イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

italiashio.exblog.jp
ブログトップ
2011年 11月 05日

   ・・・ 「アンギアーリの戦い」始末記と、その周辺もろもろ ・・・

d0097427_15311790.jpg

       かのレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるという幻のフレスコ画が、
       フィレンツェはヴェッキオ宮、500人広間のヴァザーリの絵の下に
       見つかるかもしれない、という「アンギアーリの戦い」図
       つい最近調査が始まっている様子ですが、

       戦いに名を冠されたアンギアーリの町のご案内をしつつ、
       この町が戦闘の舞台になり、フィレンツェ側が勝った事は知っていても、
       では相手はどこの誰? 何が原因での戦闘だった? かを
       考えた事もなく、まるで知らない事に気が付きました。

       ならばと、あれこれ読み始めたら、これが嵌りましたぁ!
       信州信濃は長野市生まれ、ご幼少のみぎりには、もとえ、ガキの頃は
       川中島合戦の上杉謙信、武田信玄、真田幸村、真田十勇士、
       木曽の義仲、巴午前、などなどをお友達に育った私、ははは。
       
       「アンギアーリの戦い」そのものよりもその周辺事情、
       当時のいわゆる傭兵隊長の人となり生き様に、
       大いに我が祖国の戦国武者たちを思いだしたりしたのでした。

       そんな訳で、「アンギアーリの戦い」について、
       こだわりshinkai にちょっぴりお付き合い下さいませませ!

       トップは、レオナルドがこの壁画の為に準備した
       皆さんもよくご存知と思われる習作スケッチの一枚。
       もうこの迫力だけで、本当に壁の下にあったら?!
       とドキドキしますよね。

       レオナルド・ダ・ヴィンチの生家と、その周辺
       http://italiashio.exblog.jp/10382591

       レオナルド・ダ・ヴィンチの母親について
       http://italiashio.exblog.jp/10382550 


       「アンギアーリの戦い」があったのは1440年6月29日
       日本では室町幕府6代将軍足利義教の時代、
       1467年に応仁の乱が起こる、という時代で、
       
       実際の戦闘よりも彼の絵で名が歴史に残る、の感が無きにしも非ずの
       レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年生まれ、

       アンギアーリの東に位置するサンセポルクロに、1416年か7年に
       ピエロ・デッラ・フランチェスカが生まれており、
       この戦いの時には生地に住んでいなかったにせよ、
       1442年には戻り、コムーネの役員にもなっている事で、
       すぐその隣の地で起こった2年前の戦闘については、
       あれこれと聞いた事でしょうし、
       その戦いへの想像は、アレッツォのサン・フランチェスコ教会に
       残る彼の名作「聖十字架伝説」の2つの戦闘場面に反映されているだろう、
       と言われます。
       後ほどご覧頂きますね。


       アンギアーリから見る、サンセポルクロの町
d0097427_1532264.jpg

       では、この戦争はなにが原因で起こったのかと言いますと、
       2年前の1438年にフィレンツェ共和国の軍に応援された教皇軍が
       サンセポルクロの領土を取り戻した事に始まります。

       というのも、この町を治めていたニッコロ・フォルテブラッチョ
       Niccolò Fortebraccio da Montone の自分が死んだら教皇に戻す、と
       いう約束をしていたのが、1435年、つまり3年前に死去。
       
       これは、後にミラノ大公となるフランチェスコ・スフォルツァの弟
       アレッサンドロとの戦いの際に、怪我をして馬の下敷きになった所を、
       クリストフォロ・ダ・トレンティーノに討ち取られたのだそう。
       クリストフォロについてもあれこれ分かったのですが、
       傭兵全部については到底書ききれませんので、先を急ぎますね。

       この当時の法皇はエウジェニオ4世・Eugenio IVですが、
       所領返還の約束が守られなかったのは、その後釜にちゃっかりと
       縁繋がりであるフランチェスコ・ピッチニーノ・Francesco Piccinino
       が入り込んだのですね。
       彼はニッコロ・ピッチニーノ・Niccolò Piccininoの息子、甥が養子に入った、
       で、どちらも当時はミラノ大公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ・
       Filippo Maria Visconti の元で働いており、
       
       サンセポルクロはトスカーナとはいえ既にウンブリアのお隣。
       ウンブリアに狙いを付ける恰好の基地となる訳で、
       それを阻む為にも教皇側とフィレンツェが組み、
       1438年に取り戻したという事で、
       この前哨戦の後、
       本日の主題、1440年の「アンギアーリの戦い」となります。


       では戦場はどこ、となりますが、
       勿論アンギアーリの町中で戦いが行われた訳ではなく、
       こうしてこの急坂を下った、町の城壁のすぐ下、と記述され、
       橋を巡って戦いが繰り広げられた、と。
d0097427_15322960.jpg



       ならば橋はどこにあるのか、地図をどうぞ
       アンギアーリ・Anghiari とサンセポルクロ・Sansepolcro の
       距離は9K 程で、見える河はローマまで行くテーヴェレ河
       かってはアンギアーリの町の近くを流れていたのを
       1259年に渓の一番低いサンセポルクロ寄りに蛇行させたのだそう。
d0097427_15324636.jpg

       ですがこの流れとすると、
       ミラノ側の軍勢が集合したサンセポルクロに近すぎます。

       地図上にみえる例のまっすぐな道の名前をご覧下さいね。
       アンギアーリに近い部分に、Via della Battaglia・戦い通り とみえ、
       途中からその名がVia del Tarlati と名が変わります。

       ならばと衛星からの地図に替え、この辺りをじっくり観察し、
       蛇行して並木のある細い道、どうも細い流れがありそうなのを見つけ、
       ぐっと接近、遂に細い細い小川の流れと道を見つけました。

       それが地図に赤い点を付けた辺りで、この小川の先にある村の名、
       と言っても何軒かの集落ですが、にもご注目を。
       Mulinello・ムリネッロ・小さな水車、です。
       ならば、かってはテーヴェレに合流していた流れが
       ここを通っていて、この集落には水車があったのかも!

       はい、ここであるなら、アンギアーリの城壁の下近く、
       というのも納得です。



       この眺めは、真っ直ぐの道の北方面、
       平野がこんな様子であると、ご覧下さい。
d0097427_15331489.jpg



       平野の方から眺めるアンギアーリの町、サイトからの写真で。
d0097427_15333450.jpg



       で、戦いが繰り広げられた様子の模型を、サイトからの写真でどうぞ。
       奥の高台がアンギアーリの町で、坂を下って来たすぐの平野と分かり、
       今は小川でもかってはちゃんとした川で、というか運河だった様で、
       ここに橋がかかっていた事がわかります。
d0097427_15335354.jpg

d0097427_15344173.jpg

       ですが、下に書きます戦闘の次第を読んで頂きますと、
       この様に最初から綺麗に布陣して戦ったのではなく
       歴史に残る記述といささか違う陣構えに思えますので、
       その点を頭において以下をお読みくださいね。
              
       では両軍勢の指揮官とその兵力ですが、
       ミラノ側 総指揮官ニッコロ・ピッチニーノ
            総勢11000(そのうち騎士6000、歩兵3000、
            サンセポルクロで徴募した2000が含まれる)
       フィレンツェ・教皇軍側+ヴェネツィアからの援軍連合軍
            指揮官ミケロット・アッテンドロ・Michelotto Attendoloと
            ジャンパオロ・オルシーニ・Giampaolo Orsini
            総勢9400(騎士1400、歩兵8000という数字があり、他に
            4千の教皇軍指揮官シモネッタ・ダ・カステルペッチョ・Simonetta da Castelpeccio、
            4千のフィレンツェ軍、指揮官はネーリ・カッポーニ・Neri Capponiと
            ベルナルデット・デ・メディチ・Bernardetto de'Medici
            ヴェネツィアから300の騎士という内訳もありましたが、
            あとはアンギアーリからの騎士の参加かな?)

       数字については余り確信が持てませんが、ミラノ勢が数では優勢だった様子で、
       こちらがミラノ側総指揮官ニッコロ・ピッチニーノの肖像、ピサネッロ作。
d0097427_15341735.jpg



       ミラノ側の指揮官ピッチニーノは自軍の優勢を信じ、
       教皇軍がアンギアーリで馬の整備などで駐屯した事を知るや、
       6月29日の午後を合戦日と決め、急襲を掛けます。が、
       なにせ一本道、立つ埃に気がついた教皇連合軍はすぐさま迎撃に。

       ですが、埃が立つ事をなぜ考えなかったのか?!と、
       そのうかつさに少々呆れますね。
       奇襲をかけるのであれば夜か朝方、馬が嘶く事のない様に
       何かを口に噛ます、なんと言いましたっけ、あれ?
       馬の蹄鉄には草鞋を履かす、位な事はshinkaiでも知っとりまんがな!



       戦いの図は、ピエロ・デッラ・フランチェスカ描く戦闘図
       アレッツォのサン・フランチェスコ教会の「聖十字架伝説」の
       フレスコ画で、
       私めの古い小さな画集からで色も悪いのですが、
       同時代のピエロの画でご想像下さい。
       戦いの図の中央に挟まれる、美しい川べりの様子もどうぞ。
d0097427_1535446.jpg

d0097427_1536465.jpg


       ピエロ・デッラ・フランチェスカ ・ 出産のマドンナ 
       http://italiashio.exblog.jp/12569796


       こうして始まった戦闘ですが、夕暮れまでには決着がつきます。
       教皇軍の内のヴェネツィア勢騎士たちは、ミラノ勢の先頭部隊を押しとどめ、
       この一帯で唯一の橋を渡るのを防ぎ、
       という事は、川もかなり幅広だったのかもですね。

       他の連合軍は平野での戦闘に備えますが、
       橋が渡れない為にミラノ勢は他の増援部隊を後退させ始め、
       先に進んだミラノ勢は戦闘に入ったものの、やはり後退せざるを得なく・・、

       こんな様子の4時間の戦闘で、教皇側の包囲作戦が功を奏し、
       橋を超えていたミラノ勢の3分の一が断ち切られた格好で、
       多くが捕虜になったと。

       風の強い日、夕方になりとりわけ強く、立つ砂埃で
       目が開けていられないという日だったそうで、
       取り分け凄絶な闘いという訳でなくとも、
       マッキャべッリが皮肉をこめて描いた様に
       死者は馬から落ち踏みつけられて死んだ一人だけ、とはいえず、

       イギリスの歴史家 Michael Mallettによると、
       信頼できる数は、約900人が戦死したであろう、との事で、
       600頭の馬が死んだ、という記述もありました。



       さて年が経て1503年、フィレンツェのヴェッキオ宮は500人広間の
       向かい合った壁にレオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロが
       それぞれにフィレンツェの勝ち戦を語る壁画を描く事に。
       この時のフィレンツェ政府代表が、ピエール・ソデリーニ・Pier Soderini

       ミケランジェロが受けたのは、カッシーナの合戦・Càscina
       レオナルドは、既にご存知アンギアーリの戦い
       で、この両作品ともが未完に終わり、
       レオナルドの作品の上にはヴァザーリが現在残る壁画を描いた
       という事なのですが、

       このレオナルドの作品については、1603年にルーベンスが
       摸写をしたのが現在ルーヴル博物館に残っており、こちらです。
d0097427_15371989.jpg

       ですが、この摸写は実物の模写ではありませんで、ルーベンス当時は既に無く、
       1558年のロレンツォ・ザッキアの版画を基にしたものだそう。

       間に2人の翻訳者を挟んだような物ですが、
       それにしても大変な迫力で
       現在の再発見調査が大いに待たれますね



       そして散逸してはいるものの、レオナルドがこの作品の為に
       習作スケッチを何枚もしておりまして
       最初にご覧頂いたのもそうですが、次をどうぞ。
d0097427_15373664.jpg

d0097427_15381153.jpg

d0097427_15382451.jpg


      
       まさに様々なたくさんの戦闘が各地で繰り広げられた訳で、
       そのままだと歴史の記録に1行残ってお終いになりそうな戦い
       だったかもしれない、アンギアーリの戦いですが、

       レオナルドが描いた事により、またその実験的手法の失敗から放棄され、
       レオナルドを尊敬していたヴァザーリがその上に直に描く事を躊躇い、
       何センチかの隙間を開けて下地を作っているらしい事から、
       尚の事、この幻の名作と相まって名が残る「アンギアーリの戦い始末記」でした。

       フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮 その1
       http://italiashio.exblog.jp/10363693

       フィレンツェ ・ ヴェッキオ宮 その2
       http://italiashio.exblog.jp/10363547       

       
       ほんの何名か上に傭兵隊長の名も出たのですが、
       到底ここに書くだけのスペースも無く、
       最後一人だけ、アンギアーリ出身の当時の有名な傭兵隊長、
       現在の町の広場にその名を残すバルダッチョ・ブルーニ(ダンギアーリ
       Baldaccio Bruni(d'Anghiari)について、ほんの少し。
d0097427_1538526.jpg

       1400年頃にアンギアーリ近郷の生まれで、
       乱暴な馬鹿騒ぎの好きな若者、2度も死刑判決を受けながら、
       その都度逃げおおせ、
       傭兵になって戦いの経験を積み、どんどん大物に育ち、
       名声が上がるにつれ、それを人々は恐れもするようになります。
       当時フィレンツェに於いて頭角を現し始めた
       コージモ・デ・メディチを頂く党派もそうだったと。

       マッキャべッリの描く所によると、
       当時、彼ほどの肉体と魂を超える者はいない、という男。

       それが1441年9月6日フィレンツェはヴェッキオ宮に於いて
       殺害されます。
       ゴンファロニエーレ・ディ・ジュスティーツィア・Gonfaloniere di giustizia
       いわば政府の長であるバルトロメーオ・オルランディーニ・Baltolomeo Orlandini
       から呼び出され、裏切り者の名の元に殺し屋の手にかかったのですね。

       このオルランディーニをバルダッチョは以前に敵前逃亡で訴えた事があり、
       それを恨んでの、現在の立場を利用しての殺害。
   
       切りつけて、窓から中庭に放り出し、殆ど死んでいたのを斬首、
       遺体は広場に何時間か放棄された、という凄惨なもので、
       この逸話はフィレンツェの人々の心にも深く触れ、
       話を聞いた法皇も哀惜の念を禁じ得なかったと。

       彼は1439年2月16日にアンナレーナ・マラテスタ・Annalena Malatesta
       と結婚していたのですが、彼の殺害後、幼い息子ガレオット・Galeottoも死に、
       彼女は持ち物一切を売り払い、アルノ河向こうの修道院に引き籠ったと。
       はい、マラテスタ家の女ですねぇ!

       傭兵という仕事は、お金報酬次第でどちらにでも付き働く者ですが、
       それでも中には気に染まない仕事を断る、一国の主程の封土を持つ等など、
       様々な人間模様が窺われ、
       このバルダッチョの様に、判官贔屓の涙をそそる逸話もあります。

       そうそう、彼の幽霊がヴェッキオ宮の物陰に潜み
       復讐の機会を狙っているとか・・。
       訪問の際には、どうぞお気を付けて!



       最後は町のパンフレットから、時代衣装の行列を
d0097427_15392315.jpg

       
       なんとか上手く纏まっていて、お楽しみ頂けるように願います!!

       で、実は明日5日から9日まで、
       イスタンブールに仲間と出かける予定でして、
       アンギアーリをその前になんとかアップしたいと、
       必死で頑張ったのでしたぁ!

       これ以降は予約投稿による、「この1枚!」を何枚か、
       これも今夜考えないと・・!
       そして鞄の準備を致します。
       コメントを頂いても、ホテルで見る事は出来ると思うのですが、
       お返事は日本語が打てませんので、ご了承願います。

       ではでは、行って参りま~す!
       また、呆れられるほどの写真が撮れますように!!       
              

       いつも有難うございます、お世話様です。
       留守中も、
       励まし応援クリック、よろしくお願いいたしま~~す!

          人気ブログランキングへ
          
          人気ブログランキングへ     

          にほんブログ村 写真ブログ 海外風景写真へ

          にほんブログ村 海外生活ブログ イタリア情報へ

          

          blogram投票ボタン


   *・*・*・*・*・*・*・*・*・*
               
                     

by italiashiho2 | 2011-11-05 01:24 | ・トスカーナ州 | Comments(8)
Commented by cucciola at 2011-11-05 02:33 x
shinkaiさま、

こんにちは。
今回の記事、大変興味深く拝見しました。
まさに戦塵うずまくイタリア半島、という感じですね。名だたる傭兵たち、勢ぞろいじゃないですか!戦国時代という感じでわくわくしました。
マラテスタ家の女まで登場して、いや大河ドラマみたいです。
それにしても名前ばかり有名な「アンギアーリの戦い」、大々的なものだったんですねえ。レオナルドの作品のテーマになっただけのことはあります。こうなるとミケランジェロのカッシーナの戦いも知りたくなりますね!

それよりなにより、よいご旅行になりますように!
いってらっしゃいませ!!
Commented by K@AZ at 2011-11-05 05:53 x
こんにちは!
レオナルドは道行く人の表情をジーと見ていたり、座ってお喋りしている男性の横顔をスケッチしたりの映像もあのドキュメンタリーに入っていますが、やはりあれらのスケッチがすべていろんな作品に生かされていたんだろうな、って思いますね。あのドキュメンタリーの俳優さんはレオナルド役はフランス人でしたが良かったです。
飛んでイスタンプール~♪ 行ってらっしゃい!
Commented by italiashiho2 at 2011-11-05 10:21
★cucciolaさん、こんばんは! コメント有難うございます。

今漸くにあれこれ、明日の準備が済んだ所です。
有難うございます。あれこれ読んでいてとても面白かったです。傭兵隊長達が行ったり来たり、本当に分かるには当時の政治の動きも分からないと難しいのでしょうが、いやぁ、日本の戦国時代とまさに同じですね。

そうそう、この戦いにマンフレディ、あのチェーザレに殺されたアストッレの祖父がやはり参加していたのも分かり、そこからcucciolaさんが書かれていたカテリーナ・スフォルツァの娘のビアンカとの結婚の事、あれは彼が僅か10歳の時に、結婚契約がされたものの結局無かった結婚だったと分かりました。

行って来ます! また戻りましたら、メールさせて頂きますね。
Commented by italiashiho2 at 2011-11-05 10:25
★K@AZさん、こんばんは! コメント有難うございます。

はい、あのDVDをRAIが売りだすと良いですねぇ。 随分とあれこれ調査をした学者の研究を基にしていた様ですから。

彼は画家でもありましたけど、当時の万能の天才でもあり、絵を描いているだけでは物足りなかったのでしょうね。

有難うございま~す、行って来ます。
Commented by kazu at 2011-11-09 14:50 x
3回にわたりのアンギアーリ面白かった!
あのまっすぐのびる道路が以前のブログで印象に残っていて地図をみながらアンギアーリの戦いの場を追い久しぶりに歴史の勉強ができました。
レオナルドのスケッチやはり素晴らしい。
大好きな偉大な画家です。
Commented by italiashiho2 at 2011-11-10 05:58
★kazuさん、こちらにも有難うございます!

ああ、面白かったと言って頂けるのが一番嬉しいです。 いや、この戦いの周辺事情を読むのがとても面白かったのですが、あの当時の戦いにかける男達の様子が、日本の戦国武者の姿と重なり、自分の子供の頃の様子までも思い出しました!

はい、レオナルドのスケッチは凄いですよね、習作デッサンとはいえ、もうこの迫力! 彼の肖像画の類はたくさんあっても、戦いの絵というのは無かったと思うので、これはやはり、ヴェッキオ宮に上手く残っているのを願うばかりですねぇ。
Commented by BB at 2012-11-23 21:24 x
んっま!
知らんと訪ねたアンギアーリ。
はい、もちろんレオナルドの作品は知っておりましたが…。
歴史は、そうでしたかぁ〜!
このブログのウィンドウーを二つ開いて、地図を見ながらお勉強しましたワン。
気を付けて、楽しいイスタンブールの旅をなさって下さいね。

ナヌ! もう、お帰りになった@P@! 
いまは、個展に集中です! かな?あいな。
Commented by italiashiho2 at 2012-11-24 07:16
★BBさん、こんばんは! はは、お元気回復のご様子、結構毛だらけ猫灰だらけで嬉しいです。

ね、レオナルドの例の絵が余りにも有名になっているのですけど、良く考えてみたら何も知らなかった事に気がつき、知るのがとても面白かったです。

ははは、イスタンブルももう1年前になりましたねぇ。 あそこはとても楽しかった!


<<    ・・・ オリアーノ村から...         ・・・ アンギアーリ ・... >>