではガスパロの作品としての研究が進んでいるようで。





       所でヴァイオリンは15世紀に登場した時、既に、現在の形とほぼ同じ形
       現れたのだそうで、故に後に改良されたのはほぼ僅かな部分と言われますが、
      
       古いタイプをバロック・ヴァイオリン、新しいのをモダン・ヴァイオリンと呼び、
       それの違いは、これもYAMAHAのサイトにあった図がとてもわかり易いので使わせて頂き、
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       つまり、かって室内楽で使われてちょうど良い音量であったヴァイオリンが
       大会場で使われるようになり、また高音が多く出やすいように改良したのがモダン・ヴァイオリン。

       高音がもっと弾けるように指板が長くなり、駒を高くし、ネックも少し傾いていて
       これは弦の張力を増し、音量を高く、輝きを増す為なんだそう。
   
       そして、胴の厚みは減っているようですし、かっては脇からすっと丸かったのが、
       現在のは一旦少し薄くなり、それから丸みを増しているようですね。





       こちらは1628年のニコロ・アマーティの作品で、彼はストラディヴァリの師匠として知られますが、
       これも指板が長いので、現代風に改良されている様子。
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       アントニオ・ストラディヴァリの肖像。 
       300年前に彼が作ったヴァイオリンが今も比類ない物と賞賛される人物。 
       1644年~1737年と、93歳の長寿を全うし、亡くなるまで作品を作り続け、
       現在残る彼の作品は、全制作の約半分の500~600とも!
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       これがヴァイオリンの表板のF字孔から見える、ストラディヴァリの制作証明の紙片で、
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       こちらの2番めに見える、Antoniusu Stradivarius Cremonensis
       Faciebat Anno 1667 がそれで、
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       Antoniusu Stradivariusというのが、Antonio Stradivariのラテン語名で、
       クレモナのアントニオ・ストラディヴァリの事。
       2行目が、1667年に作った、という証明書という訳。

       1番上のAntoniusu Stradivarius Cremonensis Alumnus
       Nicolaij Amati,Faciebat Anno 1666は、
       Nicolò Amatiの弟子であるアントニオ・ストラディヴァリが作った、という意味で、
     
       この紙片がストラディヴァリがニコロ・アマーティの弟子であった、という唯一の証明なのだそう。


       それにしても、頭に166 迄が入った紙片を何枚印刷させていたのか知りませんが、
       最後の6を8に変えたり、ははは、かなりしっかり使い尽くした、という感じですねぇ。

       
       と、最後に丸印がありますが、この形にご留意下さいね、後ほどまた。





       こちらがヴァイオリンの各部の名称で、
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       そして、ヴァイオリンのお腹の中! これでバス・バー(力板)と魂柱の位置がよく分かります。
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       バス・バーは表板を補強するために、そして低音の響きを強め、安定させると言い、
       魂柱は、駒を通って表板に達した振動を裏板に伝えるのだそう。

       この魂柱をイタリア語ではアーニマ・anima・魂と呼び、ヴァイオリン製作の一番最後に
       F字孔から入れるんだ、というのは、友人のご主人、やはりクレモーナでヴァイオリン製作を
       学んだ人から昔聞いており、
       今回これを思い出し、どうやって入れるのかをYoutubeで探し回りましたが、

       この魂柱の位置をほんの少しずらすだけで、まるで音が違ってくるのだそう!
       その意味でも、まさに最後の一点の仕上げ、画竜点睛とも言える、
       アーニマ・魂の呼び名に恥じない、6cm程の小さな円柱ながら大きな働きをする物。

       このヴィデオは後で、モミの木の所で一緒にご覧頂きます。


       そうそう、ヴァイオリン制作に使う木材は膠で接着しますが、
       膠はウサギの膠とも、魚の膠というのも出てきましたが、
       魂柱、駒、緒子掛け(ボタン)は膠では留めず
       とりわけ魂柱、駒は音の質の違いを聞きながら、動かすのは上記の通り。


       




       という事で、ヴァイオリン製作のための、各パーツ
       この写真はクレモーナの店にあったお土産物の小さなセットでして、へへへ。
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       1.ヴァイオリンの型で、これによって横板の型を作ります。
         この内型方式がクレモーナ式、イタリア式なんだそうで、
         フランスでは外型から作る方法も考案されたとか。
       2.緒子掛の止め穴用。
       3.4.横板  
       5.表板    モミ
       6.F字孔
       7.バス・バー(力板)  モミ
       8.魂柱    モミ
       9.裏板    カエデ
      10.竿受け (正しい言葉を知りませんで)
      11.縁飾り、象嵌細工
      12.13.14.15.ネック、竿の渦巻き  カエデ 
      16.糸巻き
      17.上駒
      18.指板   黒檀
      19.駒
      20.緒子
      21.緒子の留め板
      22.緒子掛の留めボタン エンド・ピン

       という事で、イタリアでは表板にモミの木、赤モミの板を用い、
       裏と横板にはカエデが多い様子。
       が、あるYoutubeでみたリュータイオ・liutaio・弦楽器製作者は
       一般にはカエデだがこれはポプラだと、手元の一台を指しましたので、
       その辺りは製作者により、事情により様々な様子。


       ヴァイオリンの製作工程については、あれこれYoutubeで見つけましたが、
       日本語版 https://www.youtube.com/watch?v=x6MO32VDZ0U
       イタリア語版 https://www.youtube.com/watch?v=42nPLiwtjGQ

       これは1時間近い長さですが、何とも素敵なヴィデオで惚れ込んだもので、猫ちゃんも登場です。





       モミの木は、北イタリアのトレントの山中、ヴァル・デル・フィアンメ・Val del Fiamme
       のもの、というのをYouitubeで見つけましたので、こちらを。

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       このヴィデオの最初に、魂柱・アニマの説明、ヴァイオリンに挿し込む場面がでます。 
       音楽がアフリカ系のが聞こえ、このあたりが?と疑問ですが、ははは。

       後半にヴァル・デル・フィアンメのモミの森が映り、この森は「響く森」と呼ばれており、
       モミを掌で叩くと見事に反響する場面があります。
       説明しているのはイタリアのヴァイオリン奏者ウーゴ・ウティ・Ugo Utiで、
       ヴィヴァルディもここに来て、木を選んだのだと云います。
   
       彼はストラディヴァリとグァルネーリの両方のヴァイオリンを使っているのですが、
       その音質の違いを、ストラディヴァリは明るく透明、太陽性であり、
       一方グァルネーリは強く暗い情熱を感じ、ロマンチックだと言うような説明を。


     ◆ 再追記 ◆

       このモミの木は伐採後、5年から10年自然乾燥させたものを使い
       5年以下の木材を使うことは無いと。

           ***

       トレンティーノの山中に暮らしたマーリオ・リゴーニ・ステルンの本
       「野生の樹木園」みすず書房、この本も友人から戴いた物ですが、
       ふと思いついてモミの木の記述を探しました。
       少し長くなりますが、抜粋してみます。

       ヨーロッパトウヒPicea excelsa、通称アカモミは人生を共にしたとも言うべき樹木で、
       いつも私のそばにあった。   中略
       子供のころ、植樹祭で、戦禍をとどめる広大な伐採地に植えられるのは、必ずアカモミ
       の苗木だった。   中略
       種子はフィエンメ谷の森林から取り寄せた。一家言ある人達によると、そこはアルプスじゅうで
       もっとも美しい森であり、アルプスじゅうでもっとも優良な種子を産出するとのことだった。
             中略
       独特の性質をもった、昔からずっと「響きの木」と呼ばれてきた種類があって(樹皮を剥くと、
       幹に沿って一定の間隔で小さな突起がついているのがわかる)、この木は月の満ち欠けにあわせ、
       細心の注意を払って伐採し、寝かせ、挽く(伐るのは必ず満月の直後。数年、寝かせたのち、
       満月から新月にいたる間に挽かなくてはならない。生き物である木材を、より丈夫にする知恵である)。
       こうして出来上がった板を使って、楽器職人は弦楽器の共鳴胴を作る
             中略
       マツ科に属するアカモミは、都会の人にかぎらず多くの人から、誤ってマツと呼ばれる。
       マツと云うのは、また別ものである。
      
                ***



       ストラディヴァリは最初ニコラ・アマーティに師事し、彼の工房で働いていたようですが、
       1680年36歳の時家を買い、工房を持ち、ここでの制作を亡くなるまで続けます。

       師のニコロ・アマーティが1684年に亡くなり、息子のジローラモ・Girolamoが跡を継ぎ、
       彼は父親の最後の20年ほど仕事を救け重要な存在であったにも関わらず、
       それまでの工房の仕事の質を保ちつづけることが出来ず、
       重要な仕事の注文はストラディヴァリに自然に回ってきたと云う様子。
       
       同時代にアンドレア・グァルネーリ・Andrea Guarneriが活躍し始めますが、
       息子のバルトロメーオ・ジュゼッペ・アントーニオ・Bartolomeo Giuseppe Antonio
       通称デル・ジェズ・Del Gesuの方が有名ですね。


       デル・ジェズという通称を、「神の如き」と書いてあるのも見ますが、文字ではそうですが、
       これは上でご説明した、ヴァイオリンの中に付ける紙片の制作証明の丸印に
       彼は IHS と記したことからなのだそうで、
       これはジェズ(キリスト)をギリシャ語で表した最初の3文字と。
       まぁ、本人がどうしてこの3文字を選んだのかは分かりませんが・・。
       
      
       と、イタリア語で弦楽器の製作者の事をリュータイオ・liutaioと呼びますが、
       これはリュート・liutoに由来し、リュートははじく楽器でヴァイオリンはひきますが、
       同じ弦楽器という事で、同じ製作者がつくったのでしょうね。


       ストラディヴァリは約70年間ほどを弦楽器の制作に打ち込み
       最初の妻との間に6人の子を儲け、54歳で最初の妻が亡くなると翌年再婚、
       この妻との間にも5人の子を持ち、はは、お元気ですねぇ!

       息子のフランチェスコは全面的に父の仕事を手伝い、もう1人のオモーボノは部分的に。
       ですが父親は圧倒的に仕事を支配、息子には全部の仕事を任せることはほんの時々で、
       それも安い仕事を一般に任せたのだそう、ははは。

       こうして1700年から1720年代に掛け、彼が56歳から76歳の時に当たりますが、
       いわゆる彼の黄金期で、仕事に脂が乗りきった、良い作品が次々に生まれます。

       師の影響から完全に抜け出し、彼独自の少し大きめの形となり
       ニスの色も師の柔らかい蜜色から、茶-オレンジ色に
       楽器の音も豊かに、力強く、表現がたやすく、と変わります。




       当時の作品で有名なのは、1704年のBetts, 1715年のAlard,

       そして、このメッシーア・Messiaなどがあり、
       これは現在イギリスのオックスフォード大学のアシュケナージ博物館収蔵と。
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       そしてこれは、イタリアの国宝並なんだとどこかで読みましたが、
       メディチェオ・Mediceoと呼ばれるもの、何処にあるのか写真のみ見つかりましたが・・、
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       そしてこちらが、クレモナの博物館のお宝、1715年作クレモネーゼ・Cremonese.
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       これも元はバロック式ヴァイオリンだったのでしょうが、現代的に少し変えられている様子。





       実はshinkaiは、この「クレモネーゼ」の演奏が入ったCDを持っておりまして、はい。
       10年前に前の博物館を訪問した時にブック・ショップで買っていて、
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       今回の博物館見学で、実物を見て、名前を聞き、ン?!と驚き、
       実物もしげしげと眺め、そうか、これだったのか、あのCDは?!という次第。
       漸くに、長年猫に小判だったのが、自分の手持ちの真価を知ったと云う・・!


       これはあるヴァイオリニストの持ち物になっていたのが知れたのが1877年、
       その後も何度か持ち主が変わり、最後はロンドンのHillコレクションに入っていたのだそう。
       それを1961年にクレモナ県の観光局が買い取り、クレモナ市に贈ったものだそう。


       1715年には10台ちょっとのヴァイオリンが制作されている様で、
       Alard, Tiziano,Imperatore,Bazzini, Rode などの名が上がるそうですが、
 
       元の名をヨアヒム・Joachim、クレモナ市に寄贈され名をクレモネーゼ・クレモーナの、クレモーナ人
       と変えたこの楽器は、ニスはオレンジ-金色のオリジナル。
       音量も素晴らしく、特上の活力を示し、音色の高音から低音の均一性優秀、などなど。       
       shinkaiには、この手の表現は言葉ではわかりますが・・!

       
       写真でもよくご覧頂けると思いますが、顎が当たる部分のニスが薄くなっている
       使い込まれているのが分かりますね。

       これは当時は顎当てがなく、直に顎に挟んでヴァイオリンを引いていた為なんだそうで、
       顎当ては1820年代になって発明されたものなんだそう。
       これで随分奏者は弾きやすくなったのだそうで、逆に言うと、当時は弾きにくかった部分も
       楽になり、ヴィブラートも簡単になったんだと。




       収納されている曲はご覧の通りですが、
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       博物館の音楽室で、このクレモネーゼを弾いているYoutubeが見つかりましたので、こちらを。 




       そして、もう一枚ずっと大昔に買ったCDと収納曲はこちらで、
       アマティ、ストラディヴァリ、グァルネーリの音なんですね。
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       どちらも暫く聴いておりませんでしたが、生を直接ほどの音ではなくとも、
       一段の有り難さを心がけ、聴くように致しますです、はい。





       こちらがグァリネーリ・通称デル・ジェズ作の、
       ニコロ・パガニーニ・Niccolò Paganiniが弾いていた
       彼がカンノーネ・Cannone・大砲と呼んだ物。
       確か現在はジェノヴァにあるはず。
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       パガニーニはヨーロッパ各地を演奏して回り、その素晴らしく技巧的な曲と演奏で魅了し、
       共にイタリアのヴァイオリン製作者達の名を再評価させたと言われますが、




       プロヴァンスのニースに行った時見た、彼の住んでいた家の写真をおまけに。
       ニースの市場から近くだったと記憶していますが、
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       碑にはイタリア語で、1815年5月27日にこの家で亡くなった、と、
       彼の力倆ある魔法の音を讃えています。
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       これを見ていた時、隣りにいた仲間の一人が、彼は少女姦で監獄に入った事も
       あったのよ、と教えてくれたのでしたが、ははは。




       お邪魔するブログ「JFK-World 世界の撮影・取材地トピック」で、たまたま 
       取り上げられていた千住真理子さんの撮影、ヴァイオリン、などなどの他に、
       デイヴィッド・ギャレット・David Garrettがパガニーニを演じた映画の話題もあり、

       彼についてはヴァイオリンについてあれこれYoutubeを探していて何度も出会い、
       いささか興味を持っていたので、すぐにDVDを探し見つけ、
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       映画の予告編はこちらに。 https://www.youtube.com/watch?v=q_IeJtWZpc0
       
       はぁ、まぁ、特別の映画でもなかったですが、ははは、
       当代の速弾き、超テクニシャンの彼がパガニーニを演じたのは興味深かった。

       彼がパガニーニのカンノーネを弾いたヴィデオは、



       「JFK-World 世界の撮影・取材地トピック」さんが
       千住真理子さんの撮影関連の記事を載せられたのは、こちらから逆にお進み下さい。


       千住真理子さんがストラディヴァリの1716年作の「デュランティ」を、
       2002年に思いもかけない経緯で購入されたのは有名なお話の様ですが、・・知らずでした。

       お話しにある「300年近くを誰にも弾かれること無く」というのについては、

       顎当ての無い方、向かって右側の下が楕円に少しニスの色が薄いような感じを受けましたし、
       裏板のニスも下のほうが少し薄くなっているような・・。

       それに最初の持ち主であったと云うローマ教皇クレメンテ14世(1705-1774)
       が約20年間所有となると、彼が教皇であったのは1769年から5年間の事で、
       それ以前は1759年から枢機卿ですが、その前は1740年からローマの
       サン・ボニファーチョ寄宿学校の学長。 
       彼は貴族の生まれでなく、医者の息子で早くに父親が亡くなったと云うことで、
       音楽が好きで、それで購入したのかもしれませんが、
       そのあたりは少し曖昧に感じます。

       いぇ、悪口を言うつもりで書いている訳ではありませんで、
       教皇様の在位期間は一般にとても短いので、それでちょっと気になって調べたのでした。

       と、また教皇様になったりすると、何かと内輪の演奏会や迎賓の歓迎で、
       それほどのヴァイオリンをお持ちならば、お使いになるチャンスは数あったと思いますし、

       その後のフランス貴族デュランティの元にあったという200年間も、
       やはり同様では無かったでしょうか?

       ヴァイオリンは誰にも弾かれることがないと、ダメになると聞きますし、
       その為に現在の博物館のヴァイオリンは毎日、その為の係が弾いていると聞きます。

       まぁ、それほどのヴァイオリンを手に入れられ、千住さんご自身が、
       今までとはまるで違う、生き者の様な楽器で、新しく一から出直す覚悟で弾いている
       と話しておられるヴィデオも拝見しましたので、
       楽器にしても、自分の真価を発揮してくれる本物の演奏家を求めていたのかも、と思い、
       千住さんのこれからのますますのご活躍を祈ります!




       と、少し横にそれましたが、

       上の映画で制作、主演したデイヴィッド・ギャレットが、博物館の音楽室で
       ストラディヴァリの幾つかを試し弾きするYoutubeがありましたので、ご覧ください。
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       彼は「クレモネーゼ」がとりわけ気に入った様子で、3度も弾いてみています。
       その間にグァリネーリも弾くのですが、これは余り好みではなかった様で、はは、
       勿論同じ製作者でも一台一台の出来があり、音はみな違うのですが、
       これは興味深いヴィデオです。

       
       制作されて後300年近くを経て、元の木材での存在よりも、
       楽器そのものとして長く生き、乾燥し、本当に軽くなる様なのですね。
       クレモネーゼについて、紙を弾いているような、という表現を他の演奏家がしていましたが、
       近くでは優しいその音が、遠くまで強く響き渡る、というその不思議さ!
   

       ストラディヴァリのニスについても、複雑さについてずっと昔から議論が絶えないようですし、
       逆に単純に松のニスに油だけ、という結論を出した方もおられるようで、
       こういうのも何処までも謎解きは続くと思いますが、

       まぁ、そんな事を知った所で、Shinkaiの様な単純な者には、さようか、でして、

       300年前の楽器製作者が自分の命を込めて作った楽器が今も生き
       同時代の鍵盤楽器などは残っていても、使える状態のものは一台もないといいますし、
       今も素晴らしい音色を響かせてくれる、奇跡みたいな贈り物を有難く頂くのみ!!
      
       今回は博物館を訪問して後の収穫が、自分にとってはとても大きく、楽しみました

       皆さんにも、少しはお伝えできましたよう、願います


     ◆ おまけ ◆

       ヴァイオリンの弾き方、弓を動かす難しさは皆さんもよくご存知でしょう?!
       習い初めのヴァイオリンの音は、まさに他人にとっては拷問の如きものでして、ははは、
       大人が習い始めての2年間の進捗具合のYoutubeも見つけましたので、
       ご本人はとても可愛い美人さんなので、お暇な方、どうぞ!


     ◆ 追記 ◆

       肝心なことを書き忘れておりました。
       この何から何まで手作りの「クレモナ伝統の弦楽器作り」は、
       2012年からユネスコの文化遺産のリストに載っているそう。

       木材選びから、削り、接着し、ニスを塗り、このニスもスプレーは禁止、手作り、
       すべてが製作者の手を通して作られる、他に類を見ない伝統の弦楽器、技術

       職人技が奥まり、極まった所から生まれてくる弦楽器、とりわけヴァイオリンと言うもの、
       その不思議さに触れた思いがした、今回なのでした。
       


     *****

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by italiashiho2 | 2017-03-16 05:20 | ・ミラノと周辺 Milano e - | Comments(5)
2017年 02月 24日

   ・・・ ある傭兵隊長のお話と、 名画に描かれた、または名画の謎 ・・・

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       今回は、15~16世紀の画家ジョルジョーネ・Giorgioneの名画
       「テンペスタ・Tempesta・嵐の中に描かれた人物について、と、

       そして別の作品、作者と描かれた人物ともがいささか不明な
       通常ジョルジョーネ作と言われている作品、

       そしてもう一枚、ジョヴァンニ・ベッリーニ作とされる人物像

       そして、これら3点の作品から浮かび上がる一人の人物
       15~16世紀の傭兵隊長についてのお話を。

       まず最初にこの傭兵隊長の名を申し上げておきますと、
       バルトロメーオ・ダルヴィアーノ・Bartolomeo d’Alviano(1455-1515)

       ウンブリア州のトーディ・Todiの生まれと言われますが、
       姓にあるように、ウンブリアのアルヴィアーノの領主の子として生まれています。


       どのようにお話をと思いつつ、
       まずは最初に挙げたジョルジョーネの「テンペスタ・Tempesta」をご覧ください。
       
       ヴェネツィアのアカデミア美術館収蔵の名品、キャンバス地に油彩 82x73cm
       1502-1503年に掛けて描かれたとされる作品ですが、

       不思議な雰囲気を持ち、登場人物などの不思議さはすぐ目に付きますが、
       それ以上にこの作品は大変謎の多い作品とされていて、
       それについての本も出版されているようですが、こちらの写真が多いサイトで
       大体の感じは窺えると思いますので、ご参考にどうぞ。


       学者さん達の難しい推理などは、単純shinkaiには余り向きではありませんが、
       絵を見ていて単純に、ここはどうなっているのだろうと思う一つは、
       右で授乳中の母子像です。
       子供は女性の右脚の外に座っているので、お母さんの右の乳房だとは思うのですが、
       左腕の付け根の左肩の問題なのか、左の肘が見える辺りの位置なのか、
       はたまた肩に掛かる白い布の、腕の線を示す襞と、乳房を隠す線のせいなのか・・、

       彼女の左の乳房はどうなっているの?!と、この絵を見るたびにshinkaiは思うのです・・。




       まぁ、こんな詮索はさておき、

       この左下に見える男性像、これは絵の主題とどんな関係かと思うのですけど・・、
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       この男性は「バルトロメオ・ダルヴィアーノ」とされている、という事でして、

       その理由は?と聞かないでくだしゃんせぇ!
       shinkaiにも分かりませんが、そのように説明されておりまして、
       まだ理由を書いた記事が見つかりませんで・・。

      
       ジョルジョーネ(1478頃-1510)はヴェネトのカステルフランコ出身で、
       ヴェネツィア共和国の元でも働いていましたから、

       バルトロメーオ・ダルヴィアーノがやはりヴェネツィア共和国の為に働いていた
       後年には出会った事があるのかも知れませんが、
       その時にはバルトロメーオは既に50歳を過ぎている事になり、
       勿論画家が人物を若く描く事はできるでしょうが、この辺りもshinkaiには分かりませんです。

       ジョルジョーネの生地カステル・フランコで開催されたジョルジョーネ展




       こちらはジョルジョーネの自画像と言われているもので、
       甲冑をつけ、ダヴィデ像に見立てたもので、1509年作、
       彼独特の少し憂愁に満ちた瞳を投げかけているもの。
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       そしてこちらは「従者と一緒の、戦士の肖像」 1502-1510年頃の作、
       キャンバスに油彩  90x73cm   ウフィッツィ収蔵
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       こちらを見ている縮れ髪の若い戦士、少し放心したような目でこちらを見つめ、
       後ろには少し口を開けた少年の従者が従い、 という画面ですが、

       ジョルジョーネの作品、そして描かれた人物は、やはりヴェネツィア共和国の下で
       傭兵隊長として働いていた通称ガッタメラータ・Gattamerata
       ウンブリアはナルニ出身のエラーズモ・ダ・ナルニ、と言われていたのが、
       最近は、これはバルトロメーオ・ダルヴィアーノであると言われているそう。

       実はこの絵をパドヴァで開催されたピエトロ・ベンボ展で見ており、
       他にもジョルジョーネの作品が来ておりましたので、こちらを。

       ナルニの町のご案内は




       こちらがドナテッロ作で有名な、ガッタメラータ将軍騎馬像
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       傭兵隊長、という名の響きにはどこか惹きつけられるものを感じるのですが、
       中世・ルネッサンス期にはたくさんの有名な傭兵隊長が存在していて、

       マルケ州ウルビーノフェデリコ・ダ・モンテフェルトゥロも勿論、
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       彼とは宿敵の関係にあったリミニシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタも、
       上下2点は、ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品。
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       フィレンツェのサンタ・マリーア大聖堂の壁画にあるジョン・ホークウッドも、
       パオロ・ウッチェロ作
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       同じくフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂前の、ジョヴァンニ・デ・メディチ、
       (ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ)ジュゼッペ・デル・ロッソ作

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       ヴェネツィアのサンティッシミ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂前の
       バルトロメーオ・コッレオーニも、 ヴェロッキオ作
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       たちまちに名が挙がる有名な傭兵隊長で、それぞれ国に尽くした功績により、
       こうして有名画家、彫刻家による作品が今に残っているわけですが、

       今回ちょっと気がついた興味深い事なのですが、
       傭兵隊長と言うのは、悪くいうと「金で動く」
       つまり報酬によってどちら側で働くかを決めて戦争をするわけですが、

       ヴェネツィア共和国は、いつもきちんと支払い、その額も高かった、というのですね。
       で、働いた傭兵隊長、ここではガッタメラータも、バルトロメーオ・コッレオーニも、
       そして今回の主人公バルトロメーオ・ダルヴィアーノも、終生忠実であったと!

       まぁ、それこそ自分の命をかけて働く、戦うわけですから、
       支払いを渋られたり、ケチったりされると、嫌気が指すのも当然よね、と、ははは。




       こちら今回の我が主人公、バルトロメーロ・ダルヴィアーノの肖像とされるもので、
       1495-1500年作 ジョヴァンニ・ベッリーニ作 ワシントン・ナショナル・ギャラリー収蔵
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       アルヴィアーノ公爵でもあり、ヴェネツィア共和国の下でオーストリアの
       ハプスブルグ家のマキシミリアン1世との戦いに勝ち、フリウリのポルデノーネの領主にも。


       一族全員が戦いを仕事にする中で、若くから彼も従事するとともに、
       人文学者を師に学問をし、文学を愛し、とともに武器や要塞、城の建設
       関心を持ち、大変に優秀で、後にパドヴァの城壁も彼が築いたのだそう。

       従兄弟であったピティリアーノ公爵ヴィルジーニオ・オルシーニの従姉妹バルトロメーア、
       彼女の姉妹クラリーチェはロレンツォ・デ・メディチの妻、と最初の結婚をし、
       彼女の死後ペルージャのジャンパオロ・バリオーニ(傭兵隊長)の妹ペンテシレーアと
       2度めの結婚を。

       彼について書いてあるのを読んでいて、とても興味深かったのは、

       バルトロメーオは体格が細身で、多分背も低かったのだろうと思われますが、
       鍛錬された体を持ち、どのような活動も出来、気短ですぐに怒る性格を持っていたものの、
       直に自分で正す事ができ、品行方正、自尊心高く、純粋に思った事を口に態度にも出し、
       女が好きで、が特に溺れることはなく、宗教心は特別に強くはなく、
       芸に優れた者を高く評価し、自身も洗練された才人であり、
       頭脳的にも技術的にも優れており、とりわけ文学と武器を愛していた、と。
       
       傭兵隊長としてあちこちで戦い働いたのちにヴェネツィア共和国の下で働き、
       最後はブレーシャでの戦闘中に病気、ヘルニア(閉塞の悪化?)で亡くなりますが、
       多分人柄、業績によるものと思われますが、大変にヴェネツィア人にも愛されており、
       遺骸はヴェネツィアに運ばれ、荘重な葬儀の下、今もサント・ステーファノ教会に埋葬と。
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       ベッリーニの描いたバルトロメーオの肖像では、大変に厳しい顔をした
       中年後期の男性の顔ですが、
       性格などの記述に「女が好き、でも溺れることなく・・」とあるのに、
       それもイタリア語ではかなり強い表現の言葉で「女が好き」とあったのが、
       あれこれ調べたくなった原因の一つでもあるのですが、ははは、
       友人のジュリアーノにも原稿を送り、言葉の意味を取り違え無いよう読みましたです。

       


       彼の本拠地であったアルヴィアーノはどこにあるかですが、
       ウンブリアのテルニ県に含まれ、海抜251mの高所に1500人程の住民。
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       ヴィテルボ・Viterbo、 トーディ・Todi、 スポレート・Sporeto などなど。





       そしてこの小さな町、というより、村に近い大きさですが、
       バルトロメーオが1495年以降に築いた素晴らしい要塞があり、
       彼の学んだ建築技術や経験、また当時の万能の才人でもあった
       レオン・バティスタ・アルベルティからアイディアを受けた事が実践されたものと。
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       短い休暇期間をバルトロメーオはこの城に戻り休息していた様子で、
       多分この部屋もと思うのですが、フリウリから呼んで装飾させたという
       通称ポルデノーネ・Pordenoneの壁画の残る部屋も幾つかと。
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       ポルデノーネの作品は、こちらフリウリ、ヴェネトの各地に広がっていますが、
       彼はポルデノーネの領主であったので、ポルデノーネを知り、
       自分の領地の城に壁画を描かせたのでしょうね。
 
       現在であれば、車で半日で行ける距離ではありますが、
       当時の画家や彫刻家、工事職人たちは本当に遠くまで仕事に出かけたのですね!


       彼の没後、跡を継いだ息子が22年後に没し、男子の後継者が無くなると、
       この城、土地は教皇パオロ3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)がいわば没収した形になり、
       ファルネーゼ家のものとなり、のち持ち主が変遷していきますが、
       バルトロメーオの2番めの妻との間に生まれた娘達もそれぞれに結婚させられ、
       5世紀間ほど続いたアルヴィアーノ家も姓をリヴィアーニ・Livianiと変えたと。


       ですが、城要塞自体は現在も見事に存在し、内部も改装されたのでしょう、
       バルトロメーオ・ダルヴィアーノで検索を掛けると、
       上に見て頂いた様に素晴らしい威容の城が見れ、
 
       現在城内には、傭兵隊長・カピターニ・ディ・ヴェントゥーラ達の当時の歴史、様子を
       知るための最新技術を駆使した博物館が設けられており、
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       なんと一番驚いたのは、バルトロメーロ・ダルヴィアーノの没後500年を記念した
       記念行事のあれこれが、2015年に催された様子!で、
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       遅れて参上のshinkaiも驚くやら喜ぶやらの、ははは、
       しっかりと彼の業績、生き様が地元に定着している様子なのでした。



       今回はひょんなことから名前を知った傭兵隊長が、次々と絵画世界に
       姿を表した事から人物の追跡が始まったのでしたが、
       
       実は今回最後に知ったことも、追加しておかないといけません。
       というのも、
       ジョルジョーネ作として知られている「若い戦士とその従者」の絵の作者は、
       実はジョルジョーネではなく、パオロ・モラルド・Paolo Moraldo
       通称カヴァッツォーラ・Cavazzola (1486-1522)と呼ばれる作家のものである、
       というウフィッツィ美術館の記事を見つけました。
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       ルネッサンス期のヴェローナの画家で、彼のスタイルはどちらかと言うと
       ヴェネツィア派のベッリーニやジョルジョーネと似ており、
       マンテーニャやラッファエッロからの影響も見られる、との事。

       ウフィッツィ美術館では、ベッリーニとジョルジョーネの部屋に彼の作品が置かれており、
       彼自身の作品は残っているのが大変に少ないそうですが、
       一時ジョルジョーネの後期の作品とされていた事、またガッタメラータを描いたものと
       考えられていたが、現在はそうでない、という記事でした。
       (バルトロメーオ・ダルヴィアーノである、とは無しでしたが)

       そう言われると、ジョルジョーネにしては細部が強い印象も受けますが、
       まぁ、そのあたりは専門家の評価におまかせです。


       2年前にアッシジに行った時、アルヴィアーノにちょっと寄れるかなと
       地図を調べたのでしたが、
       アッシジからだとやはりかなり遠くなるので断念。
       が、またいつかチャンスを見つけることに致します。
       と、ヴェネツィアのサント・ステーファノ教会にも!




     *****

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by italiashiho2 | 2017-02-24 01:35 | ・映画絵画文学 Film Arte Le | Comments(2)
2017年 01月 15日

・・・ n.2 カステルヴェッキオ 城(博物館)と橋 ・ ヴェローナ ・・・(旅行 お出かけ)

第一回プラチナブロガーコンテスト
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       今回は、ヴェローナのカステルヴェッキオのご案内 その2を。 

       博物館に収蔵の中世の像を何体かご覧頂いた所ですが、
       今回は最初に、城の中から連絡して北のアディジェ河を渡る橋について
       ちょっとお話をさせて下さいね。

       上の写真はグーグルの衛生地図から切り取ったもので、
       橋の3連アーチの位置がよく分かると思い・・。

       ちょうどアディジェ河が街中に来て大きく蛇行する位置に城と橋があり、
       河のほぼ真ん中に、最初の城からの長いアーチの橋脚があり
       後の距離をほぼ半分にして、もう2つのアーチがかかります。

       つまり、同じ幅のアーチではないのですね。
       



       こちらをどうぞ。
       横から、その差がよく見えるのをサイトで見つけまして、

       橋の全長119,9m、 城側の一番長いアーチの部分が48,69mで、
       あとのは29,15mと、24mと。
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       城から最初のアーチの頂上部分まで少し上り坂で、
       そこから緩やかな下り坂で北に渡ります。


       説明には、ヴェローナの中世において一番大胆で見事な作品であると。
       確かに、アーチの下を支える白い石と上部の赤い煉瓦の色の対比も鮮やかで、
       城の防御の一部としての造りも頑丈な、見事な橋!

       建設は城と同じグリエルモ・ベーヴィラックワの名が上がり、
       1354年から56年にかけての、城が完成した後に引き続いての事と見られ、
       万が一に備えての、北への逃亡路でもあったと。

       
       こうして5世紀を無傷で経た橋は、北側にあった塔と橋の上のレース飾りが、
       主塔の上を削られたと同じようにフランス軍に寄って削られ、
       またその後のオーストリア軍占領時に再建設された事もあったのですが、




       一番大きな損害は、1945年4月24日、撤退するドイツ軍によって爆破された事!
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       爆破はこの橋のみならず、アディジェ河に掛かる街のすべての橋が爆破されたのだそうで、
       ドゥオーモの北東にあるローマ期のピエトラ橋も爆破された写真も見つけました。




       戦争終了後、即、街の他の重要な記念物、橋共に再建が決められ
       上の写真で見るように、大爆破にも関わらず基礎の大事な部分が残っているのを幸いに、
       新しく全部掛け替えるのではなく、その部分を修復して掛けることに決定。

       最初の仕事が始まったのは、1945年の最後からで、まさに戦後数ヶ月にして
       河床の残骸を除くことから始まり、

       1949年からは新しい無傷の切石がオリジナルと同じ場所に置かれ始めたのだそう。
       これは幸いにも爆破前にされた測量と写真があったのが役立ったといい、
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       おまけに石の色彩研究から、中世の石切場のどこからこの橋の石が
       切り出されたのかも突き止めることが出来、
       つまりヴァルポリチェッラ・Valpolicellaのサン・ジョルジョ・San Giorgio
       一帯の石であるのもわかったのだそう。

       ヴェローナの有名なワインにヴァルポリチェッラ、同名の赤ワインがありますが、
       同じくヴェローナの赤い大理石の産地でもあるのですね。
       ヴェローナから北西、山地に掛かる一体で、サン・ジョルジョはその中でもやや南西に。

       こうして新しく赤いヴェローナの石が切り出され、橋の下部に使われ、

       一方煉瓦は、粘土があちこちのもので大きさも不揃い、各地で焼かれている事から、
       解体された建物から新しい煉瓦を取り出し、またヴェローナやマントヴァの違う
       煉瓦工場から取り寄せたのだそうで、      
       こうして無事に架替工事が終了したのが1951年7月20日の事。


       爆破された当時の写真からも見えるように、アーチの基礎は5角系で、
       上流側は尖った形に張り出し、3連のアーチの広さも様々の長さ120m,幅6mを越す橋、
       アディジェ河の水の流れもよく研究された、中世14世紀の橋がこうして蘇ったのでした。


       修復や建設工事の際の様々な研究努力を読むと、つい興奮し、
       何とか皆さんにもお伝えしたいと、ははは、お分かり下さいますよねぇ?!


       と、この城が「カステルヴェッキオ・古い城」と呼ばれる所以ですが、
       この城の後アディジェ河を挟んだ北の山手側にサン・フェリーチェ・San Felice と
       サン・ピエトロ・San Pietro(現考古学博物館)が築かれて後、
       古い城・ヴェッキオと呼ばれることに。

       そしてもう一つお断りですが、
       先回スカラ家と書いておりましたが、Scalaの発音はスカーラですので、
       やはりスカーラ家と書くのが正しいと思い、先回の分から訂正させて頂きましたので、
       よろしくご了承願います。




       さて、博物館内見学に戻って頂きまして

       1階の彫像展示室から出て、スカーラ家の居城だった一郭の展示室に移動する際、
       上階の角に展示のカングランデ像が見え・・。
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       スカーラ家の居城であった部分にも展示室がある事も頭になく、
       自然に順路に従い移動したのでしたが
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       今になって知ってみると、この奥が城郭部分だったのでしょうねぇ! 
       もっとしっかり見ておくんでしたぁ!!




       宝石類を使った装飾品があり、美しいと思ったのを数点写しておりますが、
       ピンぼけご容赦!
       首飾り、ベルト、ブローチでしょうか。 美しい貴族の品々!
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       とにかく展示品の数が多く、ぱっと見て、あっ、良いな!と思ったものだけ撮っていて、

       これは旧約聖書の絵解きですね。
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       スカーラ家の城郭部の展示室は、こんな風に部屋の形も真四角でないのがあり
       天井下にはずっとスカーラ家の紋章、梯子・イタリア語でスカーラ、と
       両脇には立ち上がったの紋章が描かれ、その下は装飾柄のフレスコ画で埋まります。
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       なぜ紋章に犬なのか、なぜ一族にカングランデ・大きな犬とか、マスティーノ・マスティフ犬などの
       名があるのか、ずっと疑問だったのですが、現在では時に余り良い意味を持たない「犬」も、
       中世において「犬」には良い意味があり、価値とか賞賛を示したそうですし、
       
       スカーラ家がかってトルコ系の軍の長であるKhanと縁戚になったとか、
       カングランデが生まれる前に、母親は犬の唸り声の中で犬が生まれる夢を見たという伝承もあり、
       とりわけカングランデの偉大さが知られて後は、家系と犬を結びつけたのであろうという事。

       カングランデについては、後ほど騎馬像の所で改めてご説明いたしますが、
       ここでスカーラ家についてちょっとご案内させて下さいね。

       最初の記録にスカーラ家が登場するのが1180年
       布、織物商アルドゥイーノ・デッラ・スカーラ・Arduino della Scala
       南の方から移って来たように申告があり、

       その息子ジャコミーノ・Giacomino またはヤコピーノ・Jacopino 毛織物商、
       彼が後に続くヴェローナの君主の始祖と見做されます。

       ヤコピーノの息子マスティーノ1世・Mastinoは特別の金持ちでもなく、貴族の称号も
       持っておりませんでしたが、残虐で知られるエッツェリーノ3世・ダ・ロマーノの占領から
       逃れて間もないヴェローナ市民に受け入れられやすい平和志向の男で、

       大変に政治的にも優秀であった弟のアルベルト・Albertoとともに、
       当時の街の政治を動かしていた富裕な羊毛組合の中で自然に長となり、
       特別な闘争なしに、マスティーノが1262年にヴェローナの君主となり、1277年まで

       ついで弟のアルベルト1世が、1277年-1301年まで、
       3代目はアルベルトの息子バルトロメーオ・Bartolomeoが1301-1304年
       4代はアルベルトの息子、バルトロメーオの弟アルボイーノ・Alboino1304-1311年

       そして5代目が、アルベルト1世の3男に当たるカングランデで、1308-1329年
       ここにスカーラ家の一番の繁栄期、絶頂を迎えるという事になります。
       



       こちらはナポレオン棟の展示室で、長い展示室が続きます。
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       この黄金背景の綺羅びやかな絵、天使たちが飛び交う花園の中の聖母子像は、
       多分スカーラ家の城郭部の方にあったのと思いますが・・、
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       これはベッリーニでしょうか?
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       そしてマンテーニャの作品ですが、かなり工房の弟子の手が入っているなぁと・・。
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       この「落書きを見せる少年像」は気に入って撮ったのではなく、ははは、
       当時でも、こういうのもありだったんだなぁ、と思って撮ったのでしたが、
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       何と3年後の2015年11月19日夕方、閉館近くの博物館に入った強盗
       盗み去った17点の中に含まれており・・!

       盗まれた作品は1年後に見つかり、博物館に2016年12月23日に無事戻ったのでしたが、
      
       作品はコレクションする人間の希望にそって選ばれたと見られれる、というのを読み、
       う~~ん、私だったらこういうのは要らないなぁ、ははは、失礼!と思うものが多く、
       もっと良いのが他にいっぱいあるじゃぁないの!!と・・。 きゃはは。




       とは言え、このルーベンスも持ち去られた内の一作品で、
       ええ、これはねぇ、素晴らしい作品ですねぇ!
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       こちらはマティルデ・ディ・カノッサ・Matilde di Canossa(1046-1115)の肖像画。
       「カノッサの屈辱」事件で有名なカノッサ城を所領に持つ、トスカーナ女伯、と言っても
       書いている本人shinkaiにもあまりピンときておりませんが、ははは、
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       彼女の遺骸がかってあった(現在はヴァティカンに)というマントヴァの南にある
       サン・ベネデット・ポーという町の大修道院サン・ベネデット・イン・ポリローネ
       San Benedetto in Polirone を訪問した時この絵(の複製)を見ていたので、
       あれ、実物はここにあったんだと少し驚き・・。




       収蔵展示品は他にも見くたびれるほどあるのですが、余り写真を撮っておらず、
       上からの眺めなども見て頂きたいので、これでお終いとしまして、

       これは展示室から見える橋の眺め
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       そして、お待ち兼ねの「カングランデ騎馬像」

       鎖帷子を付け、翼を持つ犬がついた兜は後ろにはね、にっこり笑った笑顔!
       愛馬も頭部は主人と同じ兜をつけ、ダマスコ織りの踝まで届く盛装をし、
       それが一陣の風にひらめいている、という素晴らしい騎馬像!
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       多分右手には鞘の剣を持っていたと見られ、これは平和を示し、
       笑顔には温情が見られると。

       この像は元は彼のお墓、スカーラ家墓所・アルケ・スカリージェレの横にある彼の棺所の
       上にあったのだそうですが、現在墓所にあるのはコピーだそう。


       カングランデという名を持つ人物はスカーラ家に2人おりまして、
       こちらがスカーラ家一番の隆盛を築き、盛名高かったカングランデ1世(1291-1329)
       
       父親はヴェローナの君主2代目となったアルベルト1世で、
       バルトロメーオ、アルボイーノに次ぐ3男として生まれ、
       洗礼名はカン・フランチェスコ・Can Francescoだったようですが、
       彼の幼少からの目覚ましい成長を認めての通称がカングランデ・偉大なるカンとなったと。
       勢力争いの激しかったヴェローナで、敵方からも1年後にはイタリア王になるだろう、と
       言われ、スカーラ家に招かれ身を寄せていたダンテも賛美を惜しまなかったという人物。

       頭脳明晰、武力に秀で、雄弁快活、謙虚な信心深さももち、芸術にも関心を持ち
       一旦決めたことにはためらいなく、鉄の意志を持って向かう、という
       まさに君主になるべくして生まれた人物

       皇帝フェデリコ2世と縁戚の父を持つジョヴァンナ・ディ・ズヴェーヴィア・Giovanna di Sveviaが、
       ドイツにまだ見ぬ夫との結婚に向かう途中、スカーラ家の当時の当主バルトロメーオ1世の
       妻となっていた姉のコスタンツァの元に逗まった時、
       彼女を見たカングランデは一目惚れし17世で結婚! 彼女の方が11歳ほども年上だった様ですが・・。
       ですが、この結婚からは嫡子を得ず、カングランデの8人の子供はすべて庶子(男子4名)!

       
       そして彼は38歳の夏、7月22日トゥレヴィーゾに於いて突然の死を遂げます。
       トゥレヴィーゾの政情不安のため乗り出し攻略に成功、町に入ったのが18日で、
       司教館に滞在しますが、
       4日後22日の朝司教館の部屋で、健康に問題なかった壮健の盛りの突然の死。

       トゥレヴィーゾに向かう途中、湧き水の冷たい水を飲んだのが原因と見られ、
       ほんの少し毒殺の声もあったものの、近年まで自然死と見做されていたのが、
       2004年に墓所から遺骸を取り出しての科学的検査が行われ、
       遂にジギタリス(和名キツネノテブクロ)による毒殺と判明!

       ジギタリスはピンクの筒型が集まった美しい花で、心不全の薬として現在も
       用いられているそうですが、意図して適量を越すと毒薬にもなり、
       まさにこれが原因だったというのが判明したと。       
       多分彼の侍医によるものと見られますが、この医者は後に絞首されたそう。
       
       誰もが考えもしなかった一代の英雄の死が起こったのでしたが、
       彼の嫡子はなく、甥のアルベルト2世がスカーラ家の当主となり、その次代は彼の弟
       マスティーノ2世と続き、徐々にスカーラ家は衰退の道を辿り始めます

       


       この素晴らしい衣装は、棺の中のカングランデが纏っていた絹の高級織物を
       再現したものだそうで、
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       生前の身長は175cmほど、髪は明るい栗色、顔は長く、下顎がひときわ出っ張っていた
       特徴ある顔だったと、2004年の検査が明らかにしていますが、

       カステルヴェッキオから北西にある、サン・フェルモ教会の後陣に描かれた人物像の中に
       ひときわ出っ張った顎を持ち高官にある人物の衣服を付けたのが、多分彼を描いたものと。
       



       城の見学順路には、かっての物見兵士たちのパトロール道も含まれていて、

       ここはナポレオン棟のアディジェ河を見下ろす通路で、
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       昔、これによく似た通路を通った記憶が・・!




       向こう側の岸で記念撮影中のカップル
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       この高さから橋が見え、向こうに見える鐘楼はサン・フェルモ教会
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       ローマ兵士も、ははは、休憩中なのが見え、
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       これは主塔の横に出てきた辺りからの眺めで、
       橋の上、そして鳩でいっぱいのナポレオン棟の屋根の上
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       物見パトロール道は、この写真の右に見える城壁、橋に続く城内の通りの右横、
       コルテ・ダルミとの境の城壁の上も通ることが出来、
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       こんな様子のパトロール通路で
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       時計塔の中に入り、展示のマスティーノ2世・MastinoII(1329-1351)の騎馬像
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       カングランデ騎馬像と同じような作りなのですが、やはり少し及ばない感がありますねぇ。

       マスティーノ2世の時代に一旦所領はぐんと大きくなるのですが、
       フィレンツェと組んだヴェネツィアと戦う羽目になり、結局領土はヴェローナと
       ヴィチェンツアのみになり、スカーラ家の勢力は徐々に下り坂となり、

       カングランデ2世(執政1351~、カンシニョーリオパオロ・アルボイーノバルトロメーオ2世
       アントーニオと、1387年まで君主制が続きますが、
       スカーラ家のレジーナ・Reginaと結婚していたベルナボ・ヴィスコンティ・Bernabò Visconti
       がパドヴァ、フェッラーラ、マントヴァと組み、妻の相続を口実の攻略を始め、
       ヴェローナは激しい戦いを乗り切り独立を守りますが、
       これによりアントーニオ・デッラ・スカーラは引退し、

       125年間12代に及ぶスカーラ家の王朝は終わりを告げたのでした。




       時計塔の横に小さい芝生があり、夏の暑い時にホッと
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       こちらが先回の一番最初に見て頂いた城の正面側の城壁、内側からで、
       向こうに広がるのがヴェローナの旧市街地。
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       時計塔を出ると、街に接した城壁の上を歩き、いや、パトロールし、はは、
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       こんな街中の喧騒も見、次にはあの2階建てバスに乗って回ろうとか計画し、ははは、
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       博物館入口に戻って、見学はお終いです。
       
       2度に渡ってのお付き合い、有難うございましたぁ!!




       最後はサイトから拝借の夜景を
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       ほぼ6世紀に渡っての変遷を生き残り、今も見事な中世の城塞を見せてくれる
       カステルヴェッキオ。 
       いやぁ、やはり見事なものでした!!




     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、修道院の壁 途中経過と、 雪のヴェネツィア モノクロ絵葉書で を
       アップしています。    
       見てやってくださ~い!    




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by italiashiho2 | 2017-01-15 21:45 | ・ヴェローナ・ガルダ湖 Verona- | Comments(2)
2017年 01月 05日

・・・ サンタナスターシャ教会 ・ ヴェローナ ・再追記・・・ (旅行・お出かけ)

d0097427_21315822.jpg
       今回のご案内は、以前訪問したまま纏めておらず、
       時に思い出して気にかかっていたヴェローナの
       サンタナスターシャ教会・Sant'Anastasiaを。

       ここには皆さんも良くご存知の、ピサネッロの傑作「サン・ジョルジョと姫」
       のフレスコ画があり、30年程も前の訪問時に見ているのですが、はい、
       その後こちらに来て後何度かヴェローナに行った時は教会自体が修復中。

       焦がれていたピサネッロのフレスコ画に再会できたのは4年前の夏。
       暫く以前から美しくすっきりとなった教会正面を見てウズウズしていたのでした。

       という様子で、写真も整理し直しましたのでご覧くださいね。

       上は、中心のエルバ広場からまっすぐ教会に向かい、正面に見えてくる時
       この遠い位置からだと左奥の鐘楼が見えるのですが、
       教会正面からは見えませんので、最後にご覧頂く事に。




       サンタナスターシャ教会はどこにあるか、地図をどうぞ
d0097427_20092535.jpg


       ヴェローナの旧市街、ローマ期からの町があった突出部、
       アディジェ河・Adigeが大きく湾曲する、地図番号10の位置に。

       ちなみに11がドゥオーモで、2,14辺りがエルベ広場、
       下に見えるが野外劇場・アレーナ。
       一番左の川岸に見えるがカステルヴェッキオ、次回にご案内を。




       さて、こちらが正面
       12世紀末の建設で、正面扉の周囲は大理石で整備されているのですが、
       それ以外は建設時のままの煉瓦の見える姿、いわば未完のまま。
d0097427_21321410.jpg

       教会前広場の左手にも一つ教会らしきものも見えますが、
       サンタナスターシャ教会との接続部に見える棺についても最後に。

       右手はヴェローナの有名ホテル、ドゥエ・トッリ・Due Torriで、
       13世紀からの由緒ある館だそうで、一度泊まったことがありますが、
       貧乏shinkaiにはまれな経験で、ははは、
       ロビーなどはやはり素晴らしいものでしたぁ!




       正面扉周辺の5連の大理石アーチは、白とヴェローナの赤い大理石、
       と、黒と説明されていますが、実際は青いグレーに見える石を使っていて、
       如何にもサンタナスターシャ(聖女アナスターシャ)という教会名に相応しい感じ。
d0097427_21322316.jpg

       ですが、このサンタナスターシャという名は現在の教会の建設以前にあった教会名で、
       13世紀に建設されたのは、殉教者サン・ピエトロと呼ばれる、
       ヴェローナの守護聖人でもあるドメニコ会派の僧に捧げられたもの。
       が、街の人々はずっとサンタナスターシャ教会と呼び習わしているのだそう。

       扉上部の横枠の真ん中、円柱の上に聖母子像、右に輪のサンタ・カテリーナ像、
       そして左に見えるのがサンタナスターシャと。




       夏の強い日差しの下の写真で、扉脇の聖人像も霞んで見えますが、
       扉は15世紀のものと。
d0097427_21323354.jpg
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       扉右脇にある碑は、この教会が捧げられた殉教者サン・ピエトロの生涯を描き、
       上に13世紀半ばの殉教時の姿がありますが、
       その左下、頭に大きな斧みたいなのを受けた姿が分かりますか?
d0097427_21325049.jpg

       ドメニコ会派の白と黒の僧服を身につけ、頭の真ん中に大きな包丁、という
       殉教者サン・ピエトロの姿は絵画の中、また像でも時々見かけ、最初は驚き!でしたが、
       名前を知ってからは、あ、ここにも居られる、と・・。 はは。
       ローマ・ヴァティカンのサン・ピエトロとは別人、殉教者サン・ピエトロです。
       



       さて、中に入ります。
       ご覧の通り、大変きらびやかで、長い世紀のうちに何度か改修されたそうで、
d0097427_21325814.jpg




       天井はこんな様子
d0097427_21330692.jpg




       主祭壇の内陣と後陣
       木製彩色の十字架のキリスト像があり、その背後にステンドグラスの
       長い窓が見えますが、このステンドグラスは20世紀になってからの物と。
d0097427_21335766.jpg


       で、両脇の壁には、




       右手にはフレスコ画が見られ、これは「最後の審判」のテーマと。
d0097427_21340686.jpg




       左手には、この教会の特色の中でも抜きん出た
       コルテジーア・セレーゴ・Cortesia Serego(1335頃-1386)の記念墓碑
       15世紀初頭があり、上の写真でお分かりのように、壁面いっぱいの大きなもの。
d0097427_21341597.jpg

       棺の上に騎馬像が見えますが、棺の中には何もない記念墓碑で、
       棺部分には正面に5つと、両脇に1つずつの壁龕が見えますが、
       ここにはセレーゴ家の業績を示す青銅像が納まる筈であったそう。


       セレーゴ家というのは、ヴィチェンツァ出身の傭兵隊長で、
       コルテジ―アの時代にヴェローナに出て、スカラ家の軍指揮官として
       活躍した人物の様子。

       この記念墓碑を作ったのは彼の息子のコルテジ―ア2世で、
       騎馬像に跨るコルテジ―アが手にしているのは、指揮を取る棒。

       棺の両脇に立った兵士が重たい緞帳を掲げ、右側の兵は帽子を取って
       敬意を示し、緞帳の一番上にも抜き身の剣を持った持った兵士。

       写真では少し見え難いのですが、緞帳の締め具の一番下の部分、
       赤い部分には剣が3本描かれ、これがセレーゴ家の紋章なんだそうで、
       一番上の兵士の剣も納得です。

       周囲を取り巻くのは金色の枝とアカンサスの葉、そして肉厚の大きな白い花。
       どうやらこれらは当初は彩色されていた様子で、ご想像下さい、
       背景のブルーの中でひときわ鮮やかであったろうと。




       上部は両脇に建物が見られ、空に浮かぶのは「天国」だそうで、
d0097427_21342579.jpg
       

       下の方に天使がいるのは判断できますが、なにせ見た時はそこまで
       意識して見ていませんで・・。





       主祭壇の右にあるのが「巡礼の礼拝堂・Capella Pellegrini」ですが、
d0097427_21343393.jpg

       主祭壇のアーチの上、左右に見える梯子の紋章は、
       ヴェローナの繁栄の領主、スカラ家の紋章。

     ◆ 追記を。
       「巡礼の礼拝堂」と訳を付けたので「小父さん」から疑問を頂きましたが、
       巡礼のための礼拝堂ではなく、ペッレグリーニ・巡礼という性を持つアントニオという人が、
       1492年に遺言で礼拝堂をつくる依頼とお金を残し、造られたという謂れです。
       



       ここにお目当ての、ピサネッロ(1390頃-1455)の傑作
       「サン・ジョルジョと姫 」のフレスコ画が!
d0097427_21344119.jpg


       30年ほど前にやはりこの絵を目当てにやって来て、
       が、絵を見たのはこの場所ではありませんでした。

       今の聖具室だったか、普通の部屋の天井の高さで、その下にあり、
       暗い部屋の中で見つめていると、たまたま入ってきた教会関係者と思われる
       シニョーラが電灯のスイッチを入れてくれ・・、という思い出があり、

       その記憶が余りにも強く残っていたもので、今回
       この高い位置にあるのに気が付くのに、かなり時間がかかりました!

       そうなんですね、ちょうど絵の中心が山形にくびれており
       考えてみれば、まさにこの礼拝堂入り口のアーチにぴったりで、
       この場所に納まる事を条件に描かれたのだと、納得した事でした。




       右側の「サン・ジョルジョと姫 1436-1438」の部分
       2人の間に白い馬の大きなお尻があり、背景の煌びやかな町の建物、
       そして左に見える2人の吊るされた男、と、どこか謎めいた構成。
d0097427_21344819.jpg

       姫の横顔は、如何にもピサネッロの描く女性の横顔で、
       額が素晴らしく出た白く繊細な細面、大きな装飾の被り物と美しく、

       良く見る構図、龍退治のサン・ジョルジョの横に添えものの姫、とは
       一線を画した構成。
       それに引き換え、サン・ジョルジョが余り男前でないのを
       いつも疑問に思うのですが・・、ははは。

     ◆ 追記です
       shinkaiはずっと、サン・ジョルジョは姫とは馬を挟んだ左側の、
       金髪の男と思っておりましたが、
       そうではなく、姫の右側、綺羅びやかな馬具を付けている白馬の上に見える顔
       兜をつけ、馬に跨る姿がサン・ジョルジョなのだと知りました!!
       あれま、こんな所に誰かがいるとは気が付いたこともありませんで、
       そう知って見ると、確かに凛々しい顔の男性です!
       それに、右手に長い槍と思われる武器も持っています。

       大変、失礼をば!
       が、そうすると、姫とは反対の方を見つめている事になり、
       誰もが視線を合わせない事にもなり、尚更不思議な構図だとも思います・・。

       写真、追加。  この方がサン・ジョルジョです
d0097427_22085943.jpg
     ◆ 再追記を ◆

       サン・ジョルジョが姫の左側にいる男性か、それとも姫の右側の馬上の男性か?

       改めてmitsuさんから質問を頂きましたので、もう一度あれこれサイトから
       関連した記事を引き、読んでみました。

       サン・ジョルジョとして出てくる男性の顔は、上に載せた兜をかぶった騎乗の顔が
       いくつかあるのですが、
       このフレスコ画描写にうんちくを傾けている記事に、こんな説明を2つほど見つけました。

       まず姫と馬のお尻を挟んでいる左側の男性の写真をどうぞ。
d0097427_18112192.jpg
       つまり左の男性は、左手を馬の鞍に掛け、左足を馬の鐙に置いていて、
       姫に別れを告げ、龍との戦いに出かけるため、
       今まさに騎乗の人となろうとしている所、と。
       少し呆然としているかにも見え、ほんの少し口を開け歯もみえる、
       光輪にも似た金髪の髪と。
       
       確かにそう指摘されて見ると、左手と左足の位置は、まさに馬に乗る前の姿で、
       やはりこの左の男性がサン・ジョルジョとして、ピサネッロは描いているのですね。
       そして姫は彼を見送っている姿。
       で、右の騎乗の男性は、サン・ジョルジョの侍者が槍を持っている姿と。

       そうですね、イタリア版のウィキには右側の騎乗の男性とありましたが、
       左の男性がサン・ジョルジョと考えたほうが、姫とも向き合う形になり、
       主題がはっきりしてきますね。

       mitsuさん、コメントに疑問を書いて頂き、有難うございました!!
       お陰様で自分が納得の行く答えを得られ、とても嬉しいです。

       
       所であれこれの記事を読んでいて、改めて知った事を幾つか

       絵画の歴史において、ピサネッロが初めてこのフレスコ画の中において、
       馬を正面からとお尻から描いたのだそうで、これによって絵の奥行きが得られている。
       それまでは常に横側からの姿、この方が描きやすくもあり、だったのだそう。

       そして、右側の馬の顔を見た時、ちょっと鼻がおかしいな、とは思ったのですが、
       これは中東に於いて、馬が走った時に空気が吸い込みやすいようにと、
       かっては馬の鼻孔を切り取っていた!のだそうで、
       ピサネッロはどこかの宮廷において見かけた馬をデッサンしていたのだと。

       今回あれこれ写真を探している時に、ピサネッロの様々なデッサン
       また纏めてご覧頂きますね。


     ***




       真ん中に美しい空色の海が広がり、帆船の姿も見え
       この色で全体が残っていたら、さぞや素晴らしく煌びやかであったろうと!


       左側は、龍退治、または既に退治された龍であろうと思うのですが、
       残念ながら森の動物たちの姿と、左下に頭蓋骨が認められる位・・。
d0097427_21345739.jpg

       左側の絵の損失は、壁からの雨水の染み込みのため、というのも改めて知りました。
       周囲の縁飾りの部分などにも金色が使われていたらしいのですが、
       それらも損失した、という事です。

       壁画全部を剥がし、それで聖具室の方に長らく、教会自体の修復が済むまで、
       置かれていたと云う様子です。
       

       それにしてもこれだけの素晴らしい絵が、こんな高い場所に!
       少し高すぎる、のが残念ですね。

     


       こちらはその右隣にあるロザーリオの礼拝堂、なのかどうか、少し不明です。
       というのも今回この絵が3段の絵画の真ん中に収まリ、立派な礼拝堂に安置された
       写真が見つかったのですが、この背後に見られるのとは違いまして・・。
       仮の姿で、ここに安置されていたのかも。
d0097427_21350537.jpg
       

       礼拝堂は祭壇脇に2つずつ、そして脇壁に添って別の祭壇もあるのですが、       
       ピサネッロを見ただけで十分に満足してしまい・・!




       主祭壇の前、左側の壁のフレスコ画
       開いている扉は、聖具室への扉だったと。
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       祭壇に向かって左側の壁中程にあったオルガンの周囲
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       オルガンを挟む形で前にある2本の円柱の右、写真の中で一番右の円柱に
       見える立ちあがったライオンの紋章、これにご留意を。




       床の大理石模様。 床は建設当時15世紀中程のままだそう。
       白と黒はドメニコ会派の僧服の色であり、赤はこの教会が捧げられた
       殉教者サン・ピエトロの血の色を現わすと。
d0097427_21360371.jpg
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       こちらは右の壁にあったと記憶する祭壇と祭壇画
       全体に大変装飾の素晴らしい祭壇で、絵も美しいでしょう?!
d0097427_21353992.jpg
d0097427_21354841.jpg




       脇にあった小礼拝堂の形を取るもので、
       絵もはげ落ちさだかではありませんが、上部の飾りが素晴らしく、
       下部の大理石は、ひょっとして古い石棺のリサイクル・・?
d0097427_21355506.jpg
       



       これは教会入り口近くにあった聖水入れと、それを支える男の像
d0097427_21362831.jpg

       左右にあり、こちらは手を膝に置いていますが、
       もう一方のは、片手を頭に置いていると。  見ていませんで・・。




       訪問したのが夏の盛りとあって、入り口付近は大変明るかったのですが、
       照り返しの陽の中で、大変に清楚な美しさだった左側の壁の
       フレスコ画装飾の礼拝堂の上と下
d0097427_21364442.jpg
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       そして、全体の姿をサイトから拝借し、ボルディエーリ・Bordieriの祭壇と。
d0097427_23304729.jpg
       
       
       他にもたくさんの祭壇、そして祭壇画、彫像などもあったのですが、
       自分の好きなものを主に選びまして、これで失礼を。


       参拝者たちの捧げる蝋燭の明かり
d0097427_21371196.jpg




       15世紀からの古い木製の扉を通り、外に出ます。
d0097427_21372098.jpg




       最初の写真左側に見えた、教会前広場の様子で、
       右側に教会からの接続部に見える門扉と、その上の柩
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       門扉の奥の中庭は、現在音楽学校なんだそうですが、
       石棺と上の屋根はこんな形で、
       この中の主はグリエルモ・ダ・カステルバルコ・Guglielmo da Castelbarco,
       (生年不明-1320)
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       そう、カステル・アーヴィオ・Castel Avioのご紹介の時に出た  
       カステルバルコ家の一番の繁栄時の領主ですが、
       当時の習わしとし、権力と財産を持つ人物のみができた教会建設の援助、
       このサンタナスターシャ教会の建設に大きな援助をし、
       主祭壇近く、またオルガンの前の、立ち上がる獅子の紋章はカステルバルコ家の物で、
       後には同じヴェローナのサン・フェルモ教会・San Fermoの建設にも関わったと。

       彼はここに葬られる事を願い、この形で埋葬されていますが、
       これが後にヴェローナの領主として君臨したスカラ家の墓所
       「アルケ・スカリージェレ・Arche Scaligere」の姿となったと。
     

       アルケ・スカリージェレの写真はこちらに
  
       ヴェローナの街の中心ちょっぴり

       ヴェローナ全体のご案内は、こちらから



       最後はエルベ広場のランベルトの塔の上から見た
       サンタナスターシャ教会の姿を。
d0097427_21374587.jpg

       これだと左奥の鐘楼も良く見えるでしょう?
       高さ72m、鐘楼の鐘は15世紀に5つだったのが、19世紀になり
       ヴェローナの名家からの寄贈で現在9あるそう。

       一番大きなのは1787Kg 直径が145cmもあるそうで、
       これだけの数の鐘が揃うと、かなりのメロディーを奏でる事が出来るんですと!

       

       ヴェローナのエルバ広場で日本人観光客の評判を聞いたことがありますが、
       ミラノからヴェネツィアに行く途中に、15分間だけね!って。 ははは。
       
       いやぁ、なんのなんの、見所がいっぱいの街で、しかも都会、お洒落です。
       訪問のチャンスが有りましたら、ごゆっくりどうぞ!!

       私はカステル・ヴェッキオのご案内を纏めないと・・!
       



     *****

       皆さま、いつもブログご訪問有難うございます!

       実は3日の朝から我がPCのインターネット接続が出来ませんで・・!
       モデムも正常、接続も出来ていると出るのですが、
       いざクリックすると「このサイトには届きません」と画面に。

       店は3日は休日と言うので、一日必死に絵を描いて我慢をし、
       そうなんです、お絵描きをすると無私の心境になれるので! ははは、

       昨日朝一番に店に持ち込みましたが、なぜならテクニコに来て貰うには
       数日かかるのはもう既に十分承知の助で、いつもPC本体を持ちこみますが、
       悪い予感通り昨日一日で戻らず、何がどうなっているのか電話をしても、
       その後の連絡がなし・・!!

       ブログの記事の方は4日朝の内に書きかけていたのですが、
       夕方になり、これは最低明日5日のお昼までかかりそう、と
       見極めざるを得ず、さてどうするか?!


       私はPCはいつどんな故障が起こるとも知れず、故障が起きて後では
       どのファイルも引き出せない、と考えているので、
       作業はPC本体を使っても、ファイルや写真はすべて外付けメモリーに
       保存していて、手元にあります。
       それで、何年も使っていなかった、まだ捨てていなかったノート・パソコンを
       引っ張り出し、ウィンドウズ・ヴィスタの一度雷にやられた奴で、

       改めて電源を入れ、NECの日本語でも何が何やら分からない設定をいれ、はは、
       かなりの騒音がするのも我慢し待つ事久し、なんとか復帰できました!

       有難い事!! やれやれ。   
       これからはちょいちょいスイッチを入れ、予備に据えて置かないと!


       それで外付けメモリーのファイルも読め、記事も続けられ、
       インターネットは使えないのでスマート・フォンで検索をかけ、
       古いPCにも入れていた写真ソフトも使え・・、

       夕方、状況は如何にと電話して来た友人相手にさんざ店の悪口を言い
       発散し、ははは。

       なんとか今夕のブログ更新に間に合うと思うのですがぁぁ、
       さて、どうなりますか!
       これを書いているのは朝9時前で、もうじき店が開きます。


       ・・という事で、皆さんにこれを読んで頂けている通り、
       午前中に無事我がPCが戻ってまいりました!

       ですが、テクニコの所では何にも問題なく、インターネットに接続できたそうで・・!!
       電気屋に修理に持っていくと、何も故障がないというのと同じでして・・、クソメ!
       
       ジュリアーナにメッセージを送りましたら、ベファーナの魔術だ!
       でも、今夜のヴィン・エ・パン(日本のトンドと同じ)で燃やすから心配するなと。
       はぁ、新しいPCなのに、早々に悪さを覚えないように願いますです。
       
       

     *****

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第一回プラチナブロガーコンテスト

by italiashiho2 | 2017-01-05 23:38 | ・ヴェローナ・ガルダ湖 Verona- | Comments(20)
2016年 10月 11日

   ・・・ エトルスク博物館 ヴォルテッラ ・・・

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       ヴォルテッラの有名な見所をあれこれご覧頂いて来ましたが、
       今回が最終回、この町の名を世界に広めている
       エトルスク博物館・Museo Etrusco Guarnacciのご案内を。
      
       博物館名の最後にあるGuarunacci・グアルナッチというのは、
       この博物館収蔵品の大きな、そして主要な部分を占める作品を
       寄贈したマーリオ・グアルナッチ氏(1701-1785)の名が冠されたもの。

       18世紀後半にこの博物館が出来たのですが、それまでは町の
       貴人著名人達の個人コレクションとして分散していたのだそう。
       1776年地下墳墓からたくさんの発掘があった際に市に寄贈され、
       それがこの博物館発足のきっかけになったと。
       
       とにかく物凄い数と質の高い収蔵品でして、
       到底すべてをご覧頂けず、ご説明もままなりませんが、
       shinkaiの目で見た好きな物、良いと思ったもの優先で、はは、
       あまり学術的では無いご案内ですが、ごゆっくりどうぞ。

       上の写真は、町の中心からヴィア・マッテオッティ・Via Matteotti
       を、そして右にヴィア・グラムシ・Via Gramusciを南に。
       左からの道が合流する位置のヴェンティ・セッテンブレ広場・
       Piazza XXSettembre.
       
       この辺りレストランもたくさんあり、




       目指す博物館は、そこからのドン・ミンツォーニ通り・Via Don Minzoni
       を少し先に行った所。
       町の地図は既に2度ほど載せておりますので、そちらで。
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       エトルスコ・Etruscoと言っておりますが、これはエトルリア人、国、
       形容詞にあたり、エトルリア文明・文化と同じ事で、  
       イタリアで馴染みの言葉ですので、これを使わせてもらいますね。

       エトルスコ文化が栄えたのは紀元前8世紀から1世紀ごろと言われ、
       とりわけイタリア中部に広がり、独特の言語文化を持ちますが、
       紀元前4世紀頃からローマ人が勢力を持つようになると、
       徐々に併合、吸収されていった民族です。

       この博物館の38室には、それぞれの時代、部門にわたる展示が
       ありますが、
       ここでは大まかに区切り纏め、ご覧頂くことに。
       専門家の皆様、ごめんなさい!

       まずは石棺類ですが、素晴らしい彫りのものを。

       船の到着を迎える女性の楽人たち、戦闘場面、狩猟かな、
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       これは上下が別々の物を一緒に展示しているらしい石棺
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       こちらはテラコッタのお棺
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       ご覧になって分かるよう、大きな石棺と、このテラコッタ製の
       小さなのがありますが、小さいのには火葬しての遺骨を入れたものと。
       エトルリア人達の間ではかなり火葬が多かった様子で、
       棺の上に横たわるのは、生前の人々の在りし日の姿を偲ぶ物。

       そして棺の他に骨壷や、小さな家の形をしたものとか、
       様々な埋葬の品があります。




       上の様に一人で横たわるのも多いのですが、ご夫婦で、というのもあり、
       この博物館の目玉の一つが、テラコッタ製のこれ!
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       棺の蓋部のお2人のみが残っていて、紀元前1世紀頃の作、
       大きさを探しましたが見つからず、
       見た記憶からだと、長さが1m位だったかな・・。
       


       仲良く寝椅子に寄り添い、妻の方はじっと夫の顔を見つめているのですがぁ・・、
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       こうして見ると、妻の凝視がちょっときつく見え、ははは、
       大阪弁で「アンさん、若い女を作ったら承知しまへんでぇ」とでも・・、
       ははは、失礼。

       所で夫の左手に持っているのは何かと思いましたら、
       これは角笛なんだそう!
       動物の強い力を借り、黄泉の世界に旅立つ為の魔よけなんだそうで、
       必ず男性の左手に持たれていると。




       背後から見るとこんな形
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       妻の頭に見える穴は、テラコッタを変形させる事なく焼く為に、
       中の厚みを調整しているのですが、それを掻き出すための穴と。

       夫が右手にも何か持っているのですが、これは何も指摘が無く、
       花の様にも見えませんか? とすると、可愛い夫ですねぇ!!




       所でちょっと脱線ですが、

       「夫婦像の寝棺」として有名なのが、ローマのヴィッラ・ジューリア博物館
       にある、同じくエトルスクのテラコッタのこれ!
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       これはラツィオ州の北の海辺に近いチェルベーテリ・Cerveteriで、
       19世紀に発掘された物で、高さは1,14m 長さは1,9m、

       アルカイック・スマイルと呼ばれる謎に満ちた微笑を浮かべ、
       あの世でもずっと一緒に寄り添う事を確信した笑みなんだそう。
       なんともエレガントな作品で、紀元前6世紀の作というのには驚くばかり!!




       背後からの姿、この髪型も良いですねぇ!
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       そして、この女性の手の優雅な事!!
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       足先ですが、夫は裸足で、妻は靴を履いていて、
       妻の靴の裏底の形が綺麗に揃っているでしょう?
       当時のテラコッタ職人の技術の高さと
       その美的センスの良さにも大いに驚かされた事でした。
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       ローマの街自体も殆ど知りませんが、
       この博物館はまだ行った事がなく、チャンスを待つ事に!




       さて、ヴォルテッラのエトルスコ博物館に戻りまして、

       今回あれこれ見ていて石棺の中にも、ご当地名産のアラバスター
       石膏雪花の石で造られたものと、他の石で造られたものとが
       あるのに気がつき見え、そうなんだ!と一人で納得のshinkai。
       
       この豊満美女はアラバスターの石の中で、今も微笑み続け・・
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       ですがね、これは美女ですし、周囲が緑色の枠内なので載せましたが、
       黒枠の中に、顔にだけライトが当っているのもあり、
       パッと見た時、ぎゃぉぇ~!と叫びそうな位で、本当に怖かった!!

       胸部が黒枠の向こうにあり、顔にだけライトが当っているのですよ、
       それも下からね、ご想像下さい!!
       ずっと昔に訪問した時に比べ、大変整備された今回の再訪だったですが、
       誰が設置方法を考えたのか、誠に良いご趣味で、はぁ・・。




       こちらは副葬品の、なんとも薄い金の花びらかな、の王冠
       お金持ちにしても、大変な愛情のこもった美しい高価な物ですねぇ!
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       金のイヤリング。  素敵ぃ!
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       博物館の床に移された、床モザイク。  
       渋い色合いの幾何学模様、素敵でしょう?!
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       ギリシャの影響が大きく感じられる壷絵
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       そして、取っ手のついた大皿。 シックですねぇ。
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       これは当博物館蔵ではなく、フィレンツェの考古学博物館所蔵ですが、
       発掘はヴォルテッラ、とあるので、ついでにご覧を。
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       多分、ワイン入れでしょうね。
       それにしても、形と文様の見事さ! 
       こんなのを実用していたのですね、エトルリアの民は!




       そして当博物館の一番有名な所蔵品と言っても良いか、
       「夕暮れの影・オンブラ・デッラ・セーラ」と名づけられた男性像。
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       フィレンツェの骨董市で1737年頃まで売られていたのを、
       紛れも無くヴォルテッラからの出土と、当博物館創設の
       グワルナッチ氏が1750年に買い取ったものだそう。

       ブロンズ製、高さは57cm、頭の高さは3,2cm、直径2cm、
       首の長さ1,5cm、肩から性器まで22cm、そこから足まで30,3cm、
       重さは1322グラム。




       紀元前3世紀始めの作と見られるそうですが、
       こうして見ると、髪もきちんとセットされているのが分かります。
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       この小像に「夕暮れの影」とロマンティックな名を与えたのは、
       ガブリエーレ・ダヌンツィオ・Gabriele D'Annunzio(1863-1938)
       詩人、作家、政治家、愛国者と幾つもの顔を持つ人。


       shinkaiはイタリアに来て後、彼の写真を見て
       即いかれたミーハーですが、ははは、
       彼はまたヴォルテッラを舞台にした映画「熊座の淡き星影」の
       原作者でもあり、他に良く知られているのは、やはり映画「イノセンス」で、
       どちらも監督はルキーノ・ヴィスコンティ・Luchino Visconti.
      

       彼の最後の住居、ヴィットリアーレについては
       

       フィレンツェのヴィッラ
       

       愛人だったエレオノーラ・ドゥーゼの博物館展示にも彼
       




       昔初めて博物館でこの小像を見た時のshinkaiの第一印象は、
       わっ、ジャコメッティだ!! と思ったのでしたが、

       アルベルト・ジャコメッティ・Alberto Giacometti(1901-1966)は
       スイスの彫刻家、画家で、このヴォルテッラの小像から
       強いインスピレーションを受けたであろう事が
       彼の作品をご覧頂くとすぐ分かります、これです。
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       下の写真は、1955年のアンリ・カルティエ・ブレッソンが撮った物と。




       という様子で、上の細長い小像はやはりちょっと特殊で、
       小さなブロンズ製の人物像や動物達の作品がたくさんあります。
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       ギリシャの影響を強く感じる頭部像
       美しいですねぇ!
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       ガラス製品。 
       練りこみガラスと言うのか、大変美しいもの!
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       小さな実用品の美しさ、楽しさ!
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       こちらは骨壷
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       ヴェネトの本土側、ちょうどヴェネツィアはトルチェッロ島の
       北に当りますが、アルティーノ・Altinoという村に
       国立の考古学博物館があり、ずっと昔に偶然寄って見た事があります。

       いまだヴェネツィアの歴史も、アクイレイアの遺跡の凄さも良く知らずでしたが、
       それでもその収蔵品の内容の凄さに驚いた記憶があります。
       少しだけ記述しておりますが、
       収蔵品のひとつに美しい青いガラスの骨壷がありました。
       こちらでどうぞ。
               
       アルティーノもその後の発掘が進んでいる様子ですので、
       来年にでも再訪問してみたいと思っています。




       これは灯火器と。
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       闘士の兜と頬宛。 兜には細かい浮き彫り。
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       日常用品の鍋釜類
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       これらは家具に取り付ける物でしょうか?
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       なにせ夥しい数の展示で、ここでは2枚のみに。




       美しいオレンジ色の指輪、メノウでしょうか?
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       金のブローチと、下は何でしょう?
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       真ん中はイヤリングで、右はピンの付いたブローチかな?
       緑色は何でしょう、ガラスかな?
       金の細工も細やかで、技術の高さが偲ばれます。
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       ざっとのご案内になりましたが、それでもたくさんの品々
       お疲れでしたしょう、 お付き合い有難うございました!!

       ヴォルテッラのご案内
       最後は近くの広場からの谷の眺めをどうぞ!
       城壁に囲まれているのも見えます。
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       トスカーナのフィレンツェ、またはピサ方面に行かれた時は、
       是非ヴォルテッラまで足を延ばして下さいね
       周囲の風景も他とは違い、荒々しく雄大で
       エトルスクの息吹が今も残る、素晴らしい博物館も是非どうぞ!!
       


       
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by italiashiho2 | 2016-10-11 00:03 | ・トスカーナ Toscana | Comments(2)