イタリア・絵に描ける珠玉の町・村 ・ そしてもろもろ!

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2016年 02月 05日

・・・ ヴィテルボ 2 サンタ・ローザ ジェズ教会 泉 ファルネーゼ邸 ・・・

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       中世13世紀に、短いながらも教皇庁が置かれたヴィテルボの街。
       当時に一番の繁栄を迎え過ごし、旧市街は現在もそのままの
       建物雰囲気を保っていますが、
 
       今日はまず、750年前からずっと毎年9月3日の夜に行われる
       サンタ・ローザの大灯明の行進について、
       これはまるで知らずにおりましたが、あれこれ知るとその規模の大きさ、
       市民の熱中さにいささか驚きましたので、ご案内を。

       トップの写真は、その大灯明なのですが、
       高さ28m、重さ5トンの大灯明が、街中の明かりを全部消した
       暗い道を、100人もの男達の肩に担がれ、運ばれるのです!

       この大灯明はマッキナ・ディ・サンタ・ローザ・Macchina di Santa Rosa
       と呼ばれ、マッキナというと一般に機械とか車とか指すのですが、
       教会用語で「聖像を運ぶ山車」の意味もあると知り、納得です。



       これをどう知ったかといいますと、偶然に小路を入って行き
       見つけた扉「サンタ・ローザの家・Casa di Santa Rosa」で、
       扉に見える張り紙は、見学時間の案内。
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       サンタ・ローザなる人物も知らず、調べ、13世紀前半に生きた
       フランチェスコ会派の尼僧であった事、僅か18歳で亡くなっていますが、

       皇帝派(ギベリン)と教皇派(グエルフィ)の敵対する中、
       熱烈な教皇支持派で、異端信仰とも戦った方で、
       ヴィテルボの守護聖女として愛されている事などなど。

       聖女・サンタと書いておりますが、実際にはまだ列聖されておらず、
       現教皇フランチェスコ様の在位間にと、運動が続いているとの事。




       で、この家、聖所はどこにあるかと言いますと、
       街の地図の右上方緑で囲って3と打っている場所に。
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       という事で、今回のご案内はサンタ・ローザの大灯明の他に、
       地図の真ん中から左に見えるジェズ教会・Chiesa del Gesù
       そしてその左下に4と打ったファルネーゼ邸・Palazzo Farneseを。

       そして次回最後に、あれこれ新しいニュースも仕入れました、ははは、
       教皇邸・Palazzo dei Papiと、サン・ロレンツォ聖堂・Cattedrale di S.Lorenzo
       をと、分けることに致しましたので、宜しくお願いいたしま~す。
       



       さて、大灯明の大きさ、重さは上に記した数字が標準でして、
       というのも、大灯明は5年毎にデザイン・コンクールによって選ばれた、
       新しいのが登場してくるからでして・・!

       担ぐ100人もの男達はこんな様子で、不謹慎ながら、はは、
       一瞬昔のハリウッド映画「クレオパトラ」とか思い出しましたぁ!
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       何年のかは知りませんが、こんな過去の大灯明の写真も見つけ、
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       こうなると、どこを通るのか知りたくなるでしょう、皆さんも!
       今回は割とすんなり行程図も見つかりまして、ははは、
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       1のローマ門から始まり、2.フォンターナ・グランデ広場
       3.中心のブレビシート広場 4.エルベ広場(ライオンの泉のある)
       5.コルソ・イターリアを通り 6.ヴェルディ広場
       6.上で見て頂いたサンタ・ローザの家(聖所とされている)

       750年前の1258年9月4日、7年前に亡くなった聖女の遺骸は、この日
       埋葬されていた共同墓地から移動天蓋に載せられ、クララ会修道院に。
       最初に見て頂いた「サンタ・ローザの家」の左手に、
       大きな教会があり、そこに現在も彼女の遺骸が。

       という事で、彼女の祭日は毎年の9月4日で、その前夜3日21時に
       この大灯明が街を練り歩く、という伝統的な宗教行事なのですが、
       まさにこれで無形の世界遺産指定なのだそう!で、
       その前日2日には、ファッキーノ(複ファッキーニ)と呼ばれる
       担ぐ男達の行進と時代衣装の行列も行われる様子。

       となると実際にどんな様子なのかご覧になりたいでしょう?!
       はい、あれこれ試写をし、ははは、良いのを選びましたぁ。

       ローマ門からの出発。 ファッキーニが灯明の下に入り込み、
       ソッレヴァーテ・エ・フェルミ・持ち上げて、止って、
       の号令一過、移動が始まります。

       プレビシーテ広場に見えてくる大灯明。そして広場で3回転!
       真っ暗な中に、最初は屋根越しに塔の頂上のみが見え、
       そして道の角から全身がするっと見えて来ると、
       撮影者がマンマ・ミーア!と声を上げますが、
       いやぁ、shinkaiもマンマ・ミーア!と一瞬鳥肌が立ちました。

       そして広場でゆるゆると3回転するのにも、
       わっ、2回転している! 本当は1回転しかしないんだよ、
       と聞こえる間に3回転!

       こちらは総集編的、画像が綺麗で大灯明の細部も良く分ります。
       ファッキーニ達が当日の前に精神統一する場面とか、
       道が狭くて通り難い場所など、号令一過台座の下に入り込んだり、
       街の人々の熱狂も良く分ります。

       今時は街のお祭りも、第何週めの日曜に、とか移動するのが
       普通なのですが、
       9月3日21時、と定日定刻のお祭り、それもこの熱狂さ!
       聖女の名の下に、ヴィテルボの人々の一つになる大灯明の運送なのですね。




       さて前回の続きで、中心にあるプレビシート広場・Piazza del Plebiscito
       から、古い建物を眺めつつ南に辿ります。
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       そして右側に開けるジェズ広場とサン・シルヴェストロ教会
       Chiesa di San Silvestro、または広場の名のままジェズ教会と呼ばれますが、
       この教会内で13世紀に、今も歴史に語られる復讐殺人が行われました。
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       まずはこの大変古い、多分紀元千年より前のものだろうという、
       石造りの美しいロマネスク教会の正面細部をどうぞ
       正面上に帆形型鐘楼があり、左右にライオン像。
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       そして正面扉上の半円には後の時代のフレスコ画
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       これは入り口左に掲げられた碑
       教会の設立年と名前の下に、
       1271年3月13日の朝、ミサの最中に・・、と殺人事件が記されます。
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       内部の写真がサイトで見つかりましたので、ご覧を。
       身廊のみのいたってシンプルな小さな教会なのですが、
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       ここで歴史に残る残虐な殺人が繰り広げられたのですね。

       上記の通り、1271年3月13日の朝
       シチリア王であるカルロ1世ダンジュー、フランス王フィリッポ3世、
       イギリス王エドワード3世の甥であるヘンリー・アルメインが列席の上、
       当時未だに空席のままの次の教皇の早い選出を願うミサの最中に、

       ギュー・ドゥ・モンフォール・Guy de Monfort(1243-1288)と、
       その弟シモン・Simonが入り込み、
       彼らにとっては従兄弟に当るヘンリー・アルメイン
       Henry Almain(1235-1271)を、
       殺害された彼らの父親と兄弟の復讐に殺したというもの。

       上がギュー・ドゥ・モンフォールで、下がヘンリー・アルメイン
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       復讐劇のお話は、6年前の1265年に始まります、じゃん。
       1265年の8月4日に行われたエヴァンシャム・Evenshamの戦いで、
       これはギュー・ドゥ・モンフォールの父親シモン5世が率いた
       いわばイギリス国王に反逆する形の戦いだったようで、

       イギリス歴史において重要とみなされる戦い、騎士道の戦いが
       終わりを告げたと見なされるんだそうでして・・。

       つまりそれまでは戦いにおいて騎士(貴族)が殺害されることは稀で、
       捕らえられ、身代金を払えば自由になる、という形が主だったのが、

       このエヴァンシャムの戦いの王党派の主となったエドワート皇太子、
       後のエドワード1世イギリス国王側は数においても圧倒的で、厳しく、
       戦いの初めに裏切りにも合い壊滅的となっていた叛逆派側の、
       ギューの長兄ヘンリーは直に、そして父親のシモン5世モンフォールも殺されますが、
       残虐にも四肢切断、死体は泥の中に引きずり込まれ、という冒涜を。

       戦いに参加していたギューは捕虜となりウィンザーの城に監禁されたのを、
       1266年春看守を収賄し逃げ、フランスに渡り、
       そこで戦いに参加せず逃げおせていた弟のシモンと出会い、
       あちこちの戦いに傭兵として参加しながら、イタリアに辿りつきます。

       トスカーナで当時副王だったカルロ・ダンジューに仕える様になり
       1270年にはソヴァーナ・Sovanaの伯爵、城主の一人娘
       マルゲリータ・アルドブランデスキ・Margherita Aldobrandeschi
       と結婚し、2女児も。

       フィレンツェでの戦いにも参加し、冷酷さを評されますが、
       カルロ・ダンジューからノーラ・Nola、ナポリ近郊の領土も受け伯爵と。

       そして1271年、彼らの従兄弟でもあり、イギリス王の甥でもある
       ヘンリー・アルメイン(コンウォール)がヴィテルボに滞在中であるのを知り、
       弟シモンと駆けつけミサの最中に入り込み、
       祭壇にしがみつき助けを求めるヘンリーを殺害した、という・・。

       彼以外にもミサを補佐していた2人が犠牲になったというのですが、
       上で写真でご覧の様に、あの狭い教会の中は大騒ぎとなったでしょうし、
       なぜと考えていて気がついたのは、皆がまさかと仰天したのと、
       多分ミサに参加というので、誰も武器を携えていなかったのではないかと。

       当時ヨーロッパでも大スキャンダルとなった教会内の復讐劇ですが、
       ギューは罰されず、聖なる教会内を汚した、と破門されただけ!

       何年か後には破門も解け、再度カルロ・ダンジューに仕え、
       1283年からは教皇軍の隊長となり、シチリア晩祷戦争に参加中
       1287年捕虜となり、メッシーナの獄で翌年に没。
       

       と長々と述べて参りましたが、
       ギューが結婚したマーガレット・アルドブランデスキについて
       ギューの没後彼女が再婚した相手、再々婚の相手、そしてまたその次と、
       はぁ、余程魅力に富んだ、まぁ、領土も魅力なのでしょうが、ははは、
       諦めきれずに教皇に再婚を願った男のその過去などなど、
       なんとも興味深く、芋ずる式にずるずると引きづられ読みましたのです、はい。

       現在のスキャンダルは単に生臭いだけですが、はは、失礼をば、
       歴史にいささかの残り香で垣間見えるスキャンダルには、興味津々のshinkai!
       今回は残念ながら諦めて先に進みますが、ははは、
       いずれまたゆるゆるとお話いたしましょう!




       このジェズ広場にも泉がありまして、これ!
       いささかの藻の掃除が必要なようですが、ははは。
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       そして広場には教会に向き合う形でこんな塔、13世紀の物で
       ボルゴニョーネ・Borgognoneの塔、正確ではないが約30mの高さと。
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       名の由来は、1218年当時町の行政長官であったウゴリーノ・ボルゴニョーネ・ 
       Ugolino Borgognoneがここに土地を持ち、住んでいたとの事ですが、
       こうして見ると、今もどなたかが住んでいる様子ですね。




       広場の脇の、古い大きな屋敷も修復されて使われており、
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       傍らのドアのノブも、こんな良い感じ。
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       広場の奥、端の家のベランダからこの2匹が顔を出し
       ひっきりなしに吠えるのですよね。 ばかぁ!
       2年前の訪問時にも、この内の片方を撮っているのがありましたっけ。 
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       角を曲がり細い如何にも古い家並みの通りを行き
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       出てくるのがピアッツァ・デッラ・モルテ・Piazza della Morte,
       死の広場と凄い名なのですが、
       どうやら今見える建物に隣接の教会に16世紀、
       オラツィオーネと死の信者会というのが作られ、それに由来するとの事。
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       で、ここにまた泉があり、サン・トンマーゾの泉・Fontana di San Tomaso
       または広場の名から死の泉・della Morte、
       13世紀半ばの古い設置で、まさに古い紡錘形
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       サイトから見つけた1939年、という古い写真をどうぞ!
       これだと、泉がかなり大きな事がお分かりでしょう?
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       上の写真でもお分かりのように、広場の角にカフェがあり
       片側の小さな店は、こんな古い鉄の椅子を使っていて、
       おまけに聞こえてきた音楽がシャンソン、なんとも良い雰囲気でしたぁ!
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       となると、こんな石畳の落ち葉も撮りたくなろうというもの、ははは。
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       広場から道を西に曲がると、下の道を渡るドゥオーモ橋があり、
       奥に見える鐘楼は、街のドゥオーモ、サン・ロレンツォ聖堂のもので、
       橋の向こうに見える右側の建物はファルネーゼ邸・Palazzo Farnese.
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       道の高さ1階に当たる部分の窓と、2階の窓
       1階の窓に付いているのは、ファルネーゼ家の紋章百合の花で、
       この百合の花だけの紋章というのは1545年まで使われたものだそう。
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       道から見る建物はいたって素朴な、2階に木製のバルコニーを持つ
       13世紀の物で、元々はティニョージ家・Tignosi の物だったのを、
       1431年にラヌッチョ・ファルネーゼ・Ranuccio Farneseが購入したと。
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       当時ラヌッチョはヴィテルボの町をフォルテブラッチョ・Fortebraccio da Montone
       とジャコモ・ディ・ヴィーコ・Giacomo di Vicoの攻撃から護る役を受け、
       この地に住むようになったといい、

       既に彼の息子2人フランチェスコ・ガブリエーレ・Francesco Gabrieleと
       ピエール・ルイジ・Pier Luigi はヴィテルボに住んでいたといい、
       とりわけピエール・ルイージは町の市民権を持ち、
       1468年生まれのアレッサンドロ、後の教皇パオロ3世はこの家で生まれた、
       という説もある様子で、(一般にはヴィテルボ近郊のカニーノ・Caninoと)

       少なくとも子供の頃のアレッサンドロは、その妹のジューリアと共に
       この家で過ごしたのは間違いないと。
       そして教皇パオロ3世の在位中に、ファルネーゼ家がこの屋敷を引き払ったと。



       屋敷の広い内庭と、220代教皇パオロ3世像、ティツィアーノ画。       
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       ファルネーゼ邸の隣の屋敷の入り口の様子と、
       どうやらここも何か謂れのある建物の様子でしたが、
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       その向かいにあったこれも古い屋敷、聖職者事務所という張り紙のあった
       入り口の、かっての覗き窓!  手振れご容赦。
       こういうのがそのまま残されているのが、可笑しいと言うか、ははは。
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       この辺りの建物を抜けると、聖堂広場が近いのですが、
       その手前、右手の壁の足元が見えるように崩されていて、
       エトルスクの壁だという説明がありました。
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       そうなんですよね、エトルリア人も建築術に関しては優れていた様で、
       こんな石組みを見ても、
       中世の石組みよりもずっと大きな石を使っていたのが、良く分ります。




       この先はすぐにドゥオーモ広場、ドゥオーモなのですが、
       今回のご案内はここでお終いという事で、

       最後は橋の付近で見かけた、かっての共同洗濯場・ラヴァトイオと、
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       橋から見下ろす、どこかのお屋敷の庭の泉。 
       可愛い泉ですが、これは大変な贅沢ですねぇ!
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       そして、小さな教会だったような建物
       今は廃寺かな・・。
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       さて漸くにヴィテルボの2回目も何とか済みまして、
       次回は13世紀の教皇庁の建物と、ちょっと驚いたニュースも!
       と、街のドゥオーモで、ヴィテルボのご案内もお終いです。
       やれやれ。 はぁい、どうぞお楽しみに!



     *****

       水彩+色鉛筆画ブログには、 途中経過と仕上げに向けての3枚と、 農家の納屋 を
       アップしています。
       見てやってくださ~い!    



     *****        
       
       いつもブログご訪問、有難うございます!     

       
    




by italiashiho2 | 2016-02-05 01:44 | ・ローマとラツィオ州 | Comments(2)
Commented by シニョレッリ at 2016-02-05 16:06 x
shinkaiさん、お早うございます!

サンタ・ローザのお祭りの話を聞いたことがありますが、具体的にどのようなものか、初めて知ることが出来ました。有難うございます。

サンタ・ローザの家は、私が行くと何時も閉まっていて一度も入館したことがありません。確か週に2日、それも午前中のみ、午後のみの開館だったと思います。

ジェズ教会も、近頃は土曜の夕方と日曜朝に行っても閉まっていますね。
拝観したことがありますが、単廊式、ロマネスク様式の小さな教会なので、暗殺の現場とはチョット信じられませんでした。左右の側壁に設けられた礼拝堂に暗殺者が身を潜めていた、なんて話ならば頷けますが、ここでは「暗殺」ではなくて『明殺』だ、と余計な事が頭に浮かびました。

古寺名刹が多いヴィテルボですが、人口数に比べて教会が多過ぎて、一教会当たりの檀家(カトリックの場合、何て言うのでしょうか)数に限界があるのでしょうか、廃寺や休眠寺が増えているような気がします。
Commented by italiashiho2 at 2016-02-06 00:41
★シニョレッリさん、こんにちは! コメント有難うございます。

そうなんですよね、単に宗教のお祭りではなく、それに一般庶民の信仰心とひたむきな直情が固まったようなお祭りですね。 多分どんどん灯明が大きく、重たくなってきたのではないかと思えて、お神輿みたいな大灯明ですものね。

開館時間の部分も写真に撮っていて、木曜と日曜の9時半から12時、午後は16時から1時間、冬は2時間みたいで、それも呼び鈴を押して待つように、と書いてありました。

はは、暗殺ではなく、明殺ですか、ははは。 きっとカルロ・ダンジューに仕えていたので、それで兄弟は中に入れたのだろうと思いますが、こういう感じで殺害されるというのは、まったくもって運命だったんだろうな、という気がします。

そうですねぇ、泉だけでなく教会も確かに多いですねぇ。 私の住んでいる田舎でも村ごとに教会はあるのですが、どうやら神父さんは教会を掛け持ちで動いているみたいですね。
かと思うと、ヴェネツィアなど教会の中で好きな音楽をかけている所もありますし、いやぁ、あの世界も良い区域の教会を受け持つかどうかで、随分と違うんだろうなぁと思ったりしますです、はは。


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